Untextured
Yutaka Yamauchi

Stacks Image 1604

組織・コミュニティデザイン (京都大学デザインスクール・テキストシリーズ 2)
山内 裕・平本 毅・杉万 俊夫


京都大学デザインスクール共通科目「組織・コミュニティデザイン論」の教科書です(博士後期過程の教科書ですので、本当の教科書だと思うとがっかりされるかもしれません)。デザインスクールは社会(システムやアーキテクチャ)のデザインをかかげ、デザイン学を学問として確立することを目指して活動してきました(「システム」や「アーキテクチャ」というように一段概念を挿入しているのは、社会のデザインと言い切れない歯切れの悪さの前で躊躇したようです)。デザインスクールに参画する社会科学系部局の教員として、「社会のデザイン」とは何かを考えてプログラムを構築してきました。この教科書は我々なりの答えです。

もはや社会を実体として捉えることはできません。つまり日本社会というようなモノがあるとは考えることはできません。そのように措定したとしても、デザインの活動は広がりません。そこで社会のデザインをどう捉えるのか? 人々が社会を打ち立てる「
実践」、それは「言語」を介して、かつデザインされる社会の中で「内在的」に、他者との関係の中で、つまり「相互主観的」になされますが、これに準拠してデザインを考えることができないかという試みです。

3つの部に分けて「組織」のデザイン、「コミュニティ」のデザイン、そして「文化」のデザインを議論しています。私は特に
文化のデザインを担当しました。文化と言っても、日本文化のようなものではなく、日常的にデザインされているものを想定しています。たとえば東京の鮨屋やスターバックスは特定の文化を生み出したのですが、これらはどのようにデザインされうるのかという問題です。文化とは相互主観的な実践において出現する概念であることを読み解きながら、文化をデザインすることを議論しています。

同時に、文化を持ち出すのは、現在の社会において文化が重要なデザインの賭金となっているからです。現在資本主義が新しい矛盾に直面しているように思います(常にそうでしたが)。資本主義社会は文化を自らの外に排除してきました。この文化は一つにはエキゾティックなもの、精神的なものであり、さらには芸術を指します。特に芸術は資本主義とは正反対のロジックを作り上げ自律化してきました。ところがこの外部性としての文化がなければ、資本主義社会が自分自身を維持できない矛盾に直面しているのです。

それは資本主義社会が全てを審美化し、クリエイティビティを特権から義務にするなかで、どのような商品も市場で流通してしまったら価値を失ってしまうようになったからです。ここで残された唯一の価値の源泉は、資本主義社会の外部ということになります。そして資本主義社会は価値を常に求め続けなければなりません。だから現在においてデザインに注目が集まるのは当然のことです。デザインは芸術のように外部性でありながら、資本主義社会の機能に奉仕する内部性でもあります。

この関係性をもう一段読み替えて、デザインの新しい定義を提唱しました。
デザインとは社会の限界点としての外部性を内部に節合することであるというものです。この定義によるデザインとは、常に文化のデザインです。もちろん本書はこのような野心的なアジェンダの完全な答えとはなっていません。本書はこのデザインがどういうものなのかを考える第一歩として、一緒にデザイン学という学問を作る試みへの招待です。

山内裕, 平本毅 & 杉万俊夫. (2017年10月20日刊行). 『組織・コミュニティデザイン』共立出版.

amazon / rakuten / 共立出版

Stacks Image 1607

「闘争」としてのサービス—顧客インタラクションの研究
山内 裕



サービスとは何でしょうか? 心からの奉仕であるとか、居心地のいい空間を作ることであるとか、顧客のニーズを満たすことであるとか、顧客に便益をもたらすと言われます。サービスにおいては顧客を満足させることが究極の目標であると考えられることが多いです。しかし本当にそうでしょうか?

鮨屋で親父がニコリともしない。わざわざメニュー表を置かず、値段もわからず、最後に合計しか知らされない。京都の料理屋でとても入りづらい雰囲気を醸し出したり、読めない掛軸がかけられている。何も看板をかけないあやしそうなバーがある。カジュアルなイタリアンやカフェでも、メニューに客にとって理解不可能な名前がつけられている。これらは既存のサービスの理論では説明できないように思います。

サービスとは力のせめぎあいです。お茶席で亭主がそっと見えないように気遣った。客がそれを見て感心した。これは見えないように気づかったことで、客からの見返りをもとめない配慮をしているというだけではありません。客がその亭主の力量を「感心した」、つまり亭主の力を認めたこと、そして客がそれを認めるだけの力を持っていることが問題となっているのです。

もし鮨屋で職人が笑顔をふりまいて客につくそうとすると、客はその鮨を同じぐらい高く評価するでしょうか? 職人は客のためにではなく、自分のために仕事をしているから、客はその仕事を高く評価するのです。提供者が客を満足させようとすると、客は満足しなくなります。客にわかりやすく、居心地のよい空間を作るのではなく、逆にわかりにくく、緊張感のある空間を作らなければなりません。サービスは高級になるほど、笑顔、情報量、迅速さ、親しみやすさなどの所謂「サービス」は減少します。これらの「サービス」はサービスの本来の価値を低下させます。

どのようなサービスでも、つまり高級なものだけに限らず、まずそのサービスが客にとって特別なもの、非日常であるというように文化を構築します。その時点で客を否定しているのです。つまり客が日常的に知っているものよりも優れたものであるということ。そして客はそのように構築された文化の中で背伸びをしてふさわしい人間を演じることを求められます。この緊張感がサービスの基本であり、笑顔で調和の取れたサービスというのは、その裏返しとして作り上げられたものです。

サービスが闘いであると主張するとき、客をないがしろにするということではありません。客を一人の人間として認めるならば、その人と闘う覚悟が必要となります。世の中では一方的なサービスが広く普及していますが(金を払って座っていれば満足させてくれるという意味で風俗化と呼んでいます)、そこでは客を一人の人としては捉えていない、つまり人をモノとして扱っているのです。闘いのサービスは、人を人として考える必然的な帰結です。

サービスの価値は、このような闘いから生まれます。要求を満たすと要求が消滅し、価値も消滅してしまいます。客を喜ばそうというだけのサービスは自らの価値を毀損することになります。全く別の価値があるということを理解することが重要だと考えています。本当の料理人はただ食べて美味しい料理を作りません。美味しいかどうかわからないような料理。それにより料理人はリスクを取り勝負しているのであり、客も試されているのです。

この本はサービスに関する言説を180度転回させる結果となりました。それだけサービスという対象が複雑で両面的なのです。現在社会はサービスで溢れています。経済の大部分はサービスですし、製造業も農業もサービス化しようとしています。そのようなサービスがこのように180度違う議論を許すというのは、学者としてはとてもエキサイティングなことです。サービス科学は今後もっと面白くなる予感がします。

第一部
鮨屋、モスバーガー、イタリアン、フレンチなどでビデオカメラで記録して分析したサービスの経験的研究です。

第二部
このようなサービスは既存理論では説明がつかず、新しい理論が求められています。サービスとは力を示し、相手の力を見極めようとする闘いです。サービスとは客に奉仕することではなく、客を否定することです。サービスにおける居心地とは単なるくつろぎではなく、「緊張感の中のくつろぎ」です。などなど。要点だけを知りたい方は、第二部から読んでいただくといいと思います。

第三部
それではサービスをどうデザインするべきでしょうか? サービスにおいては人間中心設計とは正反対のアプローチが必要となります。つまり、人間-脱-中心設計…

終章
闘いがなくなることにより、社会が画一化し、表面的な人間性が付与されるようになります。そのような社会を乗り越える理論が必要だという問題意識を議論します。

山内裕『「闘争」としてのサービス--顧客インタラクションの研究』 中央経済社, 2015年3月24日.

rakuten / amazon / 中央経済社