Destructured
Yutaka Yamauchi

デザインについて: エステティック

最近デザインおよびデザイン思考についてどう考えるのかと聞かれることが続いたので、あらためて書いておきたいと思います。デザイン思考は重要な成果を生み出しました。しかしながら、デザイン思考の限界を見極め、乗り越えていかなければなりません。すべての考え方には必ず問題があり、それらを批判し乗り越えるということは、そもそもデザイン思考がやろうとしてできなかったことを押し進めるためのものですので、必要な批判的作業なのです。京大のデザインスクールで深めてきた議論をご紹介したいと思います。

デザイン思考には、少なくとも3つの問題があります。

  • エステティックを排除したこと
  • 歴史がないこと
  • 主客を分離していること

今回は、最初のエステティック(美学=感性論)を取り上げたいと思います。デザイン思考はエステティックを排除しました。デザインが美大を卒業したエリートのデザイナーだけのものではなく、誰でも実践できるという民主的な思想を含んでいます。これはデザインの力を解放する美しいストーリーではありますが、一方でデザイナーがデザインするだけでは限界に直面したということの裏返しでもあります。IDEOがデザイン思考を言い始めたとき、伝統的な美大出身のデザイナーではなく、MBAなどの他の専門家がどんどん入ってきていました。なぜなら、デザイナーが企業から依頼を受けてプロダクトやグラフィックをデザインするだけではビジネスが成立しなくなっていたからです。より包括的に組織、ビジネス、コンセプトなどのデザインが求められていたということです。そこでデザイン思考を掲げて、伝統的なデザイナーの専門性を越えて、自らの存在意義を示す必要があったわけです。

そして、誰でもデザイナーであるというためには、もはやデザイナーの芸術的スキルに基づくと考えられるエステティックに依拠できなくなりました。特権的なデザイナーだけが生み出せると考えられているエステティックは、エリート主義でもあります。デザインを民主化するとき、そのようなエリート主義的な概念を維持しにくいというわけです。これはソーシャリーエンゲージドアート(SEA)がエステティックを否定するときの動きにも似ています。SEAは芸術家の特権的立場を否定し、コミュニティに入り人々と一緒に活動するわけなので、エステティックを重視すると芸術家が作ったものを押し付けることになってしまうからです。エステティックの代わりに、デザイン思考はクリエイティビティを据えることになります。

そもそもデザインになぜエステティックが必要なのでしょうか? 資本主義により社会が美学化(aestheticize)されてきたと考えられますが、社会のあらゆるものが感性的な価値に訴えかけるようになったということです。資本主義は基本的に効率を重視する道具的合理性を原理とするので、それに馴染まない感性的な価値を芸術の領域に押し込めエステティックを排除してきましたが、同時に「商品」という形でエステティック(のようなもの)を取り込んできたのです。これは商品やサービスをカッコよく、美しくデザインするということです。

この社会の美学化が行き詰まってきました。従来、資本主義はエステティックを芸術など自分が締め出してきた領域から借りてくることで、商品にエステティックを付与していました。しかし、借り続けることで、芸術の領域も独自のスタイルが枯渇していきました。60年代に芸術がモダニズムを抜け出すころから、もはや独自のスタイルを生み出すという(従来の)エステティックにも限界が来ていました。しかしながら、もっと重要なのは、消費者がただカッコよく美しく作られて宣伝される商品に懐疑的になってきたということです。米国での50年代後半から60年代のDDBの自虐的な広告に始まり、特に80年代以降消費者が同一化するべきイメージを一方的に与えるのではなく、より皮肉を交えた距離を取るようになってきたのは、消費者による懐疑が高まったからです。今では広告してしまうと広告にならないというわけです。

つまり、市場で流通すると価値を失うようなサイクルに入ってしまいました。そのため、資本主義の外の領域から借りるだけではなく、資本主義を批判するもの、資本の原理を裏切るものに価値が生まれるようになってきました。つまり、エステティックというわけです。

エステティックが外部性であるというのはどういうことでしょうか。エステティックは従来は美しいものを意味していました。しかしながら、エステティックの意味はもう少し広いのです。エステティックの概念は18世紀終りに生まれました。つまり、資本主義が発展していく近代の開始時点であり、芸術も近代化したロマン主義とほぼ同時期に議論されたということです。エステティックは、端的には自分自身を目的とする(auto-dynamic)ということです。資本主義が発展しつつあった同時期に、エステティックは特定の目的に奉仕しない、つまり資本には与しないという概念として生まれたわけです。美的な判断には「関心」が入らないとカントが言うのは、何かの目的に資するからではなく、それ自体で判断しなければならないということです。そしてシラーにより、それが遊戯衝動として、素材からも理念からも自由な独自の空間として定式化されました。つまり、必ずしも美しいということを含意していないのです。これを踏まえて、ランシエールは、エステティックは既存の社会秩序の「中断」を意味すると言います。

エステティック概念は、人々を一気に宙吊りされた空間に飛ばすような、我を忘れるような中断の衝撃があるということですが、同時に社会の既存秩序を宙吊りにするような批判でもあります。だからこそ、資本主義とは相性が悪いのです。しかし上記のように、このように既存の秩序を宙吊りにするエステティックこそが、今の資本主義において価値となっています。しかしながら、デザイン思考はエステティックを排除してしまったわけです。デザイン思考がエステティックを排除しなければならなかったのは、エステティック概念を見誤ったからです。このデザイン思考の成果を踏まえて、ようやくエステティックに取り組む用意ができたとも言えます。

このようなエステティックを生み出すということの意味を正確に理解する必要があります。デザイン思考やその他のデザイン方法論が、問題解決を謳うことがありますが、問題解決はエステティックとは相容れません。あるいは、利用者の潜在ニーズを満たすということとも相容れません。問題を解決する、あるいは潜在ニーズを満してしまうと、新しい秩序に落ち着くことになり、そこでストーリーが完結してしまうことを意味します。エステティックはまさに宙吊りをする動きそのものですので、それ自体には破壊的な緊張感を含んでいます。何か望ましい状態に落ち着いてしまっては、エステティックではないのです。落ち着こうとすることを攪乱するものなのです。ここまで来ると「闘争」としてのサービスとの深い関係がご理解いただけるかもしれません。

最近アート思考が求められる理由は、デザイン思考がエステティックを排除してしまったからではないか思います。しかし、アート思考は、アートを神秘化し、イノベーションのためにその神秘性にすがろうという動きであるなら、アーティストの実践とも、エステティックとも関係がありません。アート思考が議論され始めたことで、エステティックを議論する雰囲気が生まれましたが、ここでエステティックを排除したのでは、アート思考はそれほど長く続かないでしょう。