Destructured
Yutaka Yamauchi

主体の何が問題か

自分の研究では主体概念や人間中心主義を批判したりするのですが、最近きちんと説明しなければ通じないことが多かったので、あらためて書いておきます。組織文化論のレジュメとして...

主体を批判するというとき、よく勘違いされるのは、人間という存在を否定しているわけでも、人の意図的あるいは戦略的な行為を否定しているわけでもありません。むしろ人の行為を積極的に説明するために、まず議論する必要があるのです。まず「主体」というのが特殊な概念だということを説明する必要があります。主体概念は近代という時代に特有の考え方で、それ以前にはあまりピンと来ないもので、近代から距離を取った我々の時代においても前提とできないものです。

説明としてわかりやすいと思うのは、ハイデガーによるニーチェの批判にあるようないきさつです。まず、近代という時代が、ニーチェの言う神は死んだ(我々が神を殺した)ということから始まるとすると、そこで単に宗教が意味を持たなくなったということではなく、我々が何か現実を越えた超越的な原理を否定しなければいけなくなったということです(この世界には意味がないというニヒリズムという根深い問題が生じます)。もちろん人間が近代化してハッピーになったということはありません。超越的な原理を信じることができなくなったため、我々は自分たちの確実性をどう確保するのかが問題になったのです。そこで、人々は個人の内面に向います。自分の内面こそが唯一の確実性となるのです(デカルト)。ニーチェは力への意志という標語で、ニヒリズムを意志の力で肯定していくことを主張するとき、やはり個人の内面に向うのです(もちろんそんな単純ではないです)。

このように、確実性を求めるときに依拠するのが、主体という概念なのです。ハイデガーによると、subiectumというラテン語は「前に横たわる基体」であったのですが、それが主体(Subjekt)になっていくのです。言い換えれば、主体とは、超越的な中心として我々に確実性をもたらすものとして作り上げられた概念なのです。

そして主体が内面に閉じられていき、客体を切り離し主体が客体を表象します。この主体による表象が、客体としての物事を確実で固定的なものとして捉えることにつながります。そしてこの固定化したことで、確実となった客体を自分の周りに配置することで、安心するというわけです。近代特有の、人間が自然を支配するというような形で自然を受動的で固定的なものと捉えることに関連します。主体が内面に閉じると、客体と切り離され、チャールズ・テイラーのいう距離を取った理性として、パズルを解くように世界をあやつるようになります。自然を道具として捉える、道具的理性ということになるわけです。

もちろん道具的理性で全てを語るということには無理があり、近代は同時にロマン主義を生み出します。そこでは、芸術、自然、感情、伝統などが重視されます。芸術がそれまで模倣としてのミメーシスであったのが、それ以降は個人の内なる自然の力によって独創的な表現を作り出すということになりますが、このような「天才」概念は近代特有なのです。ちなみに、経営学のイノベーションの理論は多くはこの天才としての主体概念にかなり囚われています。天才の崇拝(cult)はこれまで十分に批判されてきましたが、やはり主体概念の解体に基づかなければなりません。

だから、単に人間という概念や、人の意図を否定しているわけではなく、自分の不安の裏返しとして超越的中心を作り上げたということを批判しているのです。ちなみに人の意図的な行為や創造的な行為を否定する必要がないというのは、すでにそのような意図や創造性は個人の内面ではなく、多くの異種混淆の多様体にあると考えるということです。言表行為の主体など存在しないというのは、すでにその言葉は自分のものではないということです。その限りで、人の創造的な行為を積極的に記述することができます。つまり外に立って世界を置き換えるような創造性ではなく、既存の秩序に囚われながら内部からマイナーな亀裂を入れるような創造性です。

多くの理論は、主体という概念を掲げているわけではありませんし、上記のようないきさつを都度たどっているわけではありませんが、この超越的中心を忍び込ませています。例えば、私がよく仕事をするセンスメイキング(sensemaking)という領域では、最終的には何らかの秩序をもたらすということに指向した理論が作り上げられ、人間がナラティブを通してその秩序をもたらすとされます。しかし世界は我々の手中にあるわけではなく、基本的にはオープンなもので、ある人間が作り上げる秩序に閉じられることはありません(Holt & Cornelissen, 2014)。センスメイキング理論は人間が距離を取って世界を「解釈」するのではなく、意味を作ることで世界を「作り上げる (enact)」することを主張するもので、主体概念を批判するために考えられたものですが、主体概念が密輸されてしまっているのです。

最近モノ自体を流動的で力強いものと捉えようとか、モノに行為主体性を認めようというようなアクターネットワーク理論、アセンブラージュ理論、ポスト人間主義などの議論は、全てこの主体概念の批判です。経営学の最先端はこういう議論ですので、上記のような背景を考えないと仕事ができないのです。

以上は私の勝手な考えにすぎませんし、同時に私の言葉でもありません。