先日の美術家の森村泰昌さんとの対談の続きです。前回の「美」についての話しの中でも出てきた、「わたし」ということを考えたいと思います。森村さんの作品はセルフポートレートですので、御自身が写っている写真が中心となります。過去の芸術作品、女優、歴史上の人物が題材になり、それらをセルフポートレートで再現されます(例えば、自分がゴッホになる、モナリザになる)。この芸術の形式のおもしろさはどこにあるのでしょうか?
この形式は、作者が直接的に写し込まれることにより、様々な効果を生み出します。まず森村さんの芸術に対する姿勢を拝見すると、セルフポートレートを撮るのは、自分を表現することが得意だから、あるいはナルシスティックに自分を見せたいからではないことがわかります。むしろ子供のときから自分の世界の閉じこもり妄想していたようなところがあると書かれています(これは私も同じですのでとても共感します)。セルフポートレートは、むしろ自分を震い立たせて、自分をさらして、外に連れ出すような動きなのです。そのまま自分のセルフポートレートを撮るのではなく、過去の作品を身にまとうことによって自分を外に連れ出しているとも言えます。
この点は、実は私がなぜ鮨屋やバーなどのサービス現場を研究しているのかということにも関連しています。私の研究にも「わたし」が写し込まれています。鮨屋は特に「さらしの商売」と言うぐらいで、自分をさらけ出します。客も同じように、自分の所作が親方に見られるという意味で、自分をさらしています。この関係に魅力を感じるのです。サービスを闘争という緊張感によって説明しているのですが、このサービスという場を通して、自分を外に連れ出すという動きがあるからです。
次に、作品の鑑賞者も巻き込まれていることが重要です。『芸術家Mのできるまで』という本の中で、森村さんは次のように書かれています。
それ[補足: セルフポートレート]を突然見せられたひとは、ちょっとたじろぐ。鑑賞者は見ることに徹することができるので、いつも安全圏にいると思い込んでいる。ところが、自分がのぞき込もうとしている目の前の写真のなかから、ほかならぬその写真作品の作者自身がこちらを先に見つめていたりすると、いつもと要領が違ってしまって困るのだろう。たとえばそういう「肉を切らせて骨を切る」ような視線の関係を切り結ぶことを通じて、生身をさらす痛みを我慢する勇気を獲得してゆくことが、自分流儀という意味である。(p. 250)
ここでは鑑賞者は作品に対して安全な位置にいることはできず、作品に巻き込まれます。生身をさらすことの痛みを我慢する勇気を獲得するというのは、まさに作者が自分を震い立たせて自らを外に連れ出す動きですが、それにより鑑賞者も外に連れ出されるわけです。肉を切らせて骨を切るという、まさに闘争の関係が成立しているかのようです。
そして、さらには森村さんが変身しているモデルがいます。モナリザ、ゴッホ、マリリン・モンローなどです。前回書いたように、森村さんの芸術には過去の救済の契機があります。これらの人に「なる」ことで、これらの人のことを自分の体を通して知ることになります。新しい意味が生み出され、新しい自分なりの美術史を書き始めるわけです。そして、これらの人を描いている芸術家も関わります。これらの過去の人々を、正統な勝者の歴史から解放し、外に連れ出すわけです。
つまり、森村さんの作品には、森村さん自身、鑑賞者、過去の人物という三者の「わたし」が、ひとつのイベントの中で、一気に外に連れ出されているのです。むしろ、それぞれが互いを外に連れ出すことによって、自分自身を外に連れ出しているというような関係です。私は森村さんの芸術の面白さは、この3つの「わたし」の重なりにあると思います。人はみな「わたし」というものとの関係に呪われているように思います。森村さんの作品が人々にインパクトを与えるのは、まさに自分がそこに絡み取られ、外に連れ出されると感じられるからではないでしょうか。
さてサービスについてですが、まさしく提供者と客がお互いを外に連れ出す動きがあって、それが闘争を形成し、大きな価値を生み出していると言えないでしょうか。そして、鮨屋にしても、バーにしても、そこには伝統というものが関わっています。親方は伝統と対決し、自分のスタイルを獲得し、鮨に新しい自分なりの意味を与えていきます。それにより伝統が外に連れ出され革新されていきます。客も伝統に魅了され、伝統に追い付こうとしますが、伝統によって自分を外に連れ出しているのです。伝統(tradition)という言葉のラテン語の原語(tradere)には、降伏する(surrender)と裏切り(betrayal)という意味がありますが、降伏しつつ裏切って自分を獲得するという両義性があると思います。
そして、森村さんの作品が表現している「わたし」というのは、確固とした主体ではなく、まさに外に連れ出される動きの中で、感じられるものだと思います。対談の中で、次のように話されました。
「わたし」というのをずっと掘り下げていったら核のようなものに行きあたるのではなくて、何かと対面しながら何かがあぶり出されていくときに、自分の「わたし」の手応えがある。
不安を抱えつつ、外に連れ出される動きの中で、鑑賞者はゆさぶられると同時に、一瞬「わたし」を感じることができるのだと思います。そして確固とした「わたし」があるのではないかという幻想の無意味も感じるのだろうと思います。確固とした「わたし」から出発するのではなく、むしろ自身を疎外する中で、なんとか自分を取り集め、その中から「わたし」を感じ取るということです。
さて、アートシンキングについてです。アートには自己を危険にさらす何らかの契機がありますが、ビジネスがアートのように価値を出していくためには、自身を危険にさらさないといけないわけです。そして、それにより顧客も危険にさらしていきます。もちろん、この危険は直接的なものというよりは、微妙な形式の中に感じられる緊迫感として現われるものですが、それを生み出すには予定調和ではなく、当事者は生身をさらる痛みを我慢する勇気が必要です。ビジネスが客を喜ばせるためにアートを利用するというような関係では、アートシンキングは達成できないということです。
私自身のサービスにおける研究に重ねて書いてみましたが、実は異なるところもあります。対談の中では森村さんの方から、私の闘争概念について逆に指摘をいただきました。その点については、「視線」に関連して、また別途書きたいと思います。
森村泰昌氏対談に関するブログ:
- 「美」とは
- アートにおける「わたし」
- 美の政治と批判
- 見ること、見られること、見つめること
デザインイノベーションコンソーシアム
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http://designinnovation.jp/program/designseminars/ds06.html