11月20日のデザインセミナー「アートシンキング」で、モリムラ@ミュージアムにお邪魔し、美術家の森村泰昌さんと対談させていただきました。森村さんは、自分がゴッホやモナリザになるというような形で、セルフポートレート写真で著名です。いくつか重要なトピックがありましたので、何度かに分けて整理していきたいと思います。
森村さんのアートにおいては、「美」を意識されています。現代アートが、感性的な美しさを求めなくなった事情からすると、この「美」の背景には重要な視座があると思います。1995年に書かれた『美術の解剖学講義』で、森村さんは「美」を定義されています。
美とは未来に向かって振り返ることである。そして美はいつも「まがいもの」としてのみ現われる。(p. 224-225)
これは核心をついた定義だと思います。振り返るのは過去であって未来ではないはずですが、あえて未来に向かって振り返るというのは、どういう意味でしょうか? ヴァルター・ベンヤミンは、歴史の連続性を打破する革命は、過去を救済することによってなされると言いました。最近は未来のビジョンを描けというような話しで溢れています。しかし未来のあるべき姿は、どれもふわふわして軽く聞こえてしまいます。歴史がないからです。歴史から切り離されたビジョンは新奇なだけで革命にはならず、逆に過去に狙いをさだめて跳躍していくことにより、歴史の中に位置付けられ、歴史の連続を断絶できるのだろうと思います。
歴史は勝者が作り出すので、過去を救済するということは、抹殺されたり歪められてきた敗者を解放することでもあります。森村さんがマリリン・モンローになるセルフポートレートを作成されるとき、マリリン・モンローという社会が生み出した人の背後に抹殺されたノーマ・ジーン(マリリン・モンローの本名)がいたということを語られています。文字通り、過去の敗者を救済しているのです。あるいは、モナリザになるということは、その不思議な微笑み、神秘的な視線、不自然な右手などを自分の体でやってみることで、新しい意味を作り出していきます。モナリザが妊娠していたのではないか、実はダ・ビンチの自画像ではないかという説にも大胆に新しい解釈がなされていきます。森村さんは、(勝者の)歴史から「こぼれおちるものが出てくる」が、それらをひろっていくことによって「自分なりの美術史を作る」ことを話されました。
それでは、森村さんが実際に作品を作られるときの「現在」とは何でしょうか? これはベンヤミンの言う、特異で緊迫感のある現在(Jetztzeit)のことではないでしょうか。森村さんが「本を読んで、その考えを誰かに説明しようとしたときに、言葉が出てこない、自分の言葉が育っていない経験」に直面されたこと、そしてそれを乗り越えて「自分の言葉で語るということが作品作りにつながる」ことを説明されました。これこそが、ベンヤミンの言う「自身の手で歴史を書いているその現在」ということではないかと思います。その歴史が正確で正しいかではなく、自分というものが巻き込まれた理解です。それにより過去の救済がなされるわけです。
つまり、この過去の救済には、芸術家の「わたし」が緊迫した形で関わっています。森村さんは「『わたし』を問うことと、歴史を問うことが裏腹になっていて、それがスリリングだ」と話されました。この「わたし」については、また別のブログを書きたいと思います。
そして美はいつも「まがいもの」としてのみ現われる。(p. 225)
ではなぜこの「美」は「まがいもの」なのでしょうか? 勝者の歴史において正しいとされてきたものを、ずらしていくならば、それは「まがいもの」になります。例えば、モナリザという正典があって、それに対してはモナリザになるというセルフポートレートはたしかに「まがいもの」になります。しかし、森村さんが自分のアートをまがいものだと言うのは、ポジティブな意味です。そのためには、この「まがいもの」という概念を捉え直さなければなりません。
つまりこういうことです。「まがいもの」というのは、既存の階層的な秩序を宙吊りにする「動き」そのものを意味していて、正典というのは「秩序」を意味しているのだろうと思います(同時にこのとき「まがいもの」という言葉の通常の意味を宙吊りにしています)。その秩序に対して、別の新しい秩序を提案するなら、それはまた正典になっていくものでしかありません。一方で、「美」は常に既存の秩序をゆさぶり、ずらし、あるいは茶化して骨抜きにしていくような「動き」であって、別の「秩序」の表現ではないのだろうと思います。だから「いつも」「のみ」という言葉が挿入されているのでしょう。動きでしかない限りにおいて、これは常に「まがいもの」にしかならないし、だからこそ価値があるということです。シラーが人間はただ美と遊んでいればいいと言ったのは、素材や形式からの自由という状態だけではなく、自由になる「動き」のことを意味していたのではないでしょうか。
そこでアートシンキングです。アートシンキングはビジネス側のロジックですが、アートを利用して、あるいはアートを参考にしてビジネスするということでは失敗します。アートシンキングは、ビジネスをアート〈として〉しなければならないのです。そうすると、ビジネスにおいてこの「美」を実践しなければなりません。デザインセミナー「アートシンキング」は、これをやろうという実験なのです。
森村泰昌氏対談に関するブログ:
- 「美」とは
- アートにおける「わたし」
- 美の政治と批判
- 見ること、見られること、見つめること
デザインイノベーションコンソーシアム
デザインセミナー Series Ⅵ 「アートシンキング」~文化を創造するためのアートの思考と実践~2020.11.20
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http://designinnovation.jp/program/designseminars/ds06.html