Destructured
Yutaka Yamauchi

アジャンスマンについて

最後の授業でアジャンスマン(agencement)について議論したのですが、時間がなく中途半端に終って申し訳ありませんでした。アジャンスマンは、配置、作動配列、アレンジメントなどと訳されます。この概念と、装置、アセンブラージュとの差異を議論したいと思います。Michel Callonの論文に依拠します。

Callon, M. (2013). Qu’est-ce qu’un agencement marchand? In M. Callon, Sociologie des Agencements Marchands (pp. 325–479). Paris. (北川亘太・須田文明訳 関西大学『経済論集』第66巻第2号、第3号、第67巻第1号、第2号)
* 北川さん、ありがとうございました。

フーコーの装置(dispositif)、およびそれを踏まえて練り上げられたドゥルーズ&ガタリのアジャンスマン、そしてそれらに刺激を受けて構想されたアクターネットワークのネットワーク(réseau)概念全てに共通して前提となるのは、社会を構成する超越した歴史の原理や、世界を構成しているひとりの主体などいないという考え方です(欲望の「シニフィアン」はない、言表行為の「主体」はない)。個性のある神秘的な主体、主体が構成する同一性に基づく表象=再現前化を前提とする近代の考えに対する批判があります。そのため、独立した複数のものが、どれに還元されることなく関連しつつ、全体が何らかの方向づけをされているという状態を重視します。また人間主体を特権化しないために、固定的ではない動的な物質性が強調され、かつ行為主体性(エージェンシー)がこれらの様々なモノやひとに分散しているということになります。何か新しい社会や技術が出現するとして、その背景にはこれらの分散した多様体が構築されるという説明です。

まず装置ですが、言説、物質などのヘテロなもののネットワークであり、戦略的に構成され、知と権力が配分されます。その要点は、個人を主体化(=臣民化 subjectivation)するということです。つまり、人々を特定の方向に導くという戦略的なものです。この装置には、監獄や病院などの物質的な構成要素も含みます。この概念(およびそれに基づくアジャンスマンやネットワーク)のポイントは、何か特定の社会が現前するとして、その背景には特定の条件としての歴史的アプリオリがあるということだと思います。つまり、特定の社会は単に出現するのではなく、それが前提とする何らかの条件が構築される必要があるということです。そして、権力は具体的な争いの中でよりも、このアプリオリな水準で働くことを見極めることが重要です。もちろんこの戦略的な装置は、人々の戦略的意図によって構築されるのではなく、逆にそのような人々がそういう意図を持って行為できる主体の「位置」を構築するものです。

同時にCallonが言うように、制度や構造などの概念に比べて、装置概念は動的であるため、変化を説明しやすいということがあります。制度や構造などは行為に影響を与えることはわかりやすいのですが、それ自体の変化をうまく説明できません。特に、イノベーションを説明するには、制度や構造とは異なる場所に行為主体性(エージェンシー)を探す必要があります。それに比べて、装置概念自体が権力の介在によって構築されていくものであり、動的なものであると言えます。もちろん構造化理論など制度や構造などが行為に内在的であるとか、行為の結果として生じるというように説明されますが、その問題は実在やその階層性を説明できないというような批判ではなく、動きが行為にのみ切り詰められていること、そして概念上空間的な図式によって、構造や制度が動きの外に措定されているということになると思います。

さて、Callonが強調する装置とアジャンスマンの最初の違いは、装置が人間を仕立て上げるという主体化=臣民化、つまり人間を配置し方向づける(disposer)ものですが、一方アジャンスマンは人間と非人間を区別せずに接続することで、人間を中心に構成されたものではないということになります。ここで重要なのは、人間も非人間も動員されるということを認めるだけではなく(装置もそれをする)、それを認めるためにそもそも人間を特権化してしまっているという問題です。一方で、非人間を特権化することも同様に問題となります。Callonによると、アセンブラージュ(assemblage)というのは、アジャンスマンの英訳としてよく使われますが、この概念および装置の英訳であるapparatusやdeviceという概念は、機械的なニュアンスを含んでおり、レゴのブロックをくみあわせるようなイメージになっています。このように、人間的なものを機械概念によって説明するという意図は、人間と非人間の二元論を前提にしています(欲望機械という概念をあきらめアジャンスマンを利用する理由のひとつだと思います)。

その中でもアセンブラージュ概念は、構成要素の独立性とそれらの結びつきの偶然性を強調することで、かなり複雑なネットワークを想定することになります。しかしながら、もともと装置概念やアジャンスマン概念の背後にはドゥルーズも言うようにダイアグラム(つまり抽象機械)が作用しているのであって、ボトムアップに積み上げていったときの、結果として出現する総体を意味するわけではありません。むしろ多様で複雑な社会を、偶然ではなく一定の方向に配置していく戦略に力点があったと思います。この戦略としてのダイアグラムは前もって超越的に、あるいは上部構造に存在するものではなく、具体的な装置やアジャンスマンの中で再領土化されて現実化し、同時にそれらを脱領土化することになります(アジャンスマンという結果がダイアグラムという原因を現実化する)。かなり微妙な議論ですが。

Callonが言う装置とアジャンスマンのふたつめの違いは、アジャンスマンには行為を生み出すエージェンシーという意味が込められているということです(agencerという動詞が含意されている)。つまり、アジャンスマンが行為するということです。行為をフォーマット化し、特定の様式を与えます。そもそもドゥルーズにおいて、多様体としてのアジャンスマンは、空間的なつながりではなく、時間的な持続を元にしています。空間的なつながりは分割してもそのまま成立するのですが、時間としてのアジャンスマンは分割できないものです。ここにアジャンスマンの潜在性が強調される必然性があります。もし空間的なつながりであれば、そこには新しいものを生み出すエージェンシーを説明することが難しくなります。ネットワークを「安定化」するというアクターネットワーク理論の主題は、ずいぶん前から流動性を導入することで批判的に吟味されてきましたが、それでもやはり安定性やブラックボックスという空間的な枠組を前提とした上で流動性があるという議論展開になっているように思います(ラトゥール的にはネットワーク要素は外部から翻訳されなければ変化できないので)。

つまり、アジャンスマンには動きがあるということです。しかしながら、動きだけを強調し、固定的なものが存在しないというと、逆にもとの二元論に陥ってしまいます。そこで、アジャンスマンとして固定化していく(領土化されていく)動きは、同時にそれを流動化(脱領土化)する動きを常に伴うと捉えることになります(さらにこれは同時に再領土化される)。ヘテロなものがつながるときには、それぞれが脱領土化されなければならず、またつながり再領土化されます。この脱領土化はCallonが氾濫(overflow)と再フレーミング(reframing)という概念によって取り込んだものですが、framingに重点が置かれているため不十分だと思います。経済的取引を説明するために氾濫に対処しフレーミングがなされるという説明ではなく、むしろ経済的取引のためにはframingを解体する氾濫が必要だと説明しなければなりません(資本主義は調子が狂うという条件においてのみ、よく機能する)。

ちなみに、伝統的なアクターネットワーク理論にとっては現実の要素の配置しか認められないので潜在性(あるいは生成変化)は導入できません。特定の技術がネットワークに取り込まれるためには、うまく翻訳し他の要素と節合して安定化しなければならないという現実の配置の問題になりますが、ドゥルーズ&ガタリとしては、ダイアグラム(抽象機械)が特定の技術を「選択する」という説明になります。鐙は馬と騎士と接続するだけではなく、封建制という抽象機械がそれを選択することで成立する、「規律」というダイアグラムが監獄を特定の仕方で選択するということになります。このような説明よりもアクターネットワーク理論の説明の方がイマ風で扱いやすいという面はありますが、純粋に要素にとっての外部的な関係性だけでは説明がつかないことも多いです(例えば規律社会など)。

ちなみに脱領土化を説明する概念としてのアジャンスマンは、創造性を積極的に説明できます。もちろんこの創造性は、現在よく議論されているカッコいい陳腐な創造性ではなく、「反復」を意味しています。つまり、近代特有の天才という主体の内部から生じるひらめきが、世界の外に立って世界を置き換えていくような超越的な創造性ではなく、既存の流れを部分的に脱領土化し、部分的に新しい流れをつなげいていくことで、新しいものを出現させるというものです。むしろ、逃走するということ(それにより社会を逃走・破裂させること)が本当の意味で創造的だということです。そうするとアジャンスマンとは特定の配置ではなく、常に解体されながら新しいものを配置していく動きということになります。たとえ超越的な天才を否定したとしても、ヘテロなネットワークとしての個人がどこからかアイデアを持ってきて、さらにネットワークを充実させることでイノベーションを実現できたとすると、どうしてもそういうネットワーク構築者としての個人の天才を残さざるを得ません。

同時に、ドゥルーズ&ガタリは欲望をアジャンスマンとして説明するという側面を無視することはできません。欲望は特定の個人の内面性から生じるとか、その内面性が実は欠如であるということはよく議論されるのですが、アジャンスマン概念の要点は、欲望が外属的なアジャンスマンによって構成されると説かれることです。もちろん欲望を象徴的ネットワークという外在的なもので説明することもできますが、そういう(背後にある不在のファルスの周りをまわるような)所与の構造ではなく、むしろ様々な流れを脱領土化しながらつなぎ、再領土化していくことで、ひとつの配置を作り上げる動き(生産)が重要だろうと思います。しかしこの欲望のアジャンスマンは、上記の社会的なアジャンスマンとは別のものではなく、同じものです(社会的生産は欲望的生産は別のものではない)。そもそも閉じられた主体を想定しないため、欲望を皮膚の内部で、社会をその外部で構成するということ自体が意味がありません。内部も外部も区別なくつながっていくわけです。だからアジャンスマン自体が欲望を構築しつつ、欲望につらぬかれているということです。

さらに、ドゥルーズ&ガタリが、物理的な機械状アジャンスマン(内容)と言表行為の集団的アジャンスマン(表現)を区別している点についても重要だと思います。これらは絶対的な区別ではなく相対的なものにすぎないということ、そしてひとつの抽象機械に由来すると説明される一方で、これらが基本的には別の水準で機能した上で、絡み合っている(相互に前提する)ということが重要だと思います。逆に言うと、言表と物質的なモノを区別せずに扱っているのではなく、明確に切り分けているのです。言表とモノは何かひとつのものに還元できず、あくまで独立しているということです。Callonはこの点に目をつぶるかのように、さらりと通り過ぎます。重要なのは、言説とモノというヘテロなものが区別なく配置されるというとき、往々にしてモノを言説に還元してしまっている場合が多いということでしょう。特にモノを対象として扱うときには暗黙のうちにそうなってしまいます。

ラトゥールの関係主義にとっては、ネットワークの要素は関係によって規定され、それ自体に本質を持たないものですので、要素はブラックボックスとして一時的なものでしかありません。つまりブラックボックスは常に開くことができ、開くとヘテロなネットワークがあるというわけです。だから人間や非人間を区別することに意味がありません。人間だと思っている要素は、ブラックボックスを開くと非人間だと思われている要素を含むネットワークです。ここで、言説とモノとの間の相互前提的であるが非等質的な関係を考えるもの面白いのではないかと思います。また、我々が物自体に直接到達できるという主張を、素朴実在論を避けて経験的分析の中で示すことはかなり難しいのではないかと思いますが、むしろ言説とモノの緊張感のある関係を記述した方がいいように思います(当初、言説は監獄を拒否した)。

このような説明しかできないのですが、とりあえずこれで勝手に気持ちよく「
組織文化論」を締め括りたいと思います。この領域を専門とされている方から見ると間違えている部分も多いと思いますので、何でもいいのでご指摘くだされば幸いです。