デザインセミナー「アートシンキング」における美術家の森村泰昌さんとの対談シリーズ第3弾です。「美」における批判および政治性について議論しました。これは批判とは何か、政治とは何かについての示唆があります。
芸術はおおむね社会批判ですが、わかりやすい直接的な批判をする場合があります。例えば、人々に問題の解決を促すものや誰かを告発するものです。私はこのような政治的な批判をアートとすることについては違和感を感じていますが、森村さんも同様の感覚を持たれているように思いました。
これはソーシャリー・エンゲージド・アート(SEA)に関連しているかもしれません。SEAとは、社会に介入して、社会を変容していくような芸術的形式です。作者性やエステティックを排除するのか、それを保持するのかに関する論争があります。SEAが社会を変容させることを徹底するなら、アートとして自律した領域を持つことは拒否されなければなりません。つまり社会を変革すると言いながら、それとは切り離された金持ちの集まるギャラリーで展示するというのは自己矛盾です。エステティックというエリート的に見える概念は、ここでは批判の対象となります。一方で、もしSEAが作者というものを捨て、芸術のエステティックを拒否するなら、これは社会運動と何が異なるのかわからなくなります。芸術である必要はないとも言えます。
SEAは、このどちらともつかない居心地の悪い場所を占めているのですが、見方によっては、それ自体がエステティック(美学=感性論)を保持していると言えます。エステティックとは、既存の秩序を宙吊りにする感性的な再定義のことですので、エステティックを否定すること自体が、既存のエステティックに依拠してきた芸術という秩序を宙吊りにする、新しいエステティックであるというわけです。つまり、エステティックを排除する行為自体が、その行為をエステティックにするという、パフォーマティブな批判です。
しかしこのようなパフォーマティブな批判以上の批判をしなければなりません。まず二種類の批判を峻別する必要があります。ひとつには、社会の問題の解決を促すあるいは告発するという批判をするために、芸術を実践するというものです。単純化を恐れずに言うと、これは実践をする前から答えがわかっているような批判です。もうひとつは、社会の問題があるとして、その前提条件を炙り出すような批判です。この批判は芸術の実践を通して、問題の前提条件を炙り出すので、やる前には結果がわかりません。森村さんは後者の批判を実践されています。対談の中で、森村さんはこのように話されました。
表現の実践の中でふっと思うことなんですね。お金の流れを変えていくことが[出発点の]大きなテーマでもなく、実践の中で自分の中で矛盾が出てくる。これを矛盾である状態のまま、ほっておいたらひび割れが起こるけど、このひび割れをいかに美しく見せることができるか、それはふっと思いつく。
まず、社会で排除されている人々(例えば労働者、女性、性的マイノリティ、移民)を解放するために、たとえばお金の流れを変えていこうということを出発点として、それを実践していく芸術ではないということです。むしろ、芸術の実践をしていく中で、矛盾を感じ取り、その矛盾に向き合うという芸術です。社会には様々な矛盾がありますが、それを告発するだけではないということです。このような批判は、自身を特権的な場所に置いて、社会の外から悪者を批判するという構図になっています。つまり、エリート主義的なのです。そうではなく、実践の中で感じる矛盾をつぶさに観察し、考察するということです。
この矛盾により社会にひび割れが起こるわけですが、このひび割れを塞いでしまうということでもありません。それでは問題を解決ずみとして避けることにつながります。むしろ、批判は常に緊張感を生み出し続けないといけないのです。ここで、ひび割れを美しく見せるということの意味を正確に理解しなければなりません。ここでの「美」は、すでに議論したように、美しい見た目のことではなく、既存の階層的な秩序を宙吊りにすることそのものを指している概念です。つまり、ひび割れを「美しく見せる」ということは、ひび割れをずらして、新しい感性的な可能性を示すということです。つまりこれまで見ることのできなかったもの、感じることのできなかったもの、語ることのできなかったものを、見て、感じて、語ることができるようにするということです。
これが、ジャック・ランシエールのいう芸術のエステティック(美学=感性論)の体制ではないかと思います。つまり、二種類のうちの後者の批判というものは、森村さんの言う「美」であり、エステティックそのものなのです。つまり、「美」そのものが政治なのであって、政治を「美」にするということはむしろ二次的な動きです。『美術の解剖学講義』の中で、森村さんが次のように書かれています。
美がイデオロギーか? これは簡単な二者択一問題ではありません。マリリン・モンローの金髪をノーマ・ジーンの栗色の髪の毛に戻すこと(イデオロギーを選択すること)と、マリリン・モンローの金髪を東洋人の男性の黒い髪の毛にかぶせること(美を選択すること)とは、おなじひとつの未来にいたるふたつのルートではないのか。... 美とイデオロギーは愛し合わなくてはならないのだと、私は思います。(p. 242)
ノーマ・ジーンというのは、マリリン・モンローの本名で、社会がマリリン・モンローを神格化することで抹殺してきた存在のことです。金髪のマリリン・モンローは作り上げられたもので、栗色の髪を持つノーマ・ジーンは抹殺されたものです。ここでのイデオロギーとは、まさにノーマ・ジーンを救済する政治のことです。政治(イデオロギー)は美にとってオプションなのではなく、まさに美そのものなのです。美とイデオロギーが愛し合わなければならないのは、両者の間に距離がないということです。
そしてこの批判は、森村さん自身が自分をそこに写し込む形で表現されるものであり、自分事です。つまり、このノーマ・ジーンの解放は事前に計画されたものではなく、実際に自分がマリリン・モンローになるという芸術実践を通して初めて構想されるものなのです。事前にわかっているような批判ではなく、自分を写し込むことで炙り出されていくような批判なのですが、この批判の方が力強いのではないでしょうか。社会における悪者を告発するような社会の外からの批判と、社会において見て感じ語れないものを炙り出す自分事の批判の対比です。環境問題、搾取、差別などの問題が重要ではないということではありません。むしろこれらの問題が重要であるからこそ、安易に社会の外からエリート的な批判をするのではなく、その前提条件を炙り出すような批判が求められているということです。社会の外からの批判というのは、罪悪感を強要するだけで、解決にはならないのです。
現在はポスト批判の時代です。批判をすること自体が批判されます(野党など)。やる前からわかっている批判を聞かされることは耐えられない経験です。このポスト批判の状況では、批判をすることをあきらめるようなむなしさを表現するような批判か、批判する距離を削除し批判することを批判するような批判しかないように見えます。しかし批判が不可能となっている前提条件を炙り出し、批判することの居心地の悪い緊張感を保持するような批判が可能ではないかということです。それが「美」と愛し合う批判です。
これはまさしく学問がしなければならない批判なのです。マルクスの実践した内在的批判、つまり外から資本家を悪者を告発するのではなく、まずはその批判対象の前提を受け入れた上で、その内部の矛盾を炙り出すような批判のようなものです。この批判はとても労力がかかります。やる前にはわからないからです。自らを不確実性にさらして問題の中に飛び込み、それによって初めて明らかになっていく問題を分析するのです。
アートシンキングも、以上のような批判を実践しなければなりません。単純に社会を肯定して利益を生み出すというのでは、アートシンキングを掲げる意味がありません。アートシンキングは、社会批判である必要があります。そして、この批判はとってつけたようなものではなく、美と結びついており、つまりアート実践そのものでなければなりません。
森村泰昌氏対談に関するブログ:
- 「美」とは
- アートにおける「わたし」
- 美の政治と批判
- 見ること、見られること、見つめること
デザインイノベーションコンソーシアム
デザインセミナー Series Ⅵ 「アートシンキング」~文化を創造するためのアートの思考と実践~2020.11.20
(金)~12.18(金)
http://designinnovation.jp/program/designseminars/ds06.html