俗物
22 Jun, 2020 filed in:
Culture学部ゼミでP. ブルデューに関連する文献を読んでいたのですが、学生がスノッブ(snob)を「俗物」と訳したのがとても興味深かったです。スノッブという片仮名もあまり馴染みがないようです。
スノッブは、60年代以前はやはりブルジョワでありエリートを表現するものであったので(本人たちは使わない言葉ではあるとしても)、むしろ俗物(我々に馴染みがあるのはphilistines)とは逆のものだったと思います。今では、スノッブは世俗的な名声に囚われている俗物という風になりますが、これこそ従来のブルジョワが毛嫌いしたものです。
もちろん、スノッブは70年代以降批判の対象となり、今のエリートはスノッブと呼ばれることを極端に嫌うのですが、それでも少し上の世代の方にとってはスノッブというのは、若干の憧れの存在でもあったと思います。嫌いだけど、憧れるというようなものです。しかし、今の20歳ぐらいの学生にとっては、そのような感覚はなく、スノッブというと俗物となるようです。
ゼミでは、ブルデューからオムニボア(omnivore=雑食)への流れを議論し、現在のエリートの逆説的な美学にまで到達しました。今の文化的エリートは、ゴージャスなものを陳腐であると馬鹿にし、高級車ではなく自転車を好み、小さな家に住み、レストランに行かずに自分でエキゾチックな料理をするというイメージですが、これは以前にブルジョワジーが馬鹿にしたものに限りなく近づいています。この逆転をやってのけるのが差異化=卓越化の真髄というわけです。
同時にオムニボアが現在も有効な概念なのかという点に関連して、最近の消費者の美学が「おたく」などが体現するユニボア(univore=単食)に価値を置いていることを議論しました。つまり、ひとつのことにのめりこみ、多くの時間とお金を費すものです。ここには、趣味を社会的な位置に還元する言説自体の「俗物」への批判があり、その言説をものともせず打ち砕くおたくに神秘的な力を感じるわけです。最近の趣味(goût=taste)研究において、愛好家(amateur)に注目が集まっているのはそういう理由だと思います(A. Hennion)。
学部2回生、3回生が2ヶ月で随分成長したと思います。例年は対面でやっているので学生の顔色を見て興味を探りながらするので、議論が発散してうまくできなかったのですが、今年は全てzoomになったので、学生の顔色を気にせず、かなり集中し構造化して進めることができています。