Destructured
Yutaka Yamauchi

イデオロギーのデザイン

最近イデオロギーについて話すことが多くなってきました。古い政治的なイデオロギーというよりも、我々の社会にあふれる様々なアイデアについてです。例えば、「ワイン」という飲み物は特定の主体を前提にしています。つまり、スノッブなエリートです。ビオのような新しいスタイルは、従来のスノッブなものを毛嫌いする新しいエリート像に重なるところがあります。「ウイスキー」は、自律して揺ぎのない大人という幻想でしょうか。「クラフトビール」はオタク的な自然体のこだわりを持ち、「メスカル」は気取らないフーディー的な新しいエリート像に重なります。

イデオロギーは、個人の主体化に関わります。アルチュセール風に言えば、主体が社会的な関係の中で、自身をどのように位置付け、関係していくのかを想像するための表象ということでしょうか。個人は様々な形で、イデオロギーに呼びかけられ、応答することで自身を特定の主体として再認していきます。ワインに呼びかけられて振り向くということは、ワインが写し込む主体に同一化するということです。つまり、スノッブなエリートに同一化するということです。もちろん実質的な中身、つまり味わいというものを無視するということではなく、味わいが重要だからこそ、それに収まらない過剰が重要となります。

なぜこのような表象が必要なのでしょうか? ジジェク的な説明でいうと、人は自分を単に内面からだけでは表現できず、何らかの象徴的なネットワークに写し込んで初めて、自分を表現できるからです。主体という概念自体が、ひとつの支配的な象徴(シニフィアン)によって縫い上げられたときに、遡及的に作り上げられるのです。アイデンティティというのは個人の内面から沸き立つようなものと考えられることが多いかもしれませんが、そんなに単純なことであればアイデンティティがそれほど問題になることはないでしょう。そうではなく、主体は常に他者の象徴によって規定される疎外に基づいているのです。

さて、呼びかけに振り向くという同一化がポイントとなります。というのは、人々が同一化するようなイデオロギーを作り上げることができると、人々を魅了する価値を作り上げることができるからです。素直に言うとヒット商品が生まれるからです。ヒット商品は人々のニーズを満たしても生まれません。むしろニーズを満たしてはいけないのです。デザインに求められているのは、このイデオロギーを正確に理解する歴史感覚であり、新しいイデオロギーを生み出す矛盾した実践です。イデオロギーが矛盾するのは、この同一化というのが厄介だからです。まず人々は内容が自己にマッチするから同一化するというわけではありません。あなたはこれでしょと言われるとむしろムカっときます。あるいは、単に憧れのような存在を示せばよいというものではありません。人気があるものは好かれるだけではなく、嫌われる部分が多いです(人々のマクドナルドやスターバックスとの関係など)。カッコいいだろというようなCMがすでに機能しなくなって久しいわけです。

なぜなら、人は単に自分の理想に同一化するだけではなく、その同一化はあるまなざしのためになされ、そのまなざしとも同一化することが必要となるからです。このまなざしを向ける他者というのは、単に差をつけたい競争相手ではなく、自分が反撥しつつ、開始時点で依存してしまっている支配的な〈他者〉です。昔風に言えば、愛情の対象であるが殺したい対象でもある父親でしょうか。しかしながら、この〈他者〉は特定の「人」ではなく、私はそれを時代性(精神)のようなものと考えた方がいいと思います(そもそも父親とは前の世代の絶対性と反撥して新しい時代を生み出す力のようなものでしょう)。何らかの時代性という〈他者〉のまなざしに対して愛憎ある関係を持ち、同一化しようとするわけです。

そしてここでのポイントは、この同一化は常に失敗するということです。〈他者〉と同一化することはできず、常に同一化を裏切るような余剰(謎)があります。ワインは深すぎてよくわからないため、人々はのめり込んでいきますが、それがわかってしまったらがっかりするでしょう。わからない神秘性であり、わからない自分を欲望しているのであって、わかってしまってはいけないのです。我々の欲望は満たされないことを欲望しているのです。なぜなら、欲望の対象は実はワインではなく、複雑すぎてどこまでも奥行があるようなワインの絶対的な味わいに触れて、社会の絶対的な枠組によって特権を与えられ自分に確実性を持って優雅にふるまえる絶対的なブルジョワエリートの幻想に囚われているのであって、ワインを完全に知ってしまうということは自身の欲望を解体してしまうことを意味するからです。そしてこの欲望は、社会の枠組がすでに解体され、個人が自身に投げ返された時代性における不安に関連しているように思います。

このような矛盾した欲望を裏返すと、絶対的であった〈他者〉も実は何でもないのだということになります。つまりワインに神秘性などないということを知っていることが含意されています(もちろん知っていることを拒否しています)。そして、〈他者〉としての絶対的な時代性が実は解体され機能しなくなっていること、それが実は何ものでもないことを目の当たりにして不安に駆られますが、そこが自分を取り戻す起点でもあるのです。なぜなら、ここで絶対的な〈他者〉に依存して疎外されていた主体が、この〈他者〉から分離し距離を取ることができるようになるからです。そもそも欲望はここから生じるのですが、自分の不安を解消することはできず、空想を作り出して何かを欲望していると思い込むことになります。

デザインはこの空想を作り出し、新しい欲望を構成することを目指すわけです(ここで欲望は何か汚ないよくないものというニュアンスはありません)。だから、デザインは時代の精神、つまり社会の変化を捉え、新しい時代を形にするという意味で、歴史的である必要があるわけです。ニーズを満たすとか、カッコいいものを作るということではありません。そして、デザインは必然的にこれに失敗します。この失敗が主体化を可能にしていくわけです。

... こんなことを書いていると、何かツライことがあったのですかと聞かれているような気がしますが、昨年は本当に大変でした。新しい年を迎えることができてよかったです。