パクる、引用する
03 Sep, 2015 filed in:
Designデザインで他のデザインを「パクる」というようなことが議論されているが、これは私の周りでは「引用」の問題として最近よく聞かれる。まず、著作権の問題は当然ながらクリアしなければならない。今回はそれが問題となっている部分があるが、それは問題のごく一部でしかない。問題は著作権法に従って引用したとして、それでも引用に対して誤解があるということである。
テクスト自体が創造性の成果物であり、それ自体に価値があり、それを使用するためには、クレジットという形でリターンを与えるということは、多少の誤解を含んでいる。我々が引用するとき、テクストを「文章」として引用しているのではない(ちなみにテクストは文字だけではなく、あらゆる記号を含む)。我々が例えばニーチェを引用するとき、ニーチェその人を引用している。つまり、その人の考えたこと、生きたこと、その理論の全体を引用している。
そして、ニーチェその人をその時点でそのテクストでもって引用するとき、我々はニーチェだけを引用しているのではない。そこでなぜ他の人を引用しなかったのか、なぜニーチェでなければならないのか、これが問題となる。さらには、ニーチェ自体も他の人を引用しているのであり、その全体が問題となる。さらには、ニーチェがその後の研究者によって議論されており、そのテクストも非明示的に引用されることになる。その意味において、明示的には引用されてはいないが、他のものも引用されているのである。
我々が引用するとき、引用されたものはそのままの形でコピーされるのではない。まず、引用されたものは、肯定されるだけではなく、必ず否定される契機を含んでいる。パロディはその一つの典型だろう。一つのテクストをその場所から引きはがし、別のテクストの中に入れるだけでも、そのテクストを変容させることになる。実際に文章の場合はそのままコピーすることもあれば、カタチを変えて暗黙の形で引用されることもある。また、引用するということは、引用している人のパフォーマンスでもあり、その時点でそれを引用するという特定の自分、自分の理論を表現している。つまり、引用されたテクストには新しい意味が与えられて、利用される。ちなみに、そのテクストを読むという行為も同じように、テクストを利用し、否定し、テクストを作り出す行為である。
つまり、我々がテクストを引用するとき、歴史を引用している。自分が歴史を特定の形で切り出し、歴史を構成した上で、自らのテクストをその歴史の中に特定の形で位置付ける。引用するということは、自らがそこで歴史を作るということである。そこで学問がまずあって引用とはクレジットを明確にするというだけの問題ではなく、引用自体が学問そのものであると考えなければならない。デザインも同じである。歴史から離れた作品というのがあるだろうか。学問にしてもデザインにしても、この場のこの歴史を捉えなければならない。ただ面白いとか、単にキレイというものではないだろう。
新しい創造的な仕事をするというとき、必ず既存のテクストのネットワークに組込まれ、それを革新する。このことはただ既存のアイデアを利用しているだけとして、学問やデザインの創造性を貶めることではない。むしろ、学問やデザインの対象が、単に作り出されたモノを越え出て、歴史に及ぶという意味において、もっと大きな創造性を示唆している。つまり、学者もデザイナーも歴史を作っているのであって、文字や記号を作っているのではない。創造性とは面白いことを考えることではない。
つまり、問題はデザイナーが何かを引用なり参照したとして、そこでどういう歴史を作っているのかということである。Brilloの箱を引用するというシンプルなデザインが、一つの歴史であるということもありうる。ただアイデアを借用しただけなのか、あるいはそのアイデアを乗り越えることができたのか、それによってどれだけ歴史を捉え、新しい歴史を作り出したのか、これが問題である。パクるということは問題外だが、全く引用なくゼロから「創造的に」作り上げたものは面白くないだろう。
(という上記の文章もかなりの引用を含んでいる。詳細は拙書に…)