Destructured
Yutaka Yamauchi

ジェンダーのパフォーマティヴィティ

学部ゼミでJudith Butlerのジェンダートラブルを読みました。自分が読んで感動したもの、そして自分の研究で常に依拠するものの面白さを伝えたかったのです。「スゴいやろ、感動した?」とうれしそうに聞くのですが、「シーン」と反応がありません…

パフォーマティヴィティ(行為遂行性)については、言語論的転回から経済学のパフォーマティヴィティまでを説明しますが、やはりジェンダーのパフォーマティヴィティが最も自分に強く響きます。パフォーマティヴィティとは、何か現実があって、それを説明するという関係性を逆転させることを言います。つまり、説明するという行為が、現実を構成すると捉えます。トイレットペーパーは品薄になるというデマ(説明)が発生しますが、みんながそれはデマだと必死で反論することで拡散してしまい、他の人がデマを信じて買い占めたら本当になくなってしまうから自分も買っておこうということで、実際に店頭からなくなってしまいます(もちろんそんなに単純ではありません)。つまり、最初のデマを流した人は正しかったわけです。

さて、ジェンダーのパフォーマティヴィティは、日々のジェンダー化された実践によって、ジェンダーが構築されてしまうことを指します。例えば、女の子にピンクの服を買い、女の子はこうあるべきだと話し方やふるまいを教えるなどなどによって、実際に女の子に仕立て上げられるということです。しかしジェンダーのパフォーマティヴィティの考え方は、このようなこととは関係がありません。

ジェンダーのパフォーマティヴィティとは、そもそも性別という概念自体が何か自然に、解剖学的に存在している本質かのように捉えることを否定します。つまり、ジェンダーとは不確かなものでしかなく、そんな本質などないということです。男と女という区別は、おそらく歴史上もっとも強固に信じられてきた区別のひとつではないかと思いますが、そんなに確かなものではないということなのです。XY染色体であっても女性の方はおられるし、XXで男性もおられるし、染色体が3つある人など、一定数の方が規範におさまらないということです。染色体で考えるなら、どうしても女性と男性の二元論で区別することは破綻してしまいます。

パフォーマティヴィティは、染色体が存在しないとか、染色体を任意に組替えることができると言っているのではありません。男女という二元論はひとつの言説ですが、その言説の前にピュアな自然が存在するということがありえないということです。上記のように「XYなのに男性ではない人がいる」と言っている以上、すでに男女の二元論を前提に議論してしまっています。前言説的な現実、始原的な現実というものは幻想にすぎないということです。

これがButlerが、社会的に構築される「ジェンダー」と解剖学的な「セックス」との区別を批判した理由です。つまり、これまで純粋な自然であると考えられてきたセックスも言説的に構築されたものであるということです。

しかしそうすると、これってジェンダーのことなので、自分はあまり興味ないですというような反応になります。学部生はジェンダーに興味がない人がほとんどで、興味がある人は意識が高くButlerに批判されるような人という構図なので、勝てない勝負だというわけです。しかし、このパフォーマティヴィティはジェンダーに限りません。基本的に何らかの社会批判をするときに、社会の外部に支点を置いて、誰かを「解放する」という政治に問題があるということなのです。もし誰かを解放することを目指すなら、それは言説に囚われていない本来の、つまり本質的な自己を取り戻すということです。しかし、Butlerにとっては前言説的な本来の現実は幻想でしかないのです。

つまり、あらゆる「解放」の政治が、実はそもそも自分が批判してきた「帝国主義的な戦略を配備する位置」を自らに与えていることになります。これは特に、誰か弱い人々を解放するという、とても「正しい」政治を批判することを意味します。このような批判は理不尽であり、逆に批判にさらされるでしょう。しかし、批判しなければならないことがあります。

それではもはや政治は不可能であるということなのでしょうか? そうではなく、社会の外に支点を持つのではなく、内部から攪乱する政治が可能なのではないかということです。つまり、「パロディ」です。女装するという行為は、女性というイメージを無批判に受け入れているとフェミニズムに批判されます。しかし、より派手に女装するというパロディは、むしろ規範の模倣であり、ジェンダーという規範がむしろ空虚なものであることを暴き、かつジェンダー自体が模倣にすぎないということを暴く高度な批判であるというわけです。

だから、Butlerは「反復」を強調するのです。日々の反復的な実践を強調するのは、ひとつには英雄的な批判的行為、つまり社会の外に支点を持つような批判をする「主体」を拒否するということです。このような主体は社会に対して超越的な位置を確保するので、帝国主義的だというわけです。同時に、この日々の反復にこそ、あるいはその反復の正しい実践であり、それは同時に反復の失敗でもありますが、ここにこそ本来の二元論を攪乱する政治性があるという非常にストイックな主張なのです。

なんとも憂鬱な話しに聞こえますが、私はこれを読んで感動して、興奮するわけです。学部生には、うれしそうに語っているアホみたいなおっさんにしか見えないかもしれませんが。

森喜朗氏の女性蔑視の発言がありました。我々はこれをありえないと思い、そういう日本を恥しいと感じます。あまりにアホらしい滑稽な行為なのですが、これはこの方ひとりの問題ではなく、自分がその一部である日本社会の縮図のようなものを垣間見るわけです。自分に関わることなのです。菅首相は毅然として森氏の責任を問えば、一気に挽回できた素晴しいチャンスを与えていただいたのに、当然のようにそれができませんでした(もし首相が野党の追求に答えてそうすれば、野党は勝つのではなく負けるでしょう)。やはり政治家はみんな同じようなもの、さらにはどんな組織もみんな同じようなものだという感覚があります。これを打ち破るには、批判すると同時に、我々ひとりひとりが自分たちの日々の行為の中で、常に政治を実行していかなければなりません。