トランスローカル
18 Jun, 2019 filed in:
Culture | Designシンク・アンド・ドゥタンクRe:publicからMOMENTという雑誌の創刊号が届いた。最初話しを聞いたとき、なぜ今雑誌を出すのか、そのことの意味がわからなかった。雑誌という媒体はもはや意味のない古臭いものではないか。
この雑誌は「トランスローカル」という概念でまとめられている。そして、創刊号の特集はエイブルシティ。バルセロナ、阿蘇、アムステルダム、奈良などの取り組みが取り上げられている。それぞれの事例はとてもカッコいい。ハッキングなんとか、スーパーなんとか、ファブなんとか、オープンなんとかなど、古臭い町で地味にやっている人間からするときらびやかな言葉が並べられて圧倒される。テクノロジー、3Dプリンタ、デザインなどの時代の先端を行くカンジがカッコいい。
一方で、町のごちゃごちゃした多様性、昔からの農業、自然、林業、市民、路上生活者など、時代の先端からもっとも距離のある言葉がつながる。そしてそれらがカッコいいものと組み合せられる。単にカッコだけつけているヤツらをダサいとでも言うように、本当のカッコよさを見せつける。
そして、この雑誌に一貫して感じられるのは、遊び(play)である。この組み合せを、あたかも軽く、自分を強く主張することなく、批判でもなく、差異化=卓越化でもなく、軽くやってしまう。これだけの取り組みをするには相当の努力と覚悟が必要であるにも関わらず、それを軽々とやってみせる。もはや思いつめた思い雰囲気はない。肯定的な笑い。上記二重のカッコよさをさらに超越する、三重のカッコよさがある。
トランスローカルとは、このカッコよさの名称ではないか。テクノロジー、ローカル、そして遊びが三重に編み込まれている。冒頭に白井さんが書いている。
自分の欲しい情報・サービスがいつでもどこでも提供される便利さと引き換えに、私たちが暮らすことになったのは、同じ意見をもつ人ばかりが集まるムラだった。... このムラにかつてのあり方を取り戻そうとすることにも、ムラを捨て去って新しいコミューンをつくりだすことにも、もはや希望を抱けそうにない。必要なのはいまここにある技術や資源、文化を新たな見方で読み解き直すことで、このムラ=ローカルを越えたどこかに別のあり方を想像し具現化することだ。MOMENTではこの実践をTrans Local (トランスローカル)と名づけたい。
このムラの以前のよき社会を取り戻すということが欺瞞であることはすでに暴かれた。自然、自給自足、伝統などの持つ真正性は、現代の人々が自らの欲望を写し込んだものであり、とても我々の社会を動かす力にはなれない。ムラを去って全く何もないところから新しいつながりを作ることは、社会の外から社会を変革するという近代の傲慢である。もはや地面から離れ、自分の中に閉じこもり抽象化していくことで、逆にとてつもない重みを持つようになった近代に戻ることはできない。まさにアーティストからアルチザンへ。
我々に残されているのは、むしろローカルに囚われる中で、そこから逃走しつつ武器を取ること、そしてローカル自体を逃走させること。ローカルの中からテクノロジーを用いて、読み解き直していくこと。ここにこそ創造的な行為が生まれるのではないか。これが、この創刊号を流れる暗黙の視座であり、その創造性ではないだろうか。
ローカルに戻るという意味ではない。すでに我々の社会ではあらゆるものが、その本性に固定化されず流動する。我々の世界を統一する中心は存在しない。すべての具体的なものがフラットにつなげられる。ローカル自体に真正性があるのではなく、ローカルに結びつける動きに真正性が生まれる。
一方、テクノロジーだけではもはや陳腐であることを免れない。ローカルを読み替えていくことで、テクノロジーも読み替えられる。テクノロジーの方がローカルを求めている。デザインも今やデザインだけでは力がない。デザインは必死に自身をデザインし直そうとしている。
さて、なぜ雑誌なのか? 雑誌というローカルなメディアに結びつける、むしろカッコいい身ぶり、つまり四重のカッコよさを遂行している。重みのある書籍ではなく、閉じられることのない雑誌には、軽さ、遊びがある。そしてその名前がMOMENTという。軽い瞬間でありながら、力強いモメンタムになるということだろうか。
MOMENTが目指すのは、トランスローカルの実践者たちのための小さな支持体になることだ。世界各地に点在する実践者とともに、次のモメンタムを生み出すことを願って。
確実に歴史を捉え、考え抜き、うまく表現し、圧倒的な力を見せつける。さすがRe:public。
...何となく刺激されてそういう雰囲気で感想を書いてみました...