Destructured
Yutaka Yamauchi
アートは役に立たないから役に立つ 02 Nov, 2020 filed in:
Culture | Design | Art | Academia アートシンキングがビジネスにおいて注目を集めていて、我々も アートシンキングのセミナー を実施します。しかしアートとビジネスの関係がわかりにくいとフィードバックを受けたので、説明したいと思います。 アーティストは「アートは役に立たない」と言うでしょう。しかしながら、アートと社会、あるいはアートと資本主義は無関係ということではなく、複雑に絡んでいます。結論から言うと「アートは役に立たないからこそ役に立つ」ということです。 アートシンキングと言うと、アートというイノーベーティブな実践を参考にして、ビジネスでイノベーションを起こそうというようなことですが、アートをビジネスのために飼い慣らそうとしているとも批判されます。重要なことは、アートがビジネスと結びつく理由があるとすると、ビジネスを批判するからだということです。アーティスト・イン・レジデンスやアーティスト・プレースメント・グループのようにアーティストを企業の中に送り込む活動は、アーティストが企業に従属して貢献するのではなく、企業自身ができないような批判的作業ができるから成立しているのです。 19世紀半ばの芸術のための芸術(l’art pour l’art)に始まり、アートは資本主義社会や支配的権力から自律してきたのであり、アートは基本的に資本主義批判なのです。ブルデューは、アートの世界で成功するためには、ビジネスで失敗しないといけないという反転の関係を説明しました。金儲けをするアーティストというのは居心地が悪いのです。しかし、そのような関係は現在はさらに複雑になっています。というのは、他の領域からの純化を目指したモダニズムが力を失って以降、アートとビジネスの境界ははっきりしないからです。現在は、アーティストが資本主義を批判すればするほど、作品の価値が高まり、資本主義で成功します(たとえば、オークションで落札された瞬間に作品を破壊することで、その作品の価値がさらに高まる)。 今の資本主義経済においては、自身を批判する外部性が不可欠なのです。価値を批判する視座が、価値の源泉になっているという皮肉です。市場に流通した瞬間に価値がなくなるというサイクルになってしまったため、市場の内部に価値を見つけることができず、資本主義を批判する外部性が価値となります。最近アートがビジネスにおいて注目される理由はここにあります。もちろん、資本主義にもはや外部はなく、もうこの道しかないので、アートも微妙な関係の中で資本主義を切り崩していく必要がありますし、それにより資本主義に回収されつつ、外部性としての距離を保たなければなりません。だからこそ、アートは単に経営者の「教養」として意味があるのではなく、ビジネスに直接役に立つのです(役に立たないという形で)。 このことは、アート的な資本主義批判が、ビジネスにおいても重要になってきていることからもわかります。 以前も書きましたが 、米国のアウトドアグッズ店のREIが最大のセール日であるブラックフライデーに全米の店を閉めて、ショッピングなんかせずにアウトドアしようと呼びかけました。REIはビジネスを批判したのですが、同時にそのブランドの価値をいっそう高めました。特に、大きな売上を失うという自己破壊をしたことが、ブランドの神秘性を高めるわけです。学部ゼミで議論していて、元博報堂の弦間一雄先生(セミナーの講師のひとり)に広告の説明をしていただいたのですが、広告だというように見せると陳腐になり意味がないのですが、広告ではない作り方をすることで広告になるという現実があります。広告しないことで、広告することができるようになります。 ここで、アートが実践する「批判」の意味を考える必要があります。特定の他者を告発するというような単純な批判は、逆に批判の対象となります。同様に、最近は批判してばかりいると批判されることが多いのですが、野党に限らず学問もその問題に陥ることがあります。なぜかというと、そのような批判が上から目線だということです。現在の社会では、批判されることも批判することも同じ種類の見世物(スペクタクル)に過ぎず、その間の差異は程度の問題でしかありません。そうである以上、社会の外にある特権的な立場からの批判というのは滑稽でしかないのです。そのような批判は、単に罪悪感をかきたてようとするだけで何の効果も狙っていないという欺瞞であり、同時に全てがスペクタクルであれば罪悪感を感じる必要がないにも関わらず罪悪感に頼っているという茶番なのです。 それでは、批判は不可能なのかというと、そうではありませんし、むしろ批判の価値が高まっているのです。アートに本質的な批判は、既存の感性的な秩序をゆさぶり、新しい感性の配分方法の可能性を示すことです(ランシエール)。感性的な秩序とは、我々が何も考えずに通り過ぎてしまっているときに、見えないもの、感じえないもの、言えないものがあるということです。アートはそれを見えるようにし、感じえるようにし、言えるようにするわけです。この感性的な水準で権力が機能しています(誰の権力というわけではなく)。単に他者を批判してしまうだけでは、この感性的な水準を余計見えなく、感じえなく、言えなくしてしまいます。同時にこの批判は特権的なものではなく、自らの世界を切り崩すので危険を内包しています。アートがこのような自己破壊を伴うので(アバンギャルドに限らずもっと微妙な実践として)、ビジネスがアートを飼い馴らすことはできませんし、アートシンキングは原理的に不可能だと言えます(だから価値があります)。 ところで、この批判は本来的に学問の批判と重なっています。学問も見えていないものを見えるようにする活動だからです。だから学問も社会に役に立たないからこそ役に立つはずですが、その実感はほとんどありません。というのは、学問の自由という言い方が、若干誤解を与えているように思います。学問には社会における何らかの特権的地位があるというように理解されるとしたら、それは嫌悪されるだけです。社会の何らかの領域が特権的な位置を占めることを可能にするような、大きな物語にはもはや信憑性がないのです(政治にも特権はなく、だからこそ批判を必死で排除しているのでしょう)。日本学術会議に関する学者の発言も、学問の自由を語り始めると逆効果のように見えるところもあります。 では自分がそのような批判ができているかというと、できているとは言えません。これを書くことで精一杯なのです。このアートシンキングのワークショップは、学問という領域で自分なりにその次の一歩を踏み出すための賭けでもあります。 デザインイノベーションコンソーシアム デザインセミナー Series Ⅵ 「アートシンキング」 ~文化を創造するためのアートの思考と実践~ 2020.11.20
(金)~12.18(金) http://designinnovation.jp/program/designseminars/ds06.html