不便益との違い
14 Jul, 2020 filed in:
Service | Design学部の授業などで、「闘争としてのサービス」と「不便益」との違いについて、何度か質問を受けました。不便益は学生にかなり浸透しているようです! 不便益というのは、京都大学の川上浩司先生らが提案されているデザインの考え方です。川上先生とはデザインスクールを一緒にやってきました。不便益とは、便利にするといろいろ弊害もあるということです。例えば、バリアフリーでは、人々は気をつけることをしなくなり、また体を動かす量が減るために、余計に注意力や体力が落ちてしまうというような弊害です。逆にバリアを増やしてバリアアリーにすることで健康を維持しようという、不便から生じる利益を提案するものです。川上先生の講演を2回聞かせていただいた範囲での理解ですので、間違いがあるかもしれません。
闘争としてのサービスも、サービスが客を否定するような難しい言葉を使ったり、わかりにくくしたり、客にプレッシャーをかけるという側面を説明しています。不便にしていると言い換えることもできます。それで客がよりよい体験をするという利益があるのであれば、たしかに不便益の枠組みで説明できる部分があります。
しかしながら、なぜ客を否定するのかという理由が重要です。価値共創を基本とするサービスにおいては、客がサービスを享受して、その価値を判断するという主客分離の前提が成立しません。客自身がサービスに絡み取られているという相互主観性の水準で捉えなければなりません。もし客がサービスから分離できないなら、サービスの価値には、その客の価値、つまりその客がどういう人かということが関係しているということです。つまり、客は自分がどういう人かを呈示し、証明しなければならないという、承認をめぐる弁証法的闘争が生じるわけです。もしその闘争が生じないなら、そもそも価値共創ではない、つまり厳密にはサービスではないと言える可能性があります(意図的にそういうデザインをする場合もあります)。
ですので、バリアフリーではなくバリアアリーにして自分で注意する能力や体力が維持されるとしても、その人がどういう人かが問題とならなければ、闘争としてのサービスとは主旨が異なります。不便益の議論は、おおむね主客分離の前提で説明できるので、闘争としてのサービスとは理論的には全く違うことを扱っていると結論づけることができます。同じことは、Don Normanが人間中心設計を否定したことについても言えます。つまり、主客分離の前提に留まっているので、この否定の理由を説明できないのです。人間中心設計を否定しても、結局のところ闘争としてのサービスとは異なる議論をしているのです。
不便益は便利にするというのデザインの弊害を示しているとても重要な批判だと思います。一方で、これはデザインのスコープの問題とも言えます。例えば、バリアフリーからバリアアリーへの転換は、入居者の短期的な怪我の回避から長期的な健康の問題だと捉え直せば、その長期的視点でのシステムにおいて最適で便利なデザインを実現できます(バリアアリーとして)。同じことは、トヨタが自動化せずに自働化するのも、同じように現場の学習を促し、長期的に品質を高めるためです。つまり、不便益はこれまで長期的でより広い視点で利用者のことを考えてこなかったことに対する批判であって、短絡的な便利さを批判しているわけです。あくまでシステムの最適解を導いていることには変わりません。不便益のメリットは便利であることを一度疑ってみるというヒューリスティクスにあります。
同じことは、闘争としてのサービスにも言えるように見えるかもしれません。つまり、客を否定することが客にとっての最終的な満足になるということを理解すれば、最終的に客が広い意味で満足するという問題として捉えることができ、その範囲で最適解(満足化)を導けばよいというように見えます(つまり本当の意味では闘争をしているのではない)。しかしそうではありません。弁証法の矛盾を持ち出していることの意味が重要です。つまり、客は最終的に(広い意味でも)満足することができない、つまり満足したときには、その満足には意味がなくなっているという弁証法です。サービスには〈他者性〉が内包されているので、たとえ広い視野で問題を設定したとしても最適解を導く方法論では限界があるのです。工学的な問題を設定するという行為自体が、問題の設定を失敗に導くという弁証法でもあります。
そこで、闘争としてのサービスの視座から不便益を批判することがあるとすると、それはバリアフリーで体力を落とす高齢者の方や遠足のおやつを300円の制約の中で悩む子供を、デザインするシステムの中のひとつのコマとして扱っている、そして閉じられたシステムの中に押し込めているということです。つまり〈他者性〉を飼いならしている可能性があるということです。工学的にはこんな批判に興味がないと思いますが、そういう批判をするのは、それを乗り越えることでよりよい理論になることを期待しているのです。
少しだけ説明しましょう。不便益のポイントは、不便にすることで、何か追加的に新しい活動を強いるということです。バリアアリーにするから、注意をして時間をかけてバリアを越えるという追加的な活動をします。遠足のおやつを300円に制限することで不便にして、こどもが長時間悩んでおやつを選ぶという追加的な活動をしています。この活動の効果として、そのおやつに思い入れができるという利益が生じるわけです。しかし、何か新しい活動をすれば、(しなかったときに比べて)当然ながら利益もありますし、不利益もありますし、何もないこともあります。バリアで本当に怪我をして寝たきりになるかもしれません。長時間悩んであきらめたお菓子を友達が持ってきているのを見て一生後悔するかもしれません。この負の側面を捉えれば、「不便不益」ということになるでしょうか。そうすると、不便益というのは、結果論として利益になる部分だけを選んでいると言えます。そして、それを選んでいるのは研究者ですので、その根拠が問われます。
しかしここで、利益になるかあるいは不利益になるかについてオープンである姿勢を貫くと、不便益はもっと面白い理論になるだろうと思います。バリアアリーにすると高齢者の健康を維持するという説明では、本当に現場でバリアを作り出している人、そしてそれに直面する高齢者が抱える現実のリスクを、取るに足りないものとして無力化してしまう危険があります。現場では、実際にどうなるかわからない中でリスクを取って、不便を導入しているはずです。怪我をすれば責任問題になります。バリアフリーにしないと困る人もいます。だから、利用者を自分の考えるシステムに閉じ込めるのではなく、利用者が取るリスクに向き合うことで、より魅力のある理論になるのではないかと期待しているのです。
ちなみに、私が人間中心設計を批判し、人間〈脱〉中心設計を提案しているのも同じことです。人間主義が常に上から目線で人間をモノとして扱うことの批判であり、そうではなく〈他者性〉に向き合いデザインをオープンなものとして捉える必要があるということです。逆に闘争と言うと人間を重視していないように聞こえますが、他者性に直面する緊張感を取り出したかったのです。この緊張感を消し去るような人間主義は欺瞞です。
説明しなくてもわかると思っていたので、あえて明示的に説明してきませんでしたが、なぜか最近同じことを続けて質問されることがありましたので、まとめておきました。これでもって授業をすっきりと締め括りたいと思います。