Destructured
Yutaka Yamauchi

2016

留学のすすめ

もうすぐ年が終りますね。しかし1月には論文や本の締切が5本あって、これまでになくヤバい正月になりそうです。

先日学部生の方が海外に留学したいので話しをしたいということで来られました。21歳とのこと。海外に出て行ったときの自分が懐しいです。どんどん海外に行って欲しいと言いながら、微妙な話しをしてしまったので、勝手にもやもやした気持ちになってしまいました。MBAに行きたいというので、MBAはもはや価値がないという話しから始まり、研究者になるなら博士で留学するのがいいと言いつつ、でも研究者の道はシンドいので勧められないという話しをしていました。とにかく海外に行って欲しいと言いながら、どこが一番いいかと聞かれたので、自分は今ではLAもベイエリアも住んで仕事をしたいと思わないという話しになってしまいました(だからと言って京都に住みたいということではありません)。自分の言っていることを否定していることに気付きました。

なんでこういう話しになったのか… とにかく海外に出て欲しいと思いますが、それは海外に出ること自体にはそれほど意味がないことを理解するためであるというなんとも弁証法的な事実を気付かされました。当たり前のことですが、海外に出るとそこが一つの自分の場所となるので、次にはそこから別の場所に行きたいと思うようになります。コスモポリタンであるということも、それが当然のことですので(みんなそうなので)、何の価値もありません。もちろんそれが簡単であるという意味ではありません。だからこそ、海外に出て行って欲しいと思います。

とりあえず海外に行けと言いながら、今はとりあえず行くということが難しい時代です。昔のようにとりあえずMBAに行けばいいというようなことは通じなくなりました。自分の専門性を決めて、それに合った留学先を考えなければなりません。例えば、自分が博士課程で勉強したUCLAでは、MBAを減らしながら(FEMBAを拡充しつつ)、ファイナンスなどの専門性を持った修士課程(Master Program)を作ろうとしています。MBAができる前には専門的なMaster Programがあったわけですので、MBA以前に回帰しているわけです(ランキングにはよくありませんが)。そういう専門性を目的とした留学はかなり成果があるだろうなと思います。他には、自分の周りでヨーロッパにデザイン系で留学される方も多いです。

また、基本的には留学というのはお金をもらってするものであって、自分からお金を払ってするものではありません。米国の博士課程では大抵何らかの奨学金がついてきます。最低3年間は奨学金とRA/TA、それ以降は選抜がありますが別の奨学金があります。私も関わっていますが、UCLA Anderson(ビジネススクール)ではNozawa Fellowshipというのがあって、日本人留学生に特化した支援をしています(MBAでも出る数少ない奨学金です)。デンマークでは国の制度として博士課程(Ph.D. Fellow)には年間500万円ぐらいの支援があります(それが大学にとって足枷となっているのですが)。

また海外に行く別の方法として、企業インターンの制度は非常に重要です。私が学生だった10年ぐらい前なら、企業の研究所がインターンを受け入れてくれました。私は修士のときにフランスのXerox Research Centre Europe (XRCE)に、博士1年目からXerox PARCに行きました。日本にいると考えられないですが、米国のインターンはかなりの給料がもらえます。そのころで月5,000ドル程度はもらえました。これはGoogle、Intel、IBM、HP、Sun Microsystems(もうないですね)などでも同様でした。今ではもっと条件がいいだろうと想像します(ご存知の方は教えてください)。もちろんそれなりの専門性があってこそ受入れられるわけですが、学生なので基準はそれほど高くないです。ビザもサポートしてくれます。お金の問題はどうでもいいとして、重要な経験になります。私の博論の3分の2はPARCで書きました(学位を取る前にXeroxに就職してしまいましたので必ずしもインターンだけではありませんが)。またフランスで過した体験はその後の人生にとても強く影響しています…

加えて、今は自分が学生のころから考えるとうらやましいぐらい、交換留学や大学が支援する留学の仕組みが整っています。かなり多くの方々がこのような制度で留学されています。データを見たわけではありませんが、自分が学生のころよりも今の学生は積極的に海外に出ているように思います。この相談に来た学部生もそれを利用して、2カ国ぐらい行くらしいです。素晴しいですね。自分の博士課程の学生にもできるだけ海外に行くように支援したいと思います(すでに3カ国行っていて、来年は4カ国目です)。

とにかく海外に行って欲しいと思います。

ヨーロッパのビジネススクール

今回ヨーロッパのビジネススクールをいくつか回って得た感想です。ヨーロッパの経営学は、北米の経営学とは根本的にスタイルが違います。もちろん、ヨーロッパでも米国中心のジャーナルに成果を出すことが求められますので、米国的なスタイルを取り入れているところも多くなりました。しかし、違いは歴然としています。

例えば、デンマーク、イギリスなどのビジネススクールでは、最低限知っていないと議論に加われない理論的な知識というのがあります。よく聞かれるのは、Nietzsche, Heidegger、Deleuze、Foucault, Agambenなどです。一日に2、3回はそういう議論を聞きます。経営学がヒューマニティの領域と密接につながっています。これは米国のビジネススクールではあまりないことのように思います(日本でも)。もちろん一般的にという話しであって、中には色々な人がいますが。

私は米国のビジネススクールでトレーニングを受けて、現在はヨーロッパ的な研究に寄っているようなところがあります。この両方を見て、バランスを取ることの重要性が大事だと思います。ヨーロッパ的な研究は微妙な差異に対して敏感に深いところを炙り出すことができスリリングなのですが、結局哲学的な概念を使うことの必然性がわからないものも少なくありません。結果的に論文にならないモノも多いです。一方で、米国的な研究の問題点はその裏返しで、わかりやすい研究ではありますが、逆に予想ができて面白さがないという感じです。

私なりの結論としては、経営学の研究者は2つの別の理論軸を意識的に分けて培う必要があります。
  • 理論1 貢献する対象となる理論。つまり経営学の理論。この理論の問題を炙り出し、その問題を乗り越えることで貢献します。
  • 理論2 理論1の問題を乗り越えるために依ツールとして拠する理論。ここで哲学が出てきてもいいですが、あくまでも理論1が貢献先です。

ヒューマニティに寄っている人々は理論2だけに力点を置きすぎて、読者にとって貢献がわからなくなることが多いです。何よりも理論1が貢献先です。私の場合、理論2は意識して利用していても、論文には明示的に書かない場合も多いです(例えば、Hegelなんかを論文に登場させる利点があまりありません)。むしろそういうnamedroppingをしないでも理論1への批判に筋を通すというエクササイズが重要です。

一方で理論1だけでは、深く前提を切り崩すような研究ではなく、薄っぺらい研究になってしまう傾向があります。なぜなら理論1を批判していくには、何らかの視座が必要となりますが、その源泉が理論2であることが多いからです。仮説を検証したとか、経験的に何か新しいことがわかったとか、帰納的にデータから概念を浮かび上がらせたというような論文となり、厚みがありません。

ということで、理論1と理論2の両方を意識して使い分けないといけないのです。自分の学生には、博士論文のために前者の理論1を完全に理解することは必須ですが、自分が今後依拠していくような理論2を2つぐらい作り上げて欲しいと思います。理論2は現状に対してかなり批判的に考えることができるような力強い視座がいいと思います。私の場合は(米国発ですが)エスノメソドロジーであったり、批判理論と呼ばれるようなものであったりしますが、Foucaultでも、現象学でも、ポストコロニアリズムでもいいと思います。

そのためにはかなり広く読んで理解した上で、自分の依って立つものを選ばないといけません。教員のガイダンスが重要だと思います。その後のキャリア全体にわたっての資産となるでしょう。一方でそれがないと、筋の通った学者のキャリアを作るのは難しいように思います。

もちろんこのような指導ができるようになったのは最近で、自分もかなり苦しみました(誰もそのように指導してくれなかったので)。

新しい本: 文化のデザイン

私ががらにもなくブログやFacebookを始めたのは、書いた本が売れないという悲壮な状況からでした(売れないというよりも読まれない理解されない)。版を重ねていますが...

その本の延長として、現在「文化のデザイン」について本を執筆中です。来年4月か5月にはできると思います。京都大学デザイン学の教科書シリーズ(共立出版)で、『組織・コミュニティデザイン論』(杉万俊夫先生、平本毅先生、松井啓之先生との共著)となります。デザインスクールの組織・コミュニティデザイン論という授業の内容を教科書にしたものです。杉万先生が40年間の研究の成果をまとめてコミュニティデザイン、平本先生には組織のデザインをお任せしています。私は文化のデザインと総論を書いています。松井先生は全体の仕切りをしていただいています。教科書とは言え、博士課程を想定したものですので、他には存在しないようなとんがった内容となっています。

なぜ「文化」なのかと思われているかもしれません。文化のデザインは、デザインの言説の次のステップとしては必然だと思います。まずは現実的なところから説明したいと思います。

現在経済的な価値というのは、商品自体では維持できなくなってきています。基本的には市場で流通してしまうと、シミュラークルの一部となり何かちっぽけなものでしかなく、特別な価値が失われる傾向があります。Boltanski and Chiapelloの議論に依拠すると、このような状況で価値を生み出すとすると、市場で取引されていないものを取り込むしかないわけです。つまり文化、芸術などです。特に芸術は経済原理と反する理論を構築し自律化してきた背景があります。

資本主義はこの段階においては完全に矛盾しています(いつもそうですが)。つまり自らが排除してきたもの(市場の外のもの)にしか、価値を生み出す源泉が存在しないというアイロニーです。現在企業がデザインに注目していますが、それは資本主義のこの段階の当然の帰結です。デザインという概念によって、資本主義にとっては本来外部性であるところの芸術の価値を取り込もうとしているのです。デザイン思考を提唱している人はこのアイロニーを理解しなければなりません。

だから今こそ文化のデザインなのです。というか、それしかいないとも言えます。企業が今後価値を生み出すとすると、何らかの形で文化のデザインに関わらざるを得ません。文化のデザインが必然であるとはそういう意味です。間違いなく、文化をうまく捉えて作り上げた企業が次の時代をリードします。逆にそれができないと、常にコスト競争にさらされるでしょう。

次に、文化のデザインがデザイン学にとって重要となる学術的な理由を説明したいと思います。デザインの言説は、他のあらゆるものと同じように近代からポスト近代への移行に悩んでいます。昔はプロダクトやグラフィックというモノのデザインで閉じた領域でしたが、その後で体験のデザイン、サービスのデザイン、言説のデザイン、社会のデザインというように広がってきました。デザインが単にモノのデザインをしていたのでは価値を維持できなくなったのです。

しかしその理由は別のところにあります。ポスト近代に入るにつれて、デザインの対象が確固としたモノではなく、何かわけわからないものになってしまったということです。つまり近代にはぎりぎり維持することのできた本質主義(背景に何か本質的な実体があるのではないかという考え方)を維持できなくなり、何か本質的なものをデザインすることができず、デザイン自体がデザインするものの意味を問わざるをえなくなりました。ここにデザイナーの不幸が始まります。つまり、デザイナーはデザインするだけではなく、デザインとは何かについて絶対に答えの出ない問いに答えなければならないのです。

私はこれは祝福すべき発展だと思います。つまり古臭い近代のようなものと手を切ることができるわけです。しかし本質主義から本当に手を切るのは至難のわざです。サービスデザインもいつまでたっても人間中心設計を捨てきれません。社会のデザインというときに、何か実体的な「システム」や「制度」のデザインに落とし込むような安易なデザインに陥ってしまうのでは意味がありません。

そこで文化のデザインです。つまり、文化という最も本質主義から離れたもの、つまりデザインできないと思われているものをデザインの対象として据えることで、本質主義から手を切ろうということです。つまり文化のデザインを掲げるのは、研究上の戦略なのです。文化のデザインができないなら、デザイナーの生きる道はないでしょう。私はデザイナーではありませんが、デザインに貢献したい思いから、意図的に文化のデザインを掲げているのです。

その内容はブログで徐々に説明していきたいと思います。

ビジネススクールの教員の給料

いろいろ考えさせられることですので... 下記はたまたま周りから聞いた話しですので、あしからず。またビジネススクールに限った話しです。

米国のビジネススクールの教員の給料は、日本の(国立大学法人の)教員の給料と比べものになりません。フルプロフェッサーで150k USD(1,600万円)あたりが相場でしょうか。チェアがつくと倍になります(つまり300k)。

英国のビジネススクールは、現在の為替レートで日本の国立大学の給料より2割ぐらいいい感じでしょうか(
高山佳奈子先生が45歳940万円ですのでそれと比べて)。1年前の為替なら全く話しが違って5割ぐらいの差になります。プロフェッサーで、75k-100kポンドのレンジです。

イギリスからデンマークに移った人に聞くと、交渉したけど給料が減ったと聞きました(Brexitの前)。色々な要因によると思いますが、デンマークの方が若干低いというのは意外でした。デンマークはそもそも職業間の差が比較的に少ないです。またデンマークは税金が高そうに見えますが、外国人は5年間税金が優遇されますので、それほど悪い条件ではありません。

フランスは一般的に大学教員の給料は問題があるぐらい低いのですが、(グランゼコールの)ビジネススクールはある程度の水準にはなります。さらに、トップクラスの英文ジャーナルに論文が通ると1本につき10kユーロのボーナスが出るところもあります。アジアの国に多い制度ですが(タイだとUSD15k)、バカにならない額ですね。

ただし海外の大学の給与は交渉などで変化します。イギリスで学内の重要な仕事についた知り合いは120k(1,700万円程度)です。別のイギリスの知り合いは交渉して破格な給料をもらっていて170k(2,450万円程度)です。これはかなり例外です。この方はかなりの研究資金・寄付金を集める力があります。それから副収入もありますね。

余談ですが、米国と勝負をしようとするシンガポールは著名な研究者の招聘に力を入れています。ある場所では大物を年収1億円ぐらいで招聘しようとしたという話しも聞きました(国立大学です)。

ちなみに上記はフルプロフェッサーの話しですので、私は准教授で年齢的にも上記の水準より
はるかに低いです。何の文句もありません。6年前にシリコンバレーから戻ったときにちょうど半分になりましたが(大学ではなく企業でした)、税金も生活費も日本の方がかなり低いです。

日本の国立大学の教員の給料水準は低いし改善の余地はありますが(特に海外から呼ぶために)、逆に自分が重要だと思う独自の研究にこだわることができる側面があります。シンガポールのように高い給料を用意してグローバルで勝負をしようとすると過度な競争となり、全体的に面白い研究よりも論文を出すための研究が重視されます。それはなんとしても避けなければならないところですので、その意味でも給料だけを問題にしない方がいいように思います。そのあたりをヨーロッパの人々はよくわかっていました。

せっかく低い給料をもらっているのなら、他の人の評価を気にせず、自分が重要だと思う仕事をしましょう。どちらもなければ不幸ですね。

サービスデザイン特論 (博士後期課程)

帰国しました。日本はあたたかくて明るいですね。ところでデンマーク・クローネがどんどん上がっていますね

3月までサバティカルですが、今年設置された
博士後期課程の授業「サービスデザイン特論」を今週末2日間集中講義で実施します。この授業は私のMOOCを受講してもらった上で、サービスおよびサービスデザインについて議論するという「反転授業」です。教科書は『「闘争」としてのサービス』です... 文化のデザインについて現在執筆中の本の原稿も使いながらやります。色々試験的な試みです。

デンマークに4ヶ月おりましたが、サービスデザインについてはほとんど何も勉強していません。スミマセン(誰も期待していないとは思いますが)。たまたまLive Workの人とは会って議論しました。人間<脱>中心設計について講義をしたら好評でした(これについては
マーケティングジャーナルの論文が入手しにくいということで、短いものを今度出るサービソロジー第12号に書きました)。一方で、文化のデザインについてはかなり進展しました。『「闘争」としてのサービス』の内容を基礎として、それを発展させる新しい研究プログラムを構築するということはできたように思います。またご報告します。

先駆けて、いつものぶっとんだデザイン理論を博士課程の学生さんにぶつけます。どうなることか、楽しみです。来週はシンガポールです。

サバティカルのすすめ

明日帰国します。コペンハーゲンビジネススクール(CBS)での4ヶ月、実りの多いサバティカルでした。当初の目標は全て達成しましたが、そもそも期待をはるかに越える経験でした。日本では相談できる人もなかなかいないような研究をしているのですが、同じような興味を持って同じような志向で研究している多くの人とつながったことで、自分の研究の将来性がかなり変わりました。サバティカルという制度がなぜあるのかよくわかりました。その経験が参考になればと思いました。

まずサバティカルでの滞在先は安易に決めてはいけません。自分の知り合いがいるからということで決めてしまってはもったいないです。知り合いについてはすでにわかっていることも多いので、せっかく知見とネットワークを広げるのであれば、知らないところに行くべきでしょう。これは相手にとっても新しいネットワークを構築できるメリットがあるということです。ただしその上で、他の部局には知っている方々がいたり、知り合いの先生から別の部局の方を紹介いただいたりということが、知見を広げる助けになりました。

滞在先の決め方ですが、単に一人の著名な研究者がいるというだけではもったいないように思います。むしろ組織としてまとまってやっているところがいいでしょう。格段にネットワークが広がります。私の場合は似たような研究の志向をしている人がクリティカルマスを形成するぐらいの部局でしたので、これ以上ないというぐらいの最適な場所でした。

単に客として終わらないためには、先方にとってのメリットがある形である必要があります。まずは自分の研究で相手に刺激を与えるということが最重要で、その次に共同で論文を書けることが重要ですが、それ以外にもあると思います。例えば、日本との連携が研究費を取得するために重要であるかもしれません。

また、特に私のような中堅研究者の場合は、タイミングが大事です。ある程度業績がある段階だと、扱いが格段に違います。客ではなく同僚として扱ってくれますし、それによって構築できるネットワークの質も規模も異なってきます。つまり早すぎるのも難しいかなと思います。タイミングを選べないことも多いですが。若い人は機会があるならこのようなことを気にせず、ドンドン出ていって経験するのがいいと思います。

それから家族の生活です。私は失敗しました。最初は子供2人連れてくる予定が、安全のためということで1人だけとなり、それが問題でその1人の子供も帰国することになりました。結果的に家族にかなりの負担をかけました。最近は共働きが多いと思いますので、このような問題が重なります。子供にとってもかけがえのない経験ですが、学校は常に頭痛の種ですね。このような事情からあまり長期は難しいのですが、短期でも学校が受入れにくいので、3、4ヶ月が落とし所でしょうか。

あと個別にCBSがお薦めです。ヨーロッパ的な研究のスタイルを守ろうとし、それに成功している稀有な組織です(部局を選ぶ必要があります)。また、北欧の文化としてグループで集まり議論するという規範があることで、日々とても多様な議論に参加できました。最後に、CBSのような巨大な組織では、常にどこかの誰かが著名な研究者を世界中から招聘し講演会を設定しますので、それを周るだけでも刺激になります。その他にも、滞在するハウジングが整っていること、コペンハーゲンが住みやすい町であること、素晴しいレストランが多いことなど色々な理由があります。

とは言うものの、これは私が考えて経験したことですので、他のスタイルもあるかと思います。CBSでたまたまお会いした東京の大学の先生は、あるテーマに絞ってヨーロッパ中の複数の拠点を転々と滞在されていました。あまり真似のできないことです。

さて、帰国して1月からシンガポールです。それも楽しみです。

リベラルなデンマーク社会

帰国するにあたって、多くの方からデンマークで学んだことを発表する機会を作って欲しいと言われることがあります。実は自分の研究に没頭していたので、デンマークだからどうということはあまり考えていませんでした。そこで少しだけ考えてみました。

デンマークの社会がとてもリベラルで夢のような国だなと思って住んでいました。夏にこちらに来てからずっと、なぜデンマークという国はこんなにリベラルでいることができるのかを考えてきたのですが、帰国する時期になってもその答えが出ていません。

何がどうリベラルかというと、例えば子供の応対です。同僚の家に食事に招待されたのですが、土曜日夜10時ぐらいに13歳の女の子が一人で出掛けてくると言って出て行きます。どこに行ったのかと聞くと、友達と宿題をするというのです。当然宿題をしていないだろうということはわかっています。10時に13歳の女の子が一人で出歩くことは日本ではありえないですし、米国なら検挙されます。基本的には子供は信用する、失敗するなら早い方がいい、できるだけ早く自立できるように育てるという意識が強いです。18歳になると親は子供に対する権利を失います。親も、家を出て彼氏・彼女と一緒に住んだらどうと言うらしいです(多少政府から援助が出ます)。親も子供に老後を診てもらうということはありえない話しです。

教育に関しては模範的というぐらいリベラルです。親の収入に関係なく全ての子供が同じ機会を与えられるべきだという思想が徹底されています(完璧ではないことは当然ですが)。つまり生活に必要なお金を政府からもらって勉強することができます。当然ながらソーシャルモビリティは高くなります(上昇するモチベーションがあまり働かないため効果が薄まりますが)。一方で町を歩いていると個人商店のようなもの(散髪屋、肉屋、魚屋、パン屋など)が圧倒的に少ないですが、親の職業を子供が継ぐという観念がないからでしょう。学校では基本的に他の子と比べることを徹底的に禁止するとのことです。

女性も対等です。共働きでなければ変な目で見られると言います。ドイツでは妊娠すると辞職するようにプレッシャーがかかるが、ここではありえないと住んでいるドイツ人が言っていました。ただしそれでも完璧ではなく、今でもモメているという事実は重要です。同時に離婚率は高いです。家にお邪魔したところのほとんどは、離婚した上で別のパートナーと一緒に生活されており、両方の子供が一緒に生活しています(日によってどちらの親のところに行くのが分けているそうです)。

外国人にも違和感があまりありません。デンマークに来てすぐに感動するのは、人々が純粋に気持ち良く丁寧に応対してくれることです。私も若いときからフランス、米国とそれなりに長い間住んできましたが、外国人に対して距離感を感じさせない国民は初めてです(もちろん人によりますので、相対的にということです)。基本的に<他者>を信用しています(上平先生のブログ)

私は最もリベラルと言ってもいいようなサンフランシスコにもしばらく住んでいました。しかし彼らはがんばってリベラルです。色々なプレッシャーに対して文句を言いながら、反発してリベラルをしているわけです。ところがデンマークは社会全体がリベラルに成立しているのです。

なぜこのような社会が成立するのかまだわかりません。プロテスタント倫理や合理性も関係しているでしょうし、Hygge(Jeppeのトーク)と呼ばれるような暖いつながりに代表されるような、集団的な価値の重視はあります。空間的にも時間的にも余裕があること、格差が少ないこと、国が小さいことなども絡み合っています。また資産があることを隠し、富を見せびらかさない、労働者階級を尊敬する規範というのもあります。すべて重層決定されているところがあるのでもはやよくわかりません。

興味深いことに今のデンマークは保守的になったとみんなが言います。親の世代はもっとリベラルだったとのことです。68年の意義申立とそれに応じた社会の変容がどの程度あったのかは興味があるところです。ただ他の国も同様の変化を経験したはずです。デンマークでは特に女性が積極的に権利を主張したというのは聞きました。同時に現在社会が保守的になりつつあるというのも興味深いです。グローバル化の流れはあると思いますが、昨今の格差の拡大とどう関係しているのかはわかりません。またコペンハーゲンしか知らないので、田舎に行くとどうなのかは興味があります。

このような社会が存在することは、私にとっては奇跡です。もちろんそんな単純ではないことも理解する必要があります。最近では移民の問題があり、保守的な政策が取られます(スウェーデンとは対照的です)。社会がかなり均一なので、少ないマイノリティの方には住みにくいということもあると思います。ナイーブであるのか、人種差別的な行動が気軽に悪意なく取られることもあります(例えば、あるパーティで黒人に仮装した人々がいたと聞きました)。ダウン症に対する対応もドライです。そうだとしても、全体的には不思議な国です。

ということで結果的によくわからない説明ですが、社会について考えるための重要な例としては学びがあったと思います。


サービスは闘争か、顧客満足度か?

この3ヶ月ほど、サービスが闘争であるということについてヨーロッパ各所で議論を重ねているのですが、かなり反応はいいです(米国とは違いますね)。ただやはりどういうときに闘争になり、どういうときに従来の満足度重視のサービスになるのかについて理論的な説明が必要であるという議論は避けることができません。こういう議論をするときの、私の説明をここにも紹介しておきたいと思います。これはどの場合に人間<脱>中心設計が、あるいはどの場合に人間中心設計がふさわしいのかの議論でもあります。

サービスが闘争になるのは、サービスが価値共創(value co-creation)であるとき、つまり相互主観性(inter-subjectivity)の領域でサービスが問題になるときです。客も提供者もそれ以外の人も一緒になって価値を共に創るので、そのときのサービスは相互に了解し合うという形で相互主観的に達成されています。主観性の領域ではありません。主観性とは、少し乱暴に言うと、主体が客体から分離された上で、客体を眺め、その価値を主観的に見極めるというものと考えられます(乱暴というのは、たとえば現象学の主観性ではその分離を棚に上げ知覚、行為、存在に着目するからです)。

もし「客」という主体が、「サービス」という客体の価値を判断しているとすると、実はその価値は客も一緒に共創しているので、客も客体の中に絡み込まれ、客の「価値」も問題となります。つまり客がどういう人なのかが問題となります。だからレストランで革新的な料理を食べて、「美味しい」というような表現をすると、そのような月並なことしか言えない洗練されていない人ということになります。つまり相互主観性の領域ではその人自身が絡み合っているので、主体と客体を分離できないわけです。だからその人の価値も問題となり、緊張感が生まれ、自分を証明しようとする闘争となります。

しかしながら、主体と客体が分離される一瞬というのはサービスにおいて何度も見られます。つまり客が目の前に握られた鮨を食べて本当に美味しいと思ったとすると、それは主観性の領域での価値です。この価値は共創されていないので、主体が鮨という客体に対して評価を下すことができるわけです。サービスにおいて難しいのは、共創される価値と、客体自体の価値(鮨の美味しさ)が共存するということです。病院のサービスがわかりやすいでしょう。病気を直すというのは客体としての価値であり、共創された価値ではありません。患者が病気という客体としての問題を解決する(してもらう)という価値です。

しかしすぐに考えればわかるのですが、価値共創が起こっている以上、このような主客分離は本来は存在しません。上記で「一瞬」と書いたのはそういう意味です。つまりその一瞬は主客が分離したように見えますが、次の瞬間にはその人がどういう人なのかが問題となる相互主観性の領域に置かれていることに気付きます。客が美味しいと思ったとしてそこでは終らず、すぐに美味しいと思った客のレベルが問題となります。患者が病気にどういう関係性を持つのかが問題となります。

ただそれが一瞬であるからと言って、意味がないとは言えません。なぜなら実際に食べた鮨を美味しいと思うこともサービスにおいては重要であり、病気が直ることがとても重要だからです。つまりサービスにおいては共創されない客体自体の価値というのが無視できない部分を占めるのです。もちろんこの価値は単独では存在しません。この価値にすぐに人々が絡み取られ、人々自身の価値と分離できないからです。しかしそれでも非共創的な客体自体の価値は無視できないのです。ちなみに価値共創を重視するSD Logicでは、価値が受益者にとってユニークに現象学的に決められるとなっているので、上記の二つの価値を混乱した上で、共創ではない方の価値を中心に議論しているという誤ちを犯しているわけです。

私がサービスデザインは人間<脱>中心設計でなければならないという時には、価値共創であるならばそうならざるを得ないということです(実際にサービスはそのように定義されているはずです)。サービスが高級であるとか大衆的であるとかは関係なくそうです。しかし実際にサービスをデザインするときには、たとえ一瞬であっても非共創的な価値も重要です。鮨を美味しくしなければなりませんし、病気を直すために効率的効果的にサービスを構成しなけれなりません。病院のデザインをするときに、鮨屋のように患者さんにわかりにくくしたり、患者さんを圧倒したりすることが一義的に正しいわけがありません。しかしこれは病気を直すという客体に関する非共創的な価値が重要であるからです。このときには客体をよりよくしていく人間中心設計が必要となります。サービスにおいては常に共創される価値と客体自体の非共創的価値が混在しますので、人間<脱>中心設計と人間中心設計の両方が必要となります。この二つの設計はNormanの言葉を借りれば「正反対」ですので、サービスデザインはかなり矛盾したことをしなければならないということです。

もう少しで帰国します。その前に少しだけまたフランスに行って議論してきます。

ビジネススクールの今後

ビジネススクールは今後20年間の間に4分の1ぐらいになるだろうというのが、イギリスの感覚です。多くのビジネススクールはMBAの授業料で運営していますが、MBAを取る人は年々少なくなっています。現在はそれを留学生(多くは中国の方々)によって埋め合わせているのが現状です。日本の大学はそもそもMBAの授業料では生計を立ててはいませんので状況は若干異なりますが、MBAの数は減っていく傾向は止めることができないでしょう。

一般的なMBAがそれほど役に立たないという意見は昔からあるのですが、私もそれに同感です。人々がMBAに求める知識なり経験というのは、もはや簡単に手に入る状態です。本屋で何冊か買って読んだり、企業の研修で多くのことが学べます。20年ぐらい前でしたら、米国ではMBAを取ると給料が5割ぐらい増えるという感覚でしたが、今ではどうでしょうか? 今後もMBAを取ろうとする方々の数は減っていくでしょう。

すでに経営のためのエリートを養成するという概念は古臭くなっています。最近では考える前に実行するというようなことが重要だとされています。デザイン思考のようなものを取り入れるのも一つのやり方ですが、すでに社会に十分普及してしまっていますので、無意味でしょう。大学に来て経営の基礎や応用を学ぶというのは、そもそもありえない話しですが、それがありえたのは近代という特殊な時代のためであって、経営学それ自体の力ではないのです。

そこで各ビジネススクールは専門性を持たせるような戦略を取ります。私が所属する京大のグループではサービスに特化したプログラムを6年前から始め、今年度からホスピタリティやツーリズムに拡大しています。これは社会からの要請が大きな領域ですし、戦略的には興味深いところです。これは今後かなり盛り上がると思います。原先生、若林直樹先生のリーダーシップのおかげです。

それと同時にMBAの教育自体がある程度変化していかなければならないと思います。私の個人的な感覚ですが、実践に近づくよりも、学術的な研究に近づいていかなければならないように多います。英国もデンマークも多くがそれを志向しています。経営学の最先端の知識は経営の実践にそれなりに役に立つのですが、それだけで2年間MBAに通うコストを正当化できるものではありません。大学が提供できて他にはできないものというと、学術的な研究しかありません。つまり様々な現象の前提にある微妙な差異を捉え、それを説得力のある形でうまく表現していくという力です。

ということで京都大学の経営管理大学院では、今年からMBAを減らして博士課程を作りました(上記は私が勝手に言っているだけで、必ずしもその理由ではありません)。いずれにしても地方の交通の便もよくない大学にわざわざ来られるわけですから、他と同じようなMBAでは意味がないと思います。

フィールドとは

この数日、お客様が多かったのでいい刺激になりまいた。一方でメールなど色々滞留してしまいました。早めに追いつけるようにがんばります。

さて、先日Gideon Kunda教授の講演に行ったのですが、感動しました。スライドなど一切使わず、1時間以上途絶えることなく話し続けたのですが、素晴しい話しでした。テルアビブ大学はテルアビブの北の端、丘の上にあり、イスラエル市民であり特にヨーロッパ系の人々は丘の上の方に住み、一方丘の下の南テルアビブは不法な外国人などが生活するというように、二分化しているらしいです。Kunda教授は数年前から一人で南テルアビブに行って、教育活動をされています。最初は呼ばれてイスラエルの歴史について講義をしたらしいですが、人々が学ぶことを求め、次にコンピュータのスキルを教える授業を娘さんと作られたそうです。30人ほどの教室に400名が並んだといいます(無料ではありません)。それからヘブライ語の授業、歴史の授業、法律の授業、子育ての授業、写真の授業などを開講していき、今では常駐スタッフもいる学校として確立したといいます。著名な研究者が一人で始めて、このように多くの人の生活にインパクトを与えておられるということ、素晴しいことだと思います。

しかし感動したのはそれではありません。感動したのは彼がこれこそが学問だということです。彼の授業では学生が来ると、まずセメスターの間に南テルアビブに行って何かして来いと言うらしいです。そしてそれを振り返って、何を学んだのかを書かせます。理論はその後でいいということです。こういう過激な授業をされている方は多いと思います(京大では杉万先生とか)。私も最初にPARCに到着したとき、Jack Whalenから住所と時間の書かれたリストをわたされ、ここに行って調査をして来いと言われただけでした。本をじっくり読んでいるのではなく、フィールドに行けというわけです。私の研究は全てフィールドから始まります。

しかしフィールドと理論の二分法は危険です。なぜならこの二分法は常にフィールドに対する理論の上位を前提としているからです。そうではない場合にはフィールドに対して理論を対置しないのです。理論を作るための手段としてフィールドに行くとか、フィールドからヒントを得るとかいう言い方がなされるわけです。たしかにフィールドが理論に対して上位に置かれることもあります。お前はフィールドに行っていないじゃないか、というように言われます。しかしこの言説は、フィールドに対する理論の上位の裏返し
(反発)という側面がなくはないと思います。自己が脅かされるとき、二分法に頼ってしまうのです。

つまりKunda教授のおっしゃるようなアクティビズムは尊敬すべき取り組みなのですが、フィールドを神聖化するのは問題を含んでいます。重要なのは、彼はその問題を間違いなく理解し、二分法をものともせず圧倒的なフィールドにおける研究の力を示しているということです。その上で彼は自分は単なるアクティビストではなく学者だと主張するわけです。かなり錯綜した議論ですが(だからこそ)、自分が行動することでそれをものともしない力があります。二分法を力で乗り越えるわけです。感動したのはこれのことだと思います。

一方、私はこのように考えます。学問においてフィールドとは特定の場所ではありません。少なくとも大学という場所と対比されるような他者の場所ではありません。小難しい本を読んでいても、フィールドにいる必要があります。つまり本を距離を取って外から読むのではなく、自らをその中に置いていく必要があります。図書館に籠って過去の死刑の仕方を調べ上げるのも、フィールドにおける仕事です(Kunda自身が議論した例です)。そして実際に他国や南テルアビブのような他者の場所に行くのは、自分をその中に置いていくことを容易にすることですが、だからと言って他国に行くことがすなわちフィールドに身を置くことではありません。フィールドとは単に現地に行くことではなく、自分をそこに関与させ不安定な存在にし、そこから四苦八苦して自分なりの世界を組み立てるということです(この世界を組み立てるというのは暴力を含みます)。

ということで、フィールドで活動することこそが学問です。ただフィールドという言葉で何を意味するのかは注意する必要があります。京都大学はフィールドを重視する伝統がありますし、デザイン学でもフィールド分析法という共通科目を提供しています。


デザインとは

私もデザインスクールに関わり、世の中でもデザインが重要なキーワードであるが、我々はこのデザインを正確に理解する方法を持っていない。今回はデザインの芸術としての側面を考えてみよう。もちろん芸術とデザインには差異があるのだが、共通の核を持っている。

芸術は文化の持つ3つの意味の一つであり、今では文化というと芸術を指すほどにまでなっている。人々が芸術に何か救いを求めるという傾向がある一方で、芸術がその力を失いつつあるとも言える部分がある。芸術は社会に対して平和、愛、夢を与えるように考えられているが、もともと社会への批判である。モダニズムは社会への批判がその原動力となっている。近代モダニティ自体は個人というものの発見とその解放から始まるのだが、それと同時にその力の押さえ込みでもある。芸術としてのモダニズムは社会への批判であり、資本主義への批判という側面が強い。

しかし批判しているのは誰なのだろうか? それは社会に対して特権的な距離を取ることができるエリートなのだ。増える中産階級が資本主義の表層的な価値に喜んで同一化することに対するエリート主義的な批判なのである。だからモダニズムは一つのアイロニーと言える。つまり、自分が批判する社会の中で、批判されるべき特権的な地位にいるのだから。この欺瞞が徐々に明らかになり、近代からポスト近代に入るにつれて、芸術の衰退というような形で現れてきた。

それでも人々が芸術に拠り所を求めるのは、その批判力(システムに取り込まれない外部性)を保ちたいからだ。この社会においてほとんど人間性、創造性、そして何らかの超越的な価値(精神性)は、芸術という狭い領域に切り詰められた。本来人間の中心になるべきはずもののが外に出され、芸術として相対的自律的に存在している。それなくしては我々は生きていることを感じれない。そしてこれまで芸術を排してきた資本主義も、芸術がなければ自らを維持できないということに気付いた。企業は技術や品質だけでは維持できず、デザインを取り込み芸術という何か神秘的な外部性にすがらないと利益を上げることができない。

しかしながら、このときの芸術というのは、資本主義の中に取り込まれて飼い馴らされた、つまりその批判精神を削ぎ落された抜け殻の芸術なのだろうか? 芸術は資本主義への批判からその力を得ているのであり、それを資本主義が必要とし利用するとき、どういう形になるのだろうか? これが我々の直面する弁証法であり、安易にどちらか一方の答えに舞い戻ると失敗してしまう。

ではデザインとは何か? ひとまず、デザインとはシステム(つまり社会)の限界点としての外部性を、システムの中に節合(articulate)していく活動と定義できるのではないだろうか。デザインが「新しいもの」を生み出すと言われるとき、単に新しいだけではなくこの外部性のことを指している。「フォーム」を与えるというデザインの定義は、現在の社会に節合されていなければならないということを意味する。これが厳密にどういう意味なのかはもっと考えなければならないが、少なくとも現場に言って現場の問題を解決することではないし、単に売れるためのイノベーションを創出することでも、想像力を使って新しいアイデアを考え出すことでもないだろう。いずれにしてもスゴいデザイナーが常にやっていることだろうと思う。現在書いている本(共著)の中で練り上げていきたい。

ちなみにデザインスクールは、ここに学問(デザイン学)を打ち立てようとしている。これは学問に外部性を節合しようという試みである。学問はこれまで細分化し小さな領域に閉じこもってきた。それでは破綻すると言われ、形だけ異分野と協業するようなことでなんとかしようとしてきたが、本気でこれに取り組んだことはないのではないかと思う。そこでデザイン学では学問が自らの限界点である外部性をなんとかして節合しようとしている。デザイン学を打ち立てることはデザインでもある。

国際性

しばらく時間がなくてブログを書いていませんでした。研究する時間が豊富にあると、なぜかブログを書く時間がなくなるというのは興味深いと思います。

コペンハーゲンビジネススクールのような高度に国際化した環境でも、文化の関係で問題が発生することがあります。滞在しているデパートメントでは、毎月1回ブランチにみんなが集まるのですが、今回はそこでデンマークの伝統的な歌を歌いました。デンマークの伝統を誇らしく表現したような歌です。しかしこれが人種差別であるというような批判にさらされることになりました。一方なぜそれが問題なのだというような反論がなされました。

この歌には民族の起源への幻想があることは事実であり、一つのステレオタイプとしてフェティッシュ化するわけですが、そこから距離を感じる人々(たとえばマイノリティ)にとってはなんとも言えない不安定な状態にさらされることになります。教員の中で外国人はほとんど内容もわからないし、自分たちが外に置かれたという違和感だけで、自分は関係ないというように距離を取ることもできます。しかしデンマーク人でありながら、民族性からの差異を感じる人々にとっては、耐えがたいことだったのだろうと思います。

もちろん誰も意図的に誰かを傷つけようとはしていませんし、差別的な言語が入っているわけではありません。しかしそれこそが文化の恐しさです。全員がこのような微妙な文化の差異をしっかりと認識し、みんなで議論して乗り越えないといけないと思います。国際性というのは難しいと思いました(ジェンダーの問題でも同じです)

ところで民族の起源への幻想は、他者の文化と出会うときの自分自身の不安から生じます。その不安をこのような幻想によって置き換えてしがみつくわけです(というHomi Bhabhaの考えにおおむね同意です)。国際性を身に付けるとは、他者への配慮と同時に、自らの不安に向き合うということが必要になります。

Spring School on Culture, Interaction and Society

Call for Participation 参加者募集


Kyoto University - Nanyang Technological University Joint Seminar
京都大学 - 南洋理工大学ジョイントセミナー


Spring School on Culture, Interaction, and Society


スプリングスクール: 文化、相互行為、社会





February 20-21, 2017 in Singapore

“Culture” has become (again) a key concept in various fields including management, marketing, and sociology. The goal of this spring school is to help students and junior researchers to pursue their own research on this theme. We are currently seeking motivated participants for this two day spring school. Three fields (management, marketing, and sociology), three perspectives (ethnomethodology, ethnography, symbolic interactionism), and three cultural domains (service, consumer culture, and identities) are cross-pollinated. Airfare and hotel rooms are covered by the joint seminar program.

Keynote: Gary A. Fine, John Evans Professor of Sociology, Northwestern University.

文化という再度盛り上がりを見せるテーマで研究に取り組もうとしている学生や新任の教員を集め議論するワークショップです。マネジメント、マーケティング、社会学など多様な領域の学生や教員が、経験豊富な研究者のアドバイスを受けながら、自らの研究を深めていくことを支援します。エスノグラフィ、エスノメソドロジー、シンボリック相互作用論などの視座、サービス、消費者文化、アイデンティティなどの多様なテーマを交差させながら議論します。航空券や滞在費をカバーします。

基調講演: ノースウエスタン大学社会学部 Gary A. Fine教授

Eligibility
Doctoral students of Japanese universities (including Master level students continuing to doctoral program)
Post-doctoral researchers and junior faculty members of Japanese universities
All participants are required to actively participate in discussions in English.

Application
Apply at the following application website (resume, list of papers and presentations etc.).
https://yamauchi.net/apply
The decision will be sent out by mid November.

Deadline
October 21, 2016

Contact
contact.gsmdesign@gmail.com

Organizers
Yutaka Yamauchi, Graduate School of Management, Kyoto University
Julien Cayla, Nanyang Business School
Patrick Williams, School of Humanities and Social Sciences, Nanyang Technological University


singapore-seminar


MOOC again

My MOOC on culture of services is going to start in a few weeks again. This time it is self-paced, which means that you can take it anytime. If you have wondered why you feel nervous when ordering wine at an upscale restaurant, why the notion of hospitality gives you uneasy feelings, and why coffee shops call their coffee grande, venti or enorme, this MOOC is for you. I will explain why services are often paradoxical: The more expensive the service is, the less “service” you receive. It is also practical; last time many practitioners in service business participated and found it useful for their work.



You can register here.
https://www.edx.org/course/culture-services-new-perspective-kyotoux-002x-0

ふたたび文化とは (そして学問とは)

先日「文化」について書きましたが、今日は別の観点から文化を議論したいと思います。それを題材に、最近書いてきた博士学生の指導の問題についても説明したいと思います。

レイモンド・ウィリアムズによると、文化(culture)はラテン語のcolereが語源ですが、そこには「耕す」・「住む」・「敬い崇める」というような意味があります。我々は文化という概念に何らかの神聖な意味を込めますが(文化は侵してはいけないとか自分の拠り所だとか)、この語源にすでに崇めるという意味があります。これは英語のcultという言葉になっていきます。文化が何か社会を超越した意味を帯びるのはここから始まったわけです。そして、耕すということが、自然を耕すということから、精神を修練・修養するという意味になっていきます。文化概念に先行する文明化(civilization)の概念にも重なりますが、基本的には教養を身につけるとか、洗練したふるまいをするなどの意味を帯びます。

さてここで重要なのは、精神の修養というような意味での文化が政治性を帯びているということです。市民が利害を持った個人として成立してくる歴史の背景から、国家という抽象的なものの中に折り合いをつけるために、人々を形作らなければならないというイデオロギーです。このような考え方は帝国主義などと結びついているわけです(植民者を文化的に修練していくことで支配するというように)。住むという意味のcolereはラテン語のcolonus(耕作民)となり、英語のcolony (植民地)につながっていきます。余談として我々の直面する状況に飛ぶと、政治家が文化を持ち出すとき、自らを超越的な立場に位置付けた上で他者を形作るという上から目線であることが多いわけですが、これは帝国主義の芽を含んでいます。そうでなくても文化・文明化が教養とか洗練さを意味するとき、文化に優劣をつけるという前提がひそんでいるので、そもそもの考え方が教養がなく洗練されていません。

ところで現在は文化が芸術の領域に退避している観がありますが、これは社会全体が資本主義の論理によって目的合理性が支配的なロジックとして浸透するなかで、宗教が特殊なものとして外に追い出され、政治、経済、科学など他の領域が脱神秘化したため、芸術しか超越性(神秘性)を担えないからです。芸術にその負荷を全て負わせるわけですが、芸術は当然それを担い切れません。そこで芸術は社会から自らを切り離し、そのアンチテーゼとして構築していきます。ブルデューが「負けるが勝ち」のルールとして説明した世界です。つまり、現世で成功をしないこと(特に経済的利益に無頓着であること)が成功となり、むしろ苦悩の人生を歩んで死んでから評価されるというようなことが理想の芸術家像に仕立て上げられるわけです。資本主義を否定して純粋さを獲得することで、自らを差異化せざるをえないわけです。ところで最近合理性のロジックでは事業も立ち行かなくなってきており(そんなロジックではもともと事業は成り立ったことはないのですが)、デザイン思考とかデザイナーが重視されるようになってきています。ここでもデザインを神格化してそこに全ての負荷を負わせようという動きですが、当然それは本来のデザインと反します。

さてここからが本題です。私が文化のデザインを研究テーマに選ぶとき、文化を何か特別なものとして神格化しているように見えますが、それは学者のあるべき態度ではありません。むしろ文化という概念を歴史化(historicize)すること、つまり文化を神秘的なものとして受け取るのではなく、どのように文化がそのような神秘性を帯びるのかという歴史を捉えることが必要だろうと思います。つまり文化に価値があるということを研究するには、まずその文化を解体するところから始めなければならないのです。
『「闘争」としてのサービス』も同じで、極端だとか偏っているとか言われますが、そもそもサービスを理解し革新するためにサービス概念を解体するという試みであり、その概念の前提から批判されても意味がないわけです。

これが学問というもののスタンス(イデオロギー)だと思いますので、博士課程の学生さんにはそのように研究するように指導しています。 単にひとつの例を挙げると、衰退する伝統産業をなんとかしたいと言う学生さんが来られることがこれまで何度かありました。このとき伝統産業を是としているわけですが、まずどのように伝統産業という概念が生まれそれが正統化され神格化されるのかを明らかにして、つまり伝統産業という概念自体を解体しなければならないというところから話しをします。本当に伝統産業をなんとかするのであれば、まず伝統産業というもの自体を解体しなければ失敗するでしょう。ただこのように指導すると、研究したいというモチベーションそのものを否定されることになるので、苦悩をもたらすようです。

ところで学問が実践に役に立つというのは厳密にはこの意味でそうなのであって、実践に役に立つようなツールを提供するからではありません。学問が実践に貢献できるのは、その実践自身を解体するということを通してということになります。

学生の受入れについて

最近研究室に来たいという学生さんをお断りすることが多くなってきました。せっかくアプローチしてきていただいているのにお断りするのは、お互いに気分のよいことではありませんので、その理由を一度明記しておきたいと思います。

これまでは博士に進みたいという方々は、ほぼ受入れてきました。しかしながら、それで数年間やってみて様々な問題が顕在化してきました。色々考えたのですが、当たり前のことが見えてきました。私のやっている研究が、内容的にも方法論的にも、そして根本的な視座の点からも、基本的には経営学ではメインストリームではなく、むしろそのメインストリームの研究を批判していく傾向があるということです。一方で、学生さんは本や雑誌を眺めて知っているメインストリームの経営学の内容を求めて来られます。

私も指導できなくはないだろうと思い、ひとまずは学生さんのやりたいことをやってもらって、私の視点でそれに何か面白いことを付加できればいい研究ができると考えていました。しかし、この後から付加するという部分が、学生さんがやりたいことの否定になることであったりします。私としては、そういう多面的な研究の方が面白いと思ってそういう指導をしてきたのですが、これが学生さんに苦悩を招く結果となることがわかってきました。

同時に私の研究はあまり評価されません(よくわからんことをしているという程度にしか見られません)。ということは、そうやって学生さんが研究をしたとしても、その結果が評価されにくいことになります。私は自分が重要だと思うことをやっていればいいと思いますし、それが自分の仕事のスタイルだと思っているのですが、そこまで理解していない学生さんに同じことを求めるのは正しくないということに気付きました。特に論文が通りにくいという致命的な問題、そして就職するときに自分の研究を理解されにくいことは、ほとんどの学生さんには抱えこめないリスクですが、そういう重要なことをこれまで気軽に考えすぎていました。反省しています。

そこで自分と同じ志向の学生さんだけに絞らなければならないという結論に達しました。同じ考えである必要はないのですが(同じ考えであればそもそも同じ志向ではないわけです)、リスクを取って同じような立ち位置を求めるような人ということです。結果的にほとんどの方をお断りしなければならない状況です。つまり、お断りした方々に問題があるわけではなく、私の方に許容するキャパがないというか、マッチングの問題です。ですので、他の教員とマッチングがあえば全く問題ないだろうと思います。

最後に、経営管理大学院の博士課程は必ずしも研究者養成を第一目的とはしていませんが、実際にはかなりの競争率になっているという状態で、受入教員として学者になりたいという方を優先したいという気持ちがあります。正直なところ、学位だけ取れればいいということですと、教員自身にとってメリットがないのです。教員が博士課程の学生に求めるのは、単に一方的に教えたいということではなく、自分の研究にゆさぶりをかけてその限界を乗り越えていくのを促してくれるような人材です。つまり博士の学位を取るということは、既存の博士を否定していく活動であるべきなのです。

文化とは

文化をキーワードにして活動しているのですが、話しが噛み合わないことが多々あります。サービスは文化のゲームですし、グローバル展開において異文化間コミュニケーションが重要とされ、デザインでもエスノグラフィ(民族誌)が持ち出されますが、文化というものがあまりきちんと議論されていないように思います。私のイメージを説明したいと思います。

文化というと我々に染み付いた習慣や認知のパターンのようなものだという感じで議論されますが、これではあまりに漠然としています。私の文化に関するイメージは、常に不安定な中で表象され、交渉され、歪められ、押さえ込まれているようなものという感じです。一般に日本の文化とか言った場合、日本人なら誰しも体得している均質で統一的なイメージが想定されていると思いますが、それは文化を神聖化したいという我々の欲求を投影しているだけで、文化をそのようには捉えることは不適切です。

まず文化というものが、他者との関係において初めて意味を持つということを理解する必要があります。文化は基本的には我々にとって当たり前になっていることであり、客体としてそこにあって記述できるものではありません。例えば、我々日本人が箸で食べているとき、日本の文化だと感じたり表現することはありません。もしそのように感じたり表現するときには、必ず他の文化と接しているはずです。箸をあたりまえのように使わない文化の人と話しをしているなど。文化それ自体は決して表象できないのですが、同時に我々は文化を他の文化との関係の中で表象しようとして生きています。そしてこの表象を通して文化が打ち立てられるのです。文化という実体が表象の背後にあるという本質主義が拒否されるわけです。

つまり文化とその表象には、「他者」との関係が絡み合います。我々が文化を語るとき、何か誇りのようなもの、優越感のようなものを感じていないでしょうか? 文化を持ち出すということは、他者との関係を定義する行為です。他者に対して優越するということは、他者を否定し貶めることに他なりません。そして誇りや優越感が問題になるということは、裏返せば自己が脅かされているということです。そこで何とか文化が優れていることを主張しているというわけです。逆に言うと、この優越感は劣等感を伴っています。特に文化は根源(歴史とか伝統とか)を暗示しますので、その幻想に託して自分の拠り所とするのです--もちろんそのような根源は我々の欲求を投影した代補です。このような他者を前にした感覚は文化にとってはどうでもいい付随物ではなく、むしろ文化という概念の中心をなすものです。そしてこのことを突き詰めると、文化の表象というものは、自己に対する「不安」の中で、自己を示そうとする動きだということになります。ヘーゲルに依拠して
サービスは闘いであるということ(他者との相互主観的な闘いの中で自己を示すこと)と文化を結び付けて議論することの必然性がここにあります。

よく言われることですが、エスノグラフィとはある現場の文化を客観的に理解し記述することではありません。他者との関係で自己をあらためて理解することです。デザインにおいてエスノグラフィが意味を持つのは、デザインの対象となるユーザのニーズを理解するからではなく、デザイナーの自己が切り崩され、新しい自己を獲得し(ようとし)、新しい視座から世界を捉え始めることによって、革新的なデザインを導くからです。エスノグラフィは他者を表象の中に押し込めるものであり、他者を飼い慣らす政治的な行為です。エスノセントリズムを避けようとして、現場の人々が有能でありイノベーティブであることを示すような記述ほどエスノセントリックで暴力的なものです。別の社会の人について記述するとき、書き手の他者に対するイメージが写し込まれます。さらには、自分がどうありたいのかというイメージも写し込まれ、それは裏返しとして他者のイメージとなって表象されます。これは文化を表象するときには避けることができませんし、文化を議論する人は常にこの危険性と向き合わなければなりません。デザイナーがユーザを単純化してデザインする場合、そのデザイナー自身の持つ自分に関する不安と向き合っていないのです。

私は
文化のデザインを掲げて研究していますが、文化なんてデザインできないと反論されることがあります。しかしそのような反論では、文化は常に表象され続けているのであって、つまり全員が日々文化をデザインしていることが忘れられています。しかし反論にはもっと重要なサブテクストがあります。文化という概念には何らかの神聖な響きがあり、それをデザインという何か軽々しいもの(見た目とか美しさとかに関わるとか思われているようなもの)と結びつけることの違和感があるということだと思います(デザインという概念が何か楽しげであることが嫉妬を生んでいるということもあるのでしょう)。我々にとって文化は神聖であり、文化に対する恐怖があります。だからそれがデザインされると言われると反論するのでしょう。しかしそれは、文化というものが本質的には他者の反照としての自己の定義に関わるからであり、我々の不安に結びついているからです。むしろだからこそ文化のデザインを議論する必要があると考えます。

このような対象にデザインを結びつけるというのは、学問としてぎりぎりのところを追求しようという挑戦なのです。同時にデザインという概念が完全に修正されなければならないということは言うまでもありません。それについてはまた議論したいと思います。

ブログではここまでしか書けませんが、こんな雑な説明では余計に反発されるかもしれません。現在まとまって書こうとしていますので、それが進めばご案内します。

MBAから博士後期課程に進むことについて

経営管理大学院は専門職学位課程(経営学修士=MBA)が中心になっているのですが、毎年数名博士後期課程に興味があるという方がおられます。一緒に研究をしてくれる学生が増えるのはありがたいことです。一方で、本大学院の構造上、このような方々が大きな問題に直面します。このような道を考えておられる方に少しでも助けになればと思い、私の体験と個人的な意見を書いておきたいと思います。

まずMBAの授業と博士後期課程の研究とは全く別のものです。MBAの勉強を続けていれば博士号につながるという誤解が多いです。私は博士課程から米国のビジネススクールに行きましたが、MBAの授業は1つしか取りませんでした(ある先生との関係で取らざるを得なかったからです)。そもそもそれを求められてもいませんでした。唯一関連するのは、将来的にMBAの授業を教えなければならないということですが、そのやり方はTAをして学ぶことができます。本大学院でも博士後期課程は経営科学専攻であり、MBAの経営管理専攻とは別の専攻です。厳密にはMBAの上にPh.D.があるわけではありません(もちろんリーディング大学院デザイン学の5年一貫の博士課程を提供するという配慮しています)。

MBAではかなりの授業を取ることが求められます。しかし、MBAに入学し博士後期課程に進みたいと決めた人にとっては、その授業をこなしながら全く別の勉強、つまり博士の研究をしていかなければなりません。そして、この別の勉強の方がメインなのですが、MBAにいる間はそのためのリソース(授業など)は用意されていませんし評価もされません。これをやりきるには相当の努力が必要です。しかもこの二重の努力が必要なことを理解していないところから始まるので、三重のハンディがあります。ギアが入らないまま時間が過ぎていくという危険があります。

5年一貫の博士課程というと時間があるようですが、実はほとんど余裕がありません。例えば私がやっているような研究ではジャーナルに論文を載せるのに投稿してから2、3年かかりますし、その前に論文になるまでに2、3年はかかります(もちろん何でもよければもう少し早いかもしれません)。ということは博士課程にいる間に論文が採択されていることを想定すると(公刊論文があることが学位の前提となっています)、最初の2年の間には投稿する道筋がついていて、遅くとも博士の1年目の間には投稿しないといけないということです。しかしMBAに入ってから研究を始めようという人は、2年で最初の研究の目処をつけるのは不可能に近いものがあります。

とりあえず、修士1年生の間に自分の興味のある領域の論文を100本読むというトレーニングから始めています。これを通して1本でも自分がやりたいようなモデルとなる研究が見つかると、それと同じようなことをやっていけばいいということで見通しがつくようになります。どこの博士課程でもやっていることですが、それを多くの授業を履修しながらやっていくわけです。

自分もこの道に進むと決めてから色々悩み、諦めようと思ったことも多々あります。それだけシンドい職業だと思います(というとどの職業もそうですが)。ですので、博士後期課程に進みたいという方がおられると、やめておいた方がいいよと言いたい気持ちがあります。一方で限られた数ですが期待していたレベルをはるかに越える学生もいます。私が他人の人生を制限することの躊躇もあります。結局教員にできることはそれほど多くありません。

ホスピタリティとは

京都大学経営管理大学院は、従来からサービスの研究・教育を進めていますが、今年度から経産省のプログラムでホスピタリティの教育プログラム(インテグレイティド・ホスピタリティ教育プログラムの開発)を開発することになっています。その中でなぜか「異文化間コミュニケーション論」という授業が割り当てられました(この意味は最後に書きます)。

ホスピタリティ(歓待)は、単に他者を迎え入れることです。このことは社会の根底にある問題を指し示しています。他者の存在は、人にとっては根源的な意味を持ちます。人にとって他者は絶対的な外部性であり(自分のコントロールを越えたもの)、不安の源泉であり、かつ聖なるものです(宗教的意味ではなく)。そしてそれに自らを開き、無条件に(つまり見返りを求めず、名前を聞くことなく)迎え入れること。これは人間の倫理の始まりでもあります。現在の社会にはこのホスピタリティという概念が失われています。外国人に、移民に、異教徒に、同性愛者に対して… 受入れるのではなく、拒否をして自分の家を守ることだけが問題となります。イマニュエル・カントがホスピタリティを永久平和の基礎に置いたことが思い出されます。

ホスピタリティは歴史上、世界中のどの文化にも見られる営みです。不意に外からやってきたよくわからない他者を受入れもてなすこと。そのよくわからない他者を庇護し、精一杯の食べ物と飲み物でもてなし、自らの家族までも差し出し(不快にさせたらすみません)、去るときには贈物を与えること。自分たちを殺戮しにきたコルテスをもてなし、金庫を開き財宝を差し出すこと。なぜそのようなことが起こるのか? まず他者が神の化身であり、あるいは神から使わされたものであること、つまり見知らぬ他者が聖なるものであることを理解する必要があります。他者を迎え入れるということは、絶対的な存在を前に自らを無化することなのです。おもてなしやホスピタリティの逸話では、客を迎える人は貧しい設定となっているものが多いです。

一方でこのような無条件に見えるホスピタリティは、神への恐れから生じるのであり、時には贈物(イサクなど)をもらうのであれば、見返りを求めていることに他なりません。宗教的な意味がないとしても、他者の外部性がそのまま聖なるものとして妥当します。デリダが言うように、ホスピタリティの絶対的な唯一無二の掟(無条件にもてなすこと)と、実際にホスピタリティを命令する諸々の条件付の法(異邦人の権利などの法)には絶対的な矛盾があります。法の命令に従ったホスピタリティは、義務に従ったという意味で無条件の絶対的なホスピタリティではなく、何かを期待した、あるいは止むを得ずしている、つまり見返りや処罰を前提としたホスピタリティなのです。だからデリダは本来のホスピタリティは不可能であると言い、Pas d’hospitalité、つまり「歓待の歩み(pas)」=「歓待はない(pas)」と主張するのです。

つまり、永久平和の基礎となるホスピタリティやサービスで重視されるホスピタリティは、一般的に考えられているように、単に美しい営みではありません。カントが明記したように、ホスピタリティは「人間愛」の問題ではありません。そんなあやうい概念は学者の主張するものではありません。ホスピタリティは恐怖であり、不安であり、卑屈さであり、緊張感であり、矛盾であり、闘いなのです。ホスピタリティの語源が、ラテン語のhospesであり、見知らぬもの、敵としてのhostisあるいはhostilis、そして力としてのpetsに結びついていることは以前述べた通りです(デリダの議論ですが、もともとはバンヴェニストです)。

私はここから、自分の経験的研究と結びつけて、
サービスやおもてなしは闘いであると主張しました。その意味は、相互主観的な承認をめぐる闘争であり、弁証法的な自己の超克と生成であるということです。闘いのないホスピタリティは、他者を自らの世界に従属させ、他者の他者性を剥ぎ取っているのであり、もはやホスピタリティではありません。Réne Schérerが示したように、ホスピタリティとは他者を迎え入れることでありながら、その他者に迎えられることであり、自分を他者として生成することです。外部性としての聖なる他者と向き合い、自らが自らにとっての他者となること、これがホスピタリティなのです。

このホスピタリティが、現在の社会において、サービスという経済的な交換の関係においてどのような意味を持つのか? これを考え抜かなければなりません。上記のような根源的なホスピタリティは古代の文化であり、古代ですらも古びたものとして扱われたものであることは明らかですが、もはやサービスの文脈では意味がないのでしょうか? 私はそうは思いません。なぜなら人が他者と出会うという契機は変わらず我々に緊張をもたらすものであり、それがサービスの条件だからです。サービスの文脈でホスピタリティやおもてなしに関する議論が尽きないのは、人々がそこに何らかの神聖な意味を見出し、それを恐れを抱きながら求めているからであり、その不可能性を知っているからだと思います。そして何よりも今の社会に最も求められているのが、この本来の意味でのホスピタリティだからです。

このような議論を無視しながら、単に客を喜ばせるというような「ホスピタリティ」を語る理論は、単にサービスの理論として中途半端であるだけではなく、それ自身がホスピタリティを飼いならし無意味にする実践そのものなのです。そうではなく、ホスピタリティに関する理論は、ホスピタリティを実践しなければなりません。

「異文化コミュニケーション」という、自分にはほとんど言うべきことはないと思われるような授業がアサインされたわけですが、よく考えたら「ホスピタリティ」はまさに異文化間コミュニケーションの基礎ですし、私なりに独自の視点で授業を作れることに気付きました。このように実は自分に合っているのかもしれないことにアサインされること、いつもながらその慧眼には驚かされます… 授業では、まずはこのようなことを議論するところから始めようかと思います。

能楽の起業家

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先日能楽師の宇高竜成さんとランチしました。昨年TEDxでご一緒した以来です。舞台の上のイメージとは違って、気さくで素敵な方でした。私の打った翁も見ていただきました。

現在能楽は決して社会的に上り調子というわけではありません。パトロンのいなくなった社会で、かつ愛好家が増えない状況で、自ら新しいシステムを作り上げなければなりません。しかも東京が主となっている世界で、京都の芸を追求していくという難しさもあります。自主公演をやっても、定期能をやっても、どうしても赤字かうまく行ってもブレイクイーブンの世界です。大きな薪能をやっても高い報酬は見込めません。お客さんは5千円のチケットを購入したとして、シテ方が儲けているように思っているかもしれませんが、実は囃子方など多くの人々に支払いをしなければならず、自分にはほとんど残らないかマイナスになってしまうのです。

その中で若手の能楽師は様々な試みをされています。一般の人に能楽をわかってもらおうというワークショップと呼ばれるようなものは一巡し、これからは本当の能の面白さを知ってもらう取り組みが必要とのことです。クラシック音楽のマーケティングや海外の芸能のことなど勉強されて、様々なアイデアを実行に移そうとされています。まさに起業家です。そんなことを悲壮感を持って取り組むのではなく、軽快に取り組んでおられる宇高さんは、本当に能がお好きなのだと感じました。

多くの人に知ってもらいたいというような上からの姿勢ではなく、社会の変化を機敏に捉え新しいイデオロギーを作っていくような文化の観点からのサービスデザインの方法が求められているように思いました。もちろん、まがいものに置き換えて流行らせるのではなく、能の本来の意味を革新していくということだろうと思います。もっとお話しして、一緒に活動したいと思いました。

文化のデザイン

日経新聞にデザイン思考のことが大きく書かれていました。今さらなんでという感じでしょうか。デザイン思考自体を否定するということではなく、デザイン思考が手をつけられず残した部分が重要になってきていると思います。その中で、我々は次の一手として「文化のデザイン」を探究しています。

現在のどの企業も(もちろんノンプロフィットも)、事業を立ち上げるには文化のデザインに取り組まなければなりません。利用者や客の潜在的な要求を掴みソリューションを提供するとか、機能ではなく感性的な美しさを作るとか、居心地がよく使いやすいものを作るとか、あっと驚くようなものを作るとか、そういうこと(だけ)では不十分です。文化を作らなければなりません。しかし文化なんてどう作るのか? これに答えるのが研究の目的です。

これまでのサービスの研究で最も重要な観点は、サービスは遂行的に文化を作り上げていて、その文化が闘争の場となっているということでした。それぞれのサービスが、あたかも当然そうであるように文化を作り上げることで価値を呈示し、一方で客がその文化と同一化しようとして何らかの自己を展開し呈示することになるわけです。文化とは空気のようにそこに存在しているわけではありません。文化は人々の存在のあり方にかかわります。人々が自らを定義し、それを交渉し、成功し失敗する中で作り上げられるのです。

文化はまず社会の変化に埋め込まれています。時代の変化を読み解き、そこに新しい文化を具体的に組み上げていく必要があります。言い方を変えると、文化のデザインは個人の心理には還元できず、社会の水準で捉えなければならないということです。サービスをテクストとして捉えるという若干古臭い議論をしてきたのは、このテクストが歴史の他のテクストを参照し変化させ呈示していくという間テクスト性を強調したいからでした。サービスデザインはテクストの実践だろうと思います。Douglas Holtの言い方だと、社会が変化する中で文化のオーソドクシー(orthodoxy)を否定し新しいイデオロギーの機会を捉え、人々がどういう自分を目指すのかというアイデンティティプロジェクトを具現化し、これまでの文化コードを埋め込みながら新しい文化を形作る必要があります。

これからは、この文化の水準で勝負できることが重要となります。この研究の内容はまた随時ご報告します。

補足: SDLがなぜInstitutionを議論しているのか

先日のBlogについてFacebook上で議論になったので補足しておきます。

サービス・ドミナント・ロジック(SDL)がなぜInstitution(制度)のようなものに議論を広げているのかという点です。これに違和感を感じている方は多いのではないでしょうか。この動きは理論の前提からすると必然だと思います。まず価値がSDLの根幹にあるわけですが、SDLは価値を主観性から説明します。つまり、価値は受益者がユニークに、現象学的に決定するということになるわけです。というのは、価値はモノに埋め込まれたものではないからです。しかし、そうだとすると、価値は誰にも知りえないものとなってしまい、理論が空虚になってしまいます。そこで、「だけど価値はランダムではない」と主張せざるを得ないわけです。

しかしランダムでないなら、一体何なのかが問題となります。それを説明するには、制度によって決まるという言い方をせざるをえないわけです。ここでGiddensを持ち出すわけですが、その制度とは社会的な実体として存在するのではなく、行為の中にのみ存在するということになりますが、その行為がある程度構造化されているというわけです。ですので、ランダムではないが、各主観性が決定するという中間的な説明になります。しかしそのように説明した後は、あたかも制度が決定するかのように、一気に制度を実体化した議論に飛躍していくわけです。社会学の永遠のテーマですね。

しかしながら、そもそもの問題は価値を主観性から議論したことにあるのであって、私は最初から価値を相互主観性の水準で捉えておけばいいと主張しているわけです。それであれば、制度のような概念に依拠しなくてもすむわけですし、全て実践の中で説明がつくわけです(もちろん制度概念自体に異論はありません)。

このような重箱のすみをつつくような議論はどうでもよいと思われるかもしれませんが、我々が一般的に用いている「価値」や「サービス」という言葉は、実は我々の幻想を写し込んだ概念だということです。我々が重要だと思って使っている概念はどれもそんなものです。

客はサービスの内部か外部か

先日のサービス学会のときに平本先生や佐藤くんの発表に関して、村上輝康先生と興味深いことを議論しましたので、整理しておきます。

まずサービスというものを、客や提供者(あるいは受益者)の主観性から出発すると理論が破綻するということを主張しました。それはサービスが価値共創であり、人々が相互作用を通じて様々な資源(それらの人々自身も資源である)を統合するというとき、主観性ではなく相互主観性の水準で捉えなければならないからです。Vargo & Luschが価値は「受益者が現象学的に決定する」というとき、フッサールの相互主観性の議論が想起されるわけですが、フッサールは(超越論的な意味での)主観性から出発して相互主観性を説明しようとして、一般的には不十分な結論に至ったように思います。つまり、結局他の人が見ているものと自分が見ているものが一致するということは前提でしかなく、それがどのように達成されるのかは説明しきれなかったように思います。相互主観性の水準の現象を説明するには、最初から相互主観性を前提に始めなければなりません(ここのブログで書いてきたように、組織論にとってルーチンについても同様の議論をしています)。

山内 裕, & 佐藤 那央. (2016). サービスデザイン再考. マーケティングジャーナル, 35(3), 64–74. (入手しにくいようですので、必要であればご連絡ください)

受益者や便益をモデルから切り出して外部に位置付けることは一つの有用な選択肢ではないかという話しがありました。上記のように、受益者自身も資源であるため、実践の内部として扱い得るし、そうするべきだというのが我々の主張です。一方で、受益者を外部として措定するということは、実は特に反論することなく受け入れることができます。なぜなら、その場の人々自身が、他の人がどのように評価するのかについては完全に知り得ないものとして扱う限りにおいて(相手の考えをおそるおそる探るなど)、その場の人々自身が受益者を外部性として直面し、その複雑性を縮減してなんとかやっているからです。そもそも我々はサービスという相互主観性に着目しているのであって、ルーマンに従えば個人の主観性はそのサービスの外部(システムの側ではなく環境の側)である必要があります。ですので、便益をモデルの外部に置くというのは、かなり鋭い判断というわけです。

しかし、この外部性自体は、彼らにとっても研究者にとっても不可知ではなく、経験的に相互主観性の水準で記述することが可能です。つまり、おそるおそる探る方法を記述できます。ちなみに
『「闘争」としてのサービス』でレヴィナスに依拠して他者の外部性を取り込もうとしたのは、この意味を強調したかったからでした。ただしこの外部性もあくまでも現前するということです。

何が外部で何が内部なのかというのは単純な切り分けではありませんね。基本的には理論の中に外部性を位置付ける余裕を持たないと、とてもキケンなものになってしまいます。闘争というのは外部性を研ぎ澄ませた概念ですが、そうではなく美しい全体性を主張する方がキケンなのです。

経営学とは

また新学期が始まり学生さんが入ってきました。この時期は色々な方々に経営学のことを説明するのですが、若干のずれを感じるときがあります。

世の中で「ビジネススクールに行っても経営ができない」とか「実務に役に立たない」というような批判が聞かれますが、そもそもそのようなことを教えることを目的とはしていません。経営学はあくまでも学問です。「学問」であるとは、世界をどうするのかという方策や、また世界がどうなるかの予測ではなく、世界が可能であるための「前提」について考えることを意味します。私はMBAの授業でも、そのような前提についての問いを投げかけて、考えていただくところから始めることを意識しています(結果的に学生からの評判はよくないですが)。

実際に我々のビジネススクールには、成功された経営者の方々が毎年何人か入学されます。これらの人の経営能力は繰返し証明済みです。同時に、経営学を教えている教員は経営ができるわけではありません(できる人もいるかもしれませんがそれは偶然です)。その中で双方がビジネススクールに存在意義を認めるとすると、それは経営のやり方を教えるという意味ではなく、経営についての前提を問うことができるというだけにすぎません。学者は中立な立場から客観的に経営について分析することができる(そしてそれを考えることとそれをするということは違う)というのは正しい説明ではありません。そんなことは学者でなくてもできます。あるいは経営学で議論されている最新の知見を教えるというのも存在理由にはなりません。そもそもそのような知見を批判することを仕事としているはずです。

だからと言って、学者は自らリスクを負わず、学問のために学問をするべきでもありません。自分が研究の対象とする世界の中に含まれており、距離を取って特権的な地位に立つことはできないからです。自分がそして自分の理論が世界の中でどういう位置付けにあるのか、どういう前提をどこから引き継いでいるのかを常に考え続けなければなりません。世界が可能であるための条件を探究し主張する理論は、本来的にわかりにくいものであり、人々に違和感を与えるものであり、必ず拒否されるものです。人々が聞きたいことをカッコよく言うのは学者の態度ではありません。学問の自由について
本学の山極総長の式辞でも触れられていますが、私なりに違う言い方をすると、学問の自由というのは特権を与えられて好き勝手なことをするということではなく、人々に認められず、批判され、否定されても、仕事をやりとげる自由です(ところで、憲法に書かれていてもそんな自由は誰も保障してくれません)。そうやって考え抜いた理論が社会に対して唯一の貢献となるのですが、そのときその理論は社会からは否定されるのです。

ちなみに、多くの学問の中では経営学はあやしげなものと見られることがあります。つまり、経営という実務的な目的のために浅い研究をしているというように見られています。経営学を学問としてやっている教員は、必ずしも利益を上げる経営を無条件に正とはしていませんし、学者である限りにおいてはそのような前提を受入れるのではなく、その前提こそを探究するものです。経営学者こそ、経営というものに対して最も批判的であるはずです。それは単に経営というものを俗っぽいものとして切り捨てるような安易な批判ではなく、経営の前提を考えつくした上での経営の内部の視点からの批判です。

なお、当然ながらこれは私の個人的な考えです。

サービスにおけるルーチンの達成

Yamauchi, Y., & Hiramoto, T. (in press). Reflexivity of Routines: An Ethnomethodological Investigation of Initial Service Encounters at Sushi Bars in Tokyo. Organization Studies.
http://oss.sagepub.com/cgi/reprint/0170840616634125v1.pdf?ijkey=yJmtzz3b9Kt0b6b&keytype=finite

鮨屋の論文です。データを取り始めてから5年ほど… エスノメソドロジー研究を組織論のジャーナルに出すには、まず最初全く理解されないところから始まり、それでも何か面白そうと思ってもらってなんとか耐え凌ぎ、リビジョンを8回ほど重ねようやくとなります。組織論のルーチンの文脈に乗せて書いています。

内容は、ルーチンにおける理解の食い違いです。つまり、鮨屋の親方は注文などのルーチンを当然のように提示するのですが、かなり高い水準を設定します(メニュー表がない、価格がわからない、作法があるなど)。当然ながらほとんどの客はそれに当然のように応えることができず、なんとか四苦八苦して応えるか、あるいは応えることができません。この理解の食い違いはルーチンに内在的なのですが、ルーチン理論ではルーチンに対する理解は一致しないといけないことになっているので、説明がつきません。そこで理解の食い違いはむしろルーチンにとっての前提であり、一致する必要はなく、その食い違いを参与者自身が再帰的に理解し、提示し、使用することでルーチンが達成されることを示すものです。

ルーチンの理解が一致しないことが、サービスの価値を高めることになり、客がどういう客なのかを示すことを可能にします。もし鮨屋のルーチンを客が簡単に理解でき実践できれば、客にとって日常に過ぎず、鮨屋の価値は毀損されるでしょう。客に理解されないルーチンを、ルーチンに(つまり当然のように)提示することが、サービスの価値を提示することになります。客はこの難しいルーチンに対して、できるだけ簡潔に労力を使わず、つまりルーチンに答えることが、自分の力を示すことになります。

そう考えると何がルーチンなのだろうかという問題に行きつきます。ルーチンは組織論にとって伝統的に最も基礎的な概念ですが、それが未だに研究されうるとは驚きですね。

かさね <襲>

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大阪の料理屋「
柏屋」のご主人松尾英明さんから新しい「襲(かさね)」をいただきました。日本の美意識である色の合せ方(襲の色目)による象徴的な表現をお菓子にしたものです。例えば、桜の季節では柳桜の緑とピンクを合わせます。それにより、柳と桜の混る春の光景が広がることになります。毎月新しい襲を作られていて、あまから手帖に載っただけで50種類以上、全てで100種類以上を作られたとのことです。

この襲は、料理の細部に重層的なストーリーを作り込まれる松尾さんらしい美意識の表現です。小さな四角の中に色が抽象的に配置されます。お菓子としてはこの絶妙な小さなかたちに表現すること、料理屋さんだからできる贅沢ですね。それを複数並べるというさらなる贅沢。一つの襲によって空間が広がり、それが複数並べられることで時間が流れ出します。

そして、一つひとつの襲にはそれぞれの意味があり、それが古来の伝統のテクストを参照しています。これらのテクストが考える暇もなく一瞬のうちに想起され、かつそれらのテクストが微妙にズラされ、伝統と季節が立体的に表現されます。しかもそれをパクっと食べろと要求される。黒文字でそれを無造作に突き刺した自分への違和感、そしてここだけでしか味わえない特徴のある様々な餡が混った味の余韻と、それを必死で識別しようとする自分、そしてそれが次第に消えていくときのぼわーっと現実に連れ戻される感覚、それらが全て一瞬のうちに通り過ぎます。

極限までシンプルにすることで、最大限の複雑さが表現できる。なんとも考え抜かれたお菓子です。

香港での出店、千里山のお店の改装、スーツを着た男性プロフェッショナルによるサービスという新しい取り組み、次の展開が読めない松尾さんですが、サービスを研究するものにとっては想像力の源泉です。

理性の狡智

在庫が尽きてきましたので、『「闘争」としてのサービス』の第3刷を作ります。この本の中で書いた文化のデザインについて、最近議論する機会がありましたので補足します。

サービスが根本的に矛盾であるということはすでにご紹介した通りです。つまり、サービスにおいては、顧客を満足させようとすると、顧客は満足しなくなります。この矛盾は、他でもよく見られるものの一つの派生型です。例えば、「痩せる」と謳っている商品を買って使うと多くの場合逆に太ります。それを使うと痩せた気になって気がゆるみ、結果的にまた食べてしまうからです。他には、信頼性の高い情報を提供するサービスを使うと、結果的に利用者が与えられた情報を信じてしまい、考えなくなり結果的に信頼性が失われること、情報のやりとりを効率的にするためにマトリックス組織を作りそれがうまく機能するほど、人々があえて情報を共有しようとする努力をしなくなり結果的に情報のやりとりが阻害されてしまう、などなどの事例があります。

なぜこのようなことが起こるかというと、主体が客体を見ているという主客分離の前提に立ってデザインする一方で、客体の中に主体が絡み合っているからです。サービスは客も参加して共創するわけですから、客がサービスの価値を問題とするとき、そのサービスに絡み合っている自分自身の価値もそこで問題とならざるを得ないわけです。

結果的に、特にサービスのデザインにおいて、というよりも一般的にはこのような内在性のある社会的現実のデザインにおいては、「理性の狡智」(ヘーゲル)とでも呼ばれるような事態が生じます。つまり、カエサルを殺して共和制を取り戻そうとしたその行為そのものが、カエサル(皇帝)、つまりアウグストゥスを生み出す結果となる。とりあえずヘーゲルを信じて歴史が理性的であるという前提に立つ必要はないのですが、基本的には何かの目標を達成するためには、人々はそれを「誤認」しなければならないということです。痩せるためには、太ると誤認して危機感を持つことが、結果的に痩せるという真実を打ち立てます。つまり、
Zizekが言うように、誤認が真実に内在的なのです。

以前
Re:public田村大さんから、夕張市の財政破綻が病院の閉鎖を余儀無くさせ医療崩壊をもたらしたこと、しかし結果的に市民が健康を意識するようになり、医療に依存しない生活を実現したことを紹介いただきました。つまり医療崩壊が医療のベストプラクティスをもたらしたわけです。もちろん現実はそんなに単純ではないということは理解しなければなりませんが、この事例は理性の狡智としてとても示唆的です。逆に一方的に人々によりよい医療を提供しようとしたのでは本当に目指した医療が実現できるのか、その努力を否定するのはとんでもない間違いですが、だからと言ってこの矛盾から目を背けるというのも間違いでしょう。主客を分離し、一方的に与えるだけのサービスでは、その目的は達成できません。

それではこのようなサービスをどのようにデザインできるのか? (とりあえず)そこでは何らかの弁証法的な矛盾をデザインしなければならないだろうと考えています。鮨屋が、かなり高い水準の知識と経験を前提とするような「文化」を構築し、ほとんどの客を否定し緊張感を感じさせることは、この矛盾を捉えギャップを作り出しているわけです。ここでは、この文化にふさわしい自分という目標が到達できない彼岸としてデザインされており、重要なのはそれに向かう「動き」そのものです。この動きがサービスであり、サービスデザインはこの動きを作り出すことです。このようなデザインは、Don Norman自身の言葉で言うならば、通常言われているような人間中心設計とは「正反対 reverse」となります。積極的に利用者の「誤認」をデザインしていかなければなりません。

以上のことを、『「闘争」としてのサービス』で書こうとしたのですが、うまく伝わらなかったかもしれません。もっとわかりやすく書かないといけないと思いますが、同時にわかりやすすぎてわかった気にならないように書くということを考えると、まだまだですね。

Montrachet 1983

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モンラッシェ (Montrachet)、世界で最も偉大な白ワイン。アレクサンドル・デュマが「脱帽し、ひざまずいて飲むべし」と言ったワイン。ブルゴーニュ地方のピュリニィ・モンラッシェ村で生産される。栗とハチミツの香り、琥珀色。すっと入ってくるなめらかさに、ブランデーのような力強さ。もはや言葉では表現できないあじわい。少し前に、橋本憲一氏が秘蔵にされていた、D.R.C.(Domaine de la Romanee-Conti)の1983年モンラッシェを開ける会に参加させていただいた。

モンラッシェは白ワインではない。今まで飲んだ白ワインは一体何だったのか? そのように思わせられるワインだった。以前バタール・モンラッシェ(Batar-Montrachet)を飲んだときの衝撃と同じ、そしてさらにそれを上まわる感覚だった。モンラッシェは白ワインの中で最高の地位をしめる。つまり、他の白ワインが目指すべきもので、これこそが白ワインの本質ということになるだろう。しかし、このワインは、白ワインと呼ばれるものを越え出ている。白ワインの本質は、もはや白ワインではない。

頂点に立つものは、その自分自身のカテゴリを越え出る。そういうことはよくある。サントリー名誉チーフブレンダー輿水精一氏がブレンドしたウイスキー「瞳」も、最高峰のウイスキーだろう。しかしそれを最初に飲んだときの感想は、「これはウイスキーか?」というものであった。頂点に立つということは、そのカテゴリの中で一番美味しいということであるが、すでにそのカテゴリの中には収まらない。

しかし、そうすると他の白ワインは一体何なのか? それはモンラッシェを目指しながら到達できない劣悪品ということになるのだろうか? ピエール・ブルデューが「まがいもの」と呼んだような、モンラッシェを飲めない人が代用するものだろうか。もちろんそういう側面もなくはないだろうが、おそらくそうではないだろう。輿水氏は「角」もブレンドされていた。そして輿水氏は、「角は自分の誇りだ」という。「瞳」を作ることができる輿水氏が、「角」が自分の誇りであるとはどういうことだろうか? 角は単に最高ではない品質の安い原酒をブレンドして、その範囲内で美味しくしたというような商品ではない。角は、「毎日飲んでも美味しい」というウイスキーである。毎日飲んでも飽きずに美味しい、そのようなウイスキーを作るには天才が必要であるし、相当の努力が必要だろう。

モンラッシェのようなワインを飲んだとき、自分が試されていると感じる。自分の仕事に同じぐらいの力強さがあるのか考えさせられる。最高の仕事をすることは、自らのカテゴリを越え出ることであり、そこには基準がないし、真似する目標もない。

サービスの海外展開

我々は文化に関わる研究をしているので、自分の研究がエスノセントリズムを免れ得ないことは十分に承知している。つまり、どんな研究でもある別の文化を客体として措定した時点で、その文化に自らを投影するという危険性(であり必然性)と向き合わなければならない。そして文化は客体化できない、つまりそこにある文化を観察して記述することはできない。文化は別の文化を通してのみ記述され得る。

さて、シンガポールで日本のオーセンティックなバーという文化を現地に持ち込んでいる金高大輝氏とお話しする機会があった。金高氏は銀座のスタアバーで10年近く修行した後、北京で出店し、その後シンガポールにD. Bespokeを開いた。伝統的な日本のスタイルのバーである。ちなみにこのバー文化はそもそも日本以外には存在しないし、誰も知らなかったものである。そこで彼は彼自身の言葉で言うと「文化を作る」仕事をしている。客には日本人はほとんどいないという。



サービスの海外展開には、文化を現地のやり方に合わせることが重要であるとか、日本の文化は魅惑をもたらすものとして付加価値となるとか言われる。このとき文化をどのように扱うのか? もし日本のバーが正解であるとして持ち込もうとすると失敗するだろう。しかし、自信を持って日本の文化を持ち込まなければ、それも失敗するだろう。その折衷案がいいのだろうか。


つまるところ、このようなサービスの異文化展開は一つの矛盾である。金高氏自身が、日本のバーというもののあり方に違和感を感じ、それを明確に否定する(だから海外に行く)。しかしながら、彼は現地に完璧に日本のバーを仕立て上げるのである(日本のバーよりも日本らしい)。この矛盾を乗り越えるには、一つの矛盾した文化を「打ち立てる」以外には方法はない。そのとき、それを打ち立てる主体は、客体に対して距離を取るのではなく、自らの行為を通して自らと客体との間の矛盾を乗り越えようとし、自分の主体を(矛盾として)打ち立てる。月並な言い方をすれば、現地で勝負をするということである。そのように作り上げられたサービスは、それがもはや日本の文化なのか、現地の文化なのか、あるいはその組み合せなのかは、どうでもいい問題である。

文化とは生活の背景にあるぼやっとしたものではなく、このように矛盾を打ち立てる行為の過程であり、主体が自己規定していく過程によって構成される。研究者が文化を対象とするとき、同じ弁証法に直面する。たとえばエスノグラフィをするとき、以上のことが賭けられている。あるものを一つの文化としてデザインするデザイナーも同様だろう。



ブリコラージュについて

ブリコラージュ(bricolage)の概念は最近よく使われるのですが、多少の違和感を感じている方が多いのではないでしょうか? ちょうどある本(『EMCAハンドブック』新曜社)のひとつの章で書いたので、ここでも書いておきます。ブリコラージュというのはLevi-Straussによって広められた概念で、技術者(エンジニア)の方法に対比される概念です。つまり、ある目的のために概念的に何かをゼロから組み立てるような技術者的な合理性に対して、すでにある断片を寄せ集めて間に合せ的に組み立てる器用仕事を指します。このようなブリコラージュ概念は、とりあえず形にするというプロトタイピングを重視する昨今のデザイン思考に重なって特に議論されているように思います。あるいは、論理的に分析するアプローチから、意味不明の状況をなんとか断片を組み合せて理解可能に仕立てるというナラティブを重視したアプローチというのも同様です。

この概念に対する違和感というのは、DerridaのLevi-Strauss批判にもあるように、そもそも技術者的な方法に基づいてゼロから最適に組み立てるようなものがありえないこと、つまりこのような二項対立的な差異が崩壊すること、それによりブリコラージュ概念自体が意味をなさないことに起因します。私の研究に即して言うと、この本来存在しない差異を肯定した上でブリコラージュ概念を使うということは、ブリコラージュが常に神話化された技術者的理想の否定として議論され、結果的に技術者的理想の概念を引きずってしまう傾向があるということです。ブリコラージュ概念自体に全ての負荷を負わせ、技術者的論理の夢を実現しようとしてしまうことです。例えば、ブリコルールがデザイン思考的にありあわせの物を使って技術者と同等のものを作り上げる、さらには技術者よりも素晴しいものを作ることができるというようなときに、エスノセントリズム(民族中心主義)が際立ってしまうのです。

Levi-Straussの神話分析は、神話の脱中心性を主張するものです(それが「構造」で説明される矛盾をDerridaが批判するわけですが)。実際のブリコラージュとは、完成されない、断片的で、いつまでも意味の確定しない「遊び」ですが、この遊びは全体の構造を閉じた上での安全な遊びではなく、安全性を期待しない開かれた遊びです。中心を排除しようとする言説が、実はそれをノスタルジックに求めており、そもそもない中心に代補的に中心を設定することで、現実を一定の理想にあてはめることを志向していることになります。

ブリコラージュの概念を導入したJulien Orrの研究、それに関連してナラティブによる意味形成を議論したWeickやCzarniawskaなどの研究を私が(内在的に)批判するのは、以上の理由によります。ブリコラージュにより断片をつなぎあわせてストーリーを語るというとき、それが何か一貫した(coherent)意味のある全体性(meaningful whole)を構築するように記述され、あたかも語られる物語が完成しており意味が閉じられるかのように説明されてしまいます。この問題は、ブリコラージュをブラックボックスにした上でそれに全ての仕事を押し付けただけで、実際にブリコラージュの実践自体(例えば、語ること自体)を詳細に分析していないことに起因しています。ちなみに、これが内在的な批判であるというのは、そもそもこれらの研究者が脱中心化を目指したということがあり、彼らがそれと矛盾するものを導入したことによって目指したものに到達できなかったということ、それを乗り越えることで(敬意を持って)彼らの目指したものを実現しようとしているからです。

Yamauchi, Y. (2015). Reflexive Organizing for Knowledge Sharing: An Ethnomethodological Study of Service Technicians. Journal of Management Studies, 52(6), 742–765.