Destructured
Yutaka Yamauchi

見ること、見られること、見つめること

デザインセミナー「アートシンキング」での森村泰昌さんとの対談のふりかえり4本目です。本来は1ヶ月以上前に出しておかなければならないところですが、どうしても自分の考えがまとまりませんでした。セミナーは終ってしまいました。森村さんは、私のサービスの闘争が、見る・見られるという関係の相克としてのまなざししか考慮しておらず、「見つめる」という優しいまなざしの可能性はないのかと問いました。森村さんによると、この「見つめる」はバードウォッチングのように純粋なまなざし、あるいは恋人同士の充溢したまなざしのようなものだと示唆しています。その場ではどう答えていいのかわかりませんでしたし、今でも整理がついていません。全く自信はないのですが、何か書いてみたいと思います。

順を追って見ていきたいと思います。アートにおいても見ることが重要になります。森村さんが『美術の解剖学講義』で、次のように説明しています。

絵画とは、見ることと見られることの分業のシステム(法則)であり、また見るものによって見られるものが所有されるためのツール(道具)である。(p. 189)



画家は対象を見る、対象は見られるという関係にあります。そして、この見るという行為がとても暴力的であるというようにも示唆されています。

キャンバスに向かって画家は対象物(静物や風景やモデル)を一生懸命見ます。そして油絵として定着させて持ち帰り、自分の手中に入れる、つまり所有する。(p. 190)



つまり画家が見ることによって、対象を所有してしまう暴力です。このことはわかりにくいかもしれません。これは視線ということの持つ魔力のようなものを示唆しています。なぜかというと、視線を向ける人は主体として力を得るのですが、視線を向けられる人は客体としてモノにされてしまうからです。サルトルが説明したのですが、我々が鍵穴から部屋の中を覗いているとき、覗いている人は見られていないという安心感があり、主体として確固とした存在を得ることができます。しかしそのとき廊下の先から足音が聞こえたとすると、その瞬間に覗き見をしている自分が誰かに見られたことで、一気に自分の世界が崩壊するわけです。自分が今度は客体にされてしまいます。この自分の世界が崩壊する様が羞恥となります。この主体が客体化されるときの相克が、緊張感ある闘争となります。

たとえば、アパレル店で店員が客を見る行為を分析しているのですが、店員は客を見ないように見ます。なぜなら見るということによって、客がプレッシャーを感じ、自由に買い物ができなくなるからです。一方で、見て欲しいという側面もあります。必要なときに店員にすぐに来て欲しいのです。だから、店員は客の横3メートルぐらいのところに立ち、つまり客の周辺視野に入り、服を畳みながら、つまり忙しいふりをしながら、見ていないふりをしながら客を見るのです。店員が客の体を見るのは、客自身が鏡の前でポーズを取り、自分の体を見たときだけです。高級店では、店員は他に何もせずじっと客を見つめます。これはかなりプレッシャーを与えることになりますが、この緊張感はひとつの快感でもありますし、そういうプレッシャーの中で優雅にふるまえるという貴族的価値があるわけです。

しかしながら、この見ることと見られることの差異があいまいになりつつあります。そしてセルフポートレートこそが、この差異をあいまいにするのです。つまり、見られているモデルが、実は見ている画家であるということです。

「見るもの」と「見られるもの」との分業が建前にすぎないということが発覚してしまった今はもう混戦状態で、これまで「見られる側」だったものが巻き返して「見る側」にまわったり、これがまた逆転したりと堂々巡りになっていきそうです。(p. 203-204)



ここで森村さんが議論するのが、17世紀のスペインの画家ベラスケスの『ラス・メニーナス』です(パブリックドメインだったので画像を貼り付けました)。フーコーの有名な解釈を見てみましょう。画家ベラスケス自身が絵を描いている姿が描かれています。絵の中のベラスケスはモデルを見て描いています。中心のマルガリータ王女もモデルを見つめています。そしてこのモデルは部屋の奥の鏡に反射していることからわかるように、王女の両親である国王夫妻です。中心にいる国王夫妻は、全員の視線を支配しているという意味で、超越的な位置にあります。しかし国王は描かれておらず、絵の外にいるので、不在です。

Las_Meninas,_by_Diego_Velázquez,_from_Prado_in_Google_Earth

一方で、これ自体はひとつの絵画になっていて、その中心は王女となります。つまり2枚の絵があるということです。これが視線を攪乱します。国王の視線はこの絵(王女)を描いている画家の視線でもありますし、その絵を見ている鑑賞者の視線でもあります。同時に、この国王、画家、鑑賞者は、絵の中の画家によって見られ描かれる位置にあります。見ている人が見られるわけです。鑑賞者は自分が絵の外から見ているつもりが、いつの間にか見られて描かれていることを体験します。

そして、絵の外、つまり不在であるとは言え、画家は絵の中の画家として、国王夫妻は遠くの暗い部分に誰も注目しない鏡への映り込みとして、そして鑑賞者は遠くのドアの外にいる無名の人(画家の親戚ニエト)として写し込まれています。このように表象の中にあいまいに取り込まれている不在の中心が、表象を閉じられたものとして支えるというわけです。物事の世界と言語の世界が入り乱れたルネサンス期に比べると、この古典主義時代(バロック)には、2枚の絵が入れ子になるように表象自体が攪乱されますが、裏返すと表象がそれ自体で充足し浮遊することができるということです。『ラス・メニーナス』はこれを極限まで推し進めているわけです。

このように表象が攪乱されると、見ていると思ったら見られてしまい、まなざしが対象を所有することができなくなります。そして、この所有のないまなざしを「見つめる」という表現で捉えることができないかというわけです。

「見る」と「見られる」の他になにもないのか。私は「見つめる」という第三の視線があるのでは、と思いつきました。…「見つめる」が「見る-見られる」の関係と違うのは、所有の意識を放棄している点です。(p. 204)



私は「見る」ことから所有あるいは疎外の緊張感を排除することはできないと思います。排除すると、見ている主体が世界の外に出て超越的な特権を得ることになります。しかし、実際にはこのような特権的な位置はありえません。親が小さな子供を見つめるようなときには、この特権があると思いますが、同時に子供は愛につつまれつつ、絶対的な「法」をつきつけられる緊張感があります。一方で、恋人が互いを見つめるような、我を忘れるようなまなざしというのもあります。恋人同士のまなざしは、ある種の空想の中で欲望に包まれていますが、ここに独特の緊張感があります。どういうことでしょうか?

この空想の中に感じられる緊張感は、鑑賞者が絵を見るときに、絵に見られているという感覚を持つことに関わると思います。この絵に見られる「まなざし」とはどのようなものでしょうか? メルロ=ポンティからラカンにつながる説明が役に立つかもしれません(しかし以下はラカンのラス・メニーナス解釈には忠実ではなく、あくまで私の考えです)。ひとつの絵が鑑賞者を魅了するのは、鑑賞者の欲望が絵の中に考慮されている限りにおいて、鑑賞者が絵に見られ取り込まれるからです。安心して眺めることができなくなります。このまなざしは、絵の中のベラスケスの「眼」に見られるという意味ではありません。主体としての見ること(look)ではなく、客体(対象a)としての「まなざし(gaze)」です。対象といっても、絵の中では何かのモノではなく、ひとつのシミのようなものでありながら、我々の欲望を生み出す対象です。例えば、ベラスケスが描いているキャンバスの裏側、その絵は我々から見えないのですが、だからこそひとつの「まなざし」と言えるかもしれません。鏡でほのめかされているわりには縮尺が変で、キャンバスも国王夫妻の肖像画にしては大きすぎることが謎をもたらし、この見えない絵に過剰な意味を与えます。

そしてこの見えない絵の中の絵が、人々を悩まし魅了してきました。森村さんは『ラス・メニーナス』も作品にしています。森村さんは、絵の中で描かれているキャンバスが肖像画にしては大きすぎることから、実はこの絵の中の絵は、この絵『ラス・メニーナス』自体ではないかと考えます。つまり、国王夫妻はいないのではないか(この点はラカンの解釈と重なります)、むしろそこには大きな鏡があり、ベラスケスは鏡に写った王女や自分を描いているのではないかということです。つまり、ベラスケスは左利きということです。画家は王女を描こうとしたのですが、画家を見てポーズを取っている王女ではなく、至高の国王であり愛する両親を見ている王女を描こうと考えたのでしょう。しかしそれは不可能です。鏡を使うなら国王はいなくなりますし、国王がいれば画家は見れないわけです。全員が見ている大きな鏡(窓と言うべきかもしれません)は不可能性なのですが、だからこそこの絵の「まなざし」となるのではないでしょうか。

森村さんはこのまなざしを正面から取り上げて、実際にセルフポートレート写真として実現してしまうことによって、視線をさらに攪乱していくのです。ちなみに、この不在の「まなざし」は、政治に関わります。なぜなら、空想により社会の不可能性を隠すこともできますが、同時に際立たせることも可能だからです(
Todd McGowanの講義を参照)。人々に社会の不可能性を向き合うことを可能にし、解放する可能性を秘めています。この水準での社会批判は、やはりアートにしかできないことのように思います。

恋人同士の見つめあいにも、「まなざし」としての対象があると思います。お互いを視線で満たしているという空想がありますが、その空想を支える不在の「まなざし」は、関係の不可能性を示しています。恋人同士の充溢した「見つめあい」は、それが不可能であるからこそ、空想を形成し、それを欲望することを可能にするのではないでしょうか。恋人が見つめあうところのデータを取って分析したいものですが(それは不可能でしょうか)、相当の緊張感はあるはずです。これは相克の緊張感ではなく、もっと深いところでの不在の緊張感を指しており、これこそが「見つめる」ということの意味ではないかと妄想したのでした。

そうすると、サービスにおいて本当の価値を作り出すには、この不在の「まなざし」を構成しなければなりません。森村さんはそれに気づかせてくれました。そもそもあらゆるデザインにおいて、人々を魅了するものを目指すなら、この「まなざし」を作り上げなければなりません。そのとき、デザインされたものは、人々を「見つめる」でしょう。デザイン思考に限らずデザインの方法論では、この「まなざし」を生み出すことはできませんし、それを目指してもいません。もちろん、優れたデザイナーは直感的にそれをやっていて、ヒットする商品にはそういう「まなざし」があるのだろうと思いますが、誰も説明しません。そこでアートシンキングが呼び出される必然性があるわけです。アートに触れると教養が高まるとか、創造力が刺激されるとか、対話が可能になるというような話しではありません。

では、このような「見つめる」デザインをどのように生み出すことができるのか? すでに文化のデザインの議論は、(今思えば)この方向で考えてきたように思いますが、よくわかりません。これこそが、今後研究していかなければならないテーマです。森村さんの仕事を深く知り、また直接お話しすることで、アートのことだけではなく自分の仕事のことがわかったと同時に、目の前に取り組むべき大きな山が見えてきました。その山の大きさを前に逃げ出したくなりそうになりますが、少なくとも登る方向は見えてきたと思います。そこまで導いていただいた森村さんには感謝です。



森村泰昌氏対談に関するブログ:
  1. 「美」とは
  2. アートにおける「わたし」
  3. 美の政治と批判
  4. 見ること、見られること、見つめること

デザインイノベーションコンソーシアム
デザインセミナー Series Ⅵ 「アートシンキング」
~文化を創造するためのアートの思考と実践~
2020.11.20(金)~12.18(金)
http://designinnovation.jp/program/designseminars/ds06.html