難波鉦 つづき
16 Aug, 2015 filed in:
Service先日横山俊夫先生からご恵贈いただきました『難波鉦』(なにわどら)の抜粋を紹介しました。同じく「松之部」の「高橋」からの抜粋です。客としてのサービスの極意のようなものです。
太夫「… どなたさまも、この廓へ初めていらっしゃるお客様は、女郎にもてあそばれまい、ふられまい、手管をさせまい、などと言って、敵の中へ入るようにお思いになるそうです。それで大方は最初から悪戯を言い、女郎を困らせよう、酒を飲ませて酔わせようなどと、無理に粋ぶることをなさいます。つまらない事でございます。… しかし、粋と無粋、あほと賢い、田舎衆と京都衆、侍と商人のそれぞれの区別はあることで、これは何とも口では言えない、錬磨のたまものでございます。」
太夫「諸事同じことでございますけれど、野暮のくせに粋ぶること、アホのくせに賢ぶることは、いやらしいものでございます。とにかくなじんでのちは何事も心苦しくありませんが、最初から相手を困らせるようなことを言うのはいや。ただ最初からありのあまにして、いつとなく、真実も、悪口も言うのは、うれしくもあり、心憎くもあり、なぐさみにも、張り合いにもなりますけれども、すべて傾城はうそをついてだますものだとお思いになるために、相手を困らせる悪ふざけもすべてあることでございます。それなら廓へいらっしゃらないのがようございます。」
太夫「とにかく粋ぶることもせず、横柄にすることもなく、相手を困らせる悪ふざけも言わず、勘ぐりもせず、しゃんと筋の通ったお客様には、わたくしでも本当に、どうにもならないほどに、本心から惚れ込まないものでもございません。」
拙書にも書いたようなブルデューの議論に重なります… つまり、力を見せようとすると力をみくびられ、力に執着しないことが力を見せるためには必須である。ところで、先日書いた「たかま」とこの「高橋」は矛盾しています。ひとつは駆け引きであり、もう一つは筋を通すということです。しかし私はこの矛盾は二者択一ではないと思います。つまり、実践の水準では、この両方のロジックが並存しているはずです。このように矛盾を内包していることがサービスの面白さであり、難しさだと思います。
[注]
この難波鉦研究の背景をお伝えしておいた方がいいかと思います。横山先生のチームは「文明と言語」の研究をされました。横山先生の言葉を引用します: この研究の「ねらいは、人間社会が無限拡大の夢を捨て、抑制安定へと余儀なく赴きはじめたものの、それが暗い萎縮にいたるか、明るいあやを織りなすかの岐路にさしかかるたびに、方向を見失わない感覚を研ぎ澄ましつづけたいという一点にあった。… 安定社会にあっては、ひと、もの、こと、を仲立ちする様々な媒介が幅をきかすこと、そして世の明暗は、「主体」と呼ばれがちな個々の資質よりも、それらを組みあわせる媒介の質に大きく左右されるということであった」ということです。そこで17世紀後半の安定社会に入りつつあった社会において、これらの書物が遊廓という閉鎖的安定社会の発展維持に貢献したということです。