Destructured
Yutaka Yamauchi

創造性とは

最近、創造性についての研究会に参加していて、最近はそればかり考えています。以下、A. Reckwitzなどに従って議論したいと思います。

創造性(creativity) = 新奇性(novelty) + エステティック(aesthetic)

ただ単に新しいだけでは創造的だとは言わず、そこに特定の人(アーティストのような存在)が感性・感覚的な驚き、感動、おそれなどを生み出すことが含まれています。つまり創造性とは、「エステティックな新しさ」と言うことから始めるのはどうでしょうか。なお、エステティックは、感性・感覚という意味であり、必ずしも美しさを意味しません。

新奇性の追求は、18世紀後半以降の伝統的社会からの断絶と同時期に、近代の発展に合わせて、次々と新しいものが生み出されていくという技術的進歩の原理を基礎としています。おおむね資本主義の原理と言ってもいいでしょう。エステティック概念も同じ18世紀後半に生まれ、天才的芸術家が生み出す感性的刺激を基礎としています。つまり、創造性とは、18世紀後半に始まる近代の基本的な原理であるということです。

しかしこの創造性の両輪は相矛盾します。そもそもエステティックとは、他の目的に奉仕するのではなく、自分自身を目的としています。そのため、エステティックな判断は、様々な関心や利害とは無関係になされる(Kant)、宙吊りされた一種の遊びであると捉えられます(Schiller)。つまり、エステティックとは、資本主義的な関心、目的、合理性を批判する概念なのです。だからアートは何らかの目的に役に立たないことに意味があるのです。

そのため資本主義において、エステティックは排除され、アートも社会の周辺的な領域に追いやられました。同時に、アートも自ら自律化し、資本主義のロジックを反転させて、閉じられた世界を構築してきました。ロジックの反転とは、資本主義市場で成功すると資本主義に降伏し大衆に迎合したとしてアートとしては失敗するということです。

しかしながら、資本主義は同時に、「商品」という形でアートを常に取り込んできました。商品を感性的に刺激的なものとすることで、価値を付与してきたわけです。これが社会の美学化(aestheticization)です。この美学化はアートを表面的に借り受けることを意味しましたが、その後資本主義とアートの関係がより複雑になっていきました。

現在、資本主義市場で流通した瞬間に陳腐に感じ、価値を失うサイクルに入ったことにより、価値は資本主義の外に求められるようになります。つまり、資本主義から締め出され、そして資本主義を批判してきたアートです。資本主義は自らを批判するものを価値の源泉として回収しようとしているのです。単に次々と新しい商品を生み出すというだけなら、創造性概念を持ち出す必然性がありませんし、以前は技術者、科学者、起業家が新奇性のモデルでした。そうではなく、創造性を持ち出すことによって、資本主義の道具的合理性を宙吊りにするようなものを求めているのです。

したがって、創造性とは、資本主義が利益を上げるという目的のために、飼いならすことのできるものではないし、飼いならしたならば本来の創造性を獲得できません。むしろ資本主義への批判こそが価値になります。社会批判としての創造性は、社会における違和感を感じ取り、既存の論理を宙吊りにし、新しい社会の可能性を提示するものです。単に新奇で有用なアイデアを思いつくことではありません。

そして、この議論をもう一歩最後まで押し進めなければなりません。創造性という概念は、近代が始まったときに生まれたものですが、現在この近代の考え方自体が危機にさらされていますので、創造性という概念自体も批判の対象となります。最も創造性が求められる現在において、創造性を解体することが同時に求められていると言うわけです。この矛盾を正確に理解しなければ、創造性の議論を見誤ることになります。この創造性の解体については、また別途書きたいと思います。