Destructured
Yutaka Yamauchi

客はサービスの内部か外部か

先日のサービス学会のときに平本先生や佐藤くんの発表に関して、村上輝康先生と興味深いことを議論しましたので、整理しておきます。

まずサービスというものを、客や提供者(あるいは受益者)の主観性から出発すると理論が破綻するということを主張しました。それはサービスが価値共創であり、人々が相互作用を通じて様々な資源(それらの人々自身も資源である)を統合するというとき、主観性ではなく相互主観性の水準で捉えなければならないからです。Vargo & Luschが価値は「受益者が現象学的に決定する」というとき、フッサールの相互主観性の議論が想起されるわけですが、フッサールは(超越論的な意味での)主観性から出発して相互主観性を説明しようとして、一般的には不十分な結論に至ったように思います。つまり、結局他の人が見ているものと自分が見ているものが一致するということは前提でしかなく、それがどのように達成されるのかは説明しきれなかったように思います。相互主観性の水準の現象を説明するには、最初から相互主観性を前提に始めなければなりません(ここのブログで書いてきたように、組織論にとってルーチンについても同様の議論をしています)。

山内 裕, & 佐藤 那央. (2016). サービスデザイン再考. マーケティングジャーナル, 35(3), 64–74. (入手しにくいようですので、必要であればご連絡ください)

受益者や便益をモデルから切り出して外部に位置付けることは一つの有用な選択肢ではないかという話しがありました。上記のように、受益者自身も資源であるため、実践の内部として扱い得るし、そうするべきだというのが我々の主張です。一方で、受益者を外部として措定するということは、実は特に反論することなく受け入れることができます。なぜなら、その場の人々自身が、他の人がどのように評価するのかについては完全に知り得ないものとして扱う限りにおいて(相手の考えをおそるおそる探るなど)、その場の人々自身が受益者を外部性として直面し、その複雑性を縮減してなんとかやっているからです。そもそも我々はサービスという相互主観性に着目しているのであって、ルーマンに従えば個人の主観性はそのサービスの外部(システムの側ではなく環境の側)である必要があります。ですので、便益をモデルの外部に置くというのは、かなり鋭い判断というわけです。

しかし、この外部性自体は、彼らにとっても研究者にとっても不可知ではなく、経験的に相互主観性の水準で記述することが可能です。つまり、おそるおそる探る方法を記述できます。ちなみに
『「闘争」としてのサービス』でレヴィナスに依拠して他者の外部性を取り込もうとしたのは、この意味を強調したかったからでした。ただしこの外部性もあくまでも現前するということです。

何が外部で何が内部なのかというのは単純な切り分けではありませんね。基本的には理論の中に外部性を位置付ける余裕を持たないと、とてもキケンなものになってしまいます。闘争というのは外部性を研ぎ澄ませた概念ですが、そうではなく美しい全体性を主張する方がキケンなのです。