Destructured
Yutaka Yamauchi

デザインの「まなざし」

先日、ブログで書いた「まなざし」のあるデザインについて、説明が混乱しほとんど理解されなかったようですので、もう一度トライしたいと思います。

私はサービスという価値共創において、客も提供者もその他の関係者も参加して一緒に価値を作り出す限りにおいて、それぞれの人の価値がサービスの価値と切り離せなくなり、それぞれの人がどういう人かが問題になるということを指摘してきました。これがサービスが闘争になる理由です。つまり、自分の価値を示し合い、自分を証明するという弁証法的闘争の過程があるということです。

しかし、そうすると、他者の視線がないときには闘争にならないのか、という質問をよく聞かれます。例えば、店員と目を合わせることがないようなコンビニ、アマゾンでポチるときなどです。さらには、自動販売機で購入するときはどうか。理論的には、これらが価値共創でないなら、つまり客も参加して価値を一緒に作り出しているのでないなら、弁証法的な闘争は生じないことになります。

しかし、いつもここで本当にそうかという思いがあります。人が見ている見てないということを条件としてしまうと、見ていない瞬間についてどう考えればいいのかという問題が残ります。ひとつの戦略は、サルトルやフーコーのように、実際には誰かが見ている必要はない、いつも見られる可能性があるという状態が問題であると説明することです。見られることのない場面というのはほとんどないので、それはそれで正しいように思います。現代社会においてトイレという場所は、唯一ひとりになれる場所として特権的なのです。

しかしそれでも人の視線を前提としています。自分の直感としては、その場に他者の視線がなくても、自分の価値を呈示し、証明していくという弁証法的な過程はあると思います。わかりやすい例では、家で独りでウイスキーを飲んでいるとき、そのウイスキーは作り手が飲み手の受容について様々なことを考え抜いてブレンドしている限りにおいて、飲み手を考慮しています。それを飲むときには、その作り手に見られている、試されているように感じます。作り手は今までの常識を切り崩しますので、我々をゆさぶることになります。

これは何を言っているかというと、デザインされたものには、実際に「眼」はなくても、「まなざし」があるということです。「眼」で見ること(look)は見る主体(subject)に所属しますが、「まなざし (gaze)」は客体(object)にあります。ユーザーはデザインされたものを見ると同時に、見られるのです。この「まなざし」は、人々の欲望に結び付き、価値の源泉となります。これがラカンの言う、対象aというオブジェクトです。デザインされたものは、人々の欲望が考慮されている限りにおいて、まなざし=対象aを持っています。

この対象aは実際にある明確なモノではなく、シミのようなものであったり、取るに足りないものであったりしますが、欲望の原因となっています。スティーブ・ジョブズが見えないところの配線や商品を包んでいる箱の美しさにこだわったのは、このまなざしの重要性を知っていたからです。iPhoneが壊れて買い替えても、その箱を捨てるのは難しいのです。先日書いたのは、ベラスケスの『ラス・メニーナス』は、描かれたキャンバスが、特にその裏面が対象aと言えるのではないかということです。欲望の対象は別にあり(例えば王女)、それを獲得しても欲望は満たされないのです。

何が言いたかったのかというと、デザインするということは、人々が見て気持ちのよい体験をするものを作るというのではなく、このように人々をまなざすものを作るということです。ですので、デザインはユーザーの潜在ニーズを満たすというようなものではないのです。むしろ、人々を悩まし、試し、ゆさぶり、挑戦するものなのです。人々が欲望するデザインには、トラウマがあります。

このトラウマとは、端的には社会の不可能性です。どうしても辻褄が合わない社会の亀裂です。このトラウマが、社会の中に対象としての「まなざし」を与えることになります。そうだとすると、デザインのまなざしは、人々に社会の不可能性を感じ取り、社会を批判的に捉える可能性を与えることにならないでしょうか(尊敬するTodd McGowanの講義を参照)。つまり、デザインとは人々を解放する政治に関わるのです(もちろん解放が導く先の社会の外部は存在しませんが)。批判は、誰かを告発するような単純なものではなく、このように現実をつきつけるものなのではないでしょうか。

先日の森村泰昌氏との対談によって、このようなことを考えるに至りました。これだけではわけわからないかもしれませんが、今後の研究によって徐々にでもうまく解き明かしていきたいと思います。