組織文化論を終えて
01 Feb, 2021 filed in:
Culture | Org Theory
大学院の科目
『組織文化論』が終わりました。今年度は履修生はひとりもおらず、履修していない学生さんと社会人の方々だけで最後までやりました(それでもやっていいのかどうかわかりませんが)。社会人の方々は、横浜、大阪などから参加されました。昨年度も、学部生や社会人の方が多かったのですが、オンラインになることで、より学外の方が参加しやすくなりました。
組織文化は80年代に一世を風靡したあと下火になりました。80年代には日本的なマネジメントを取り入れようということで文化が重視されたのだろうと思いますが、90年代以降はITやネットワークの発展によって技術的、効率的な言説が盛り返します。同時に、文化を専門とする研究者は、ポスト構造主義を取り入れ、より難解で秘儀的なものになっていくことで支持を失っていきました。しかしながら、文化の研究は途絶えたのではなく、センスメイキング、プラクティス、アイデンティティ、ディスコース、ナラティブ、マテリアリティ、サイトなどのコンセプトによって、より細分化され広がっていったというのが正確です。この授業ではそれらを追いかけます。ちなみに、これらの多様な議論を「文化」という古臭い言葉で縫い付けるのは、この文化という概念がすでに空虚だからです(あまり伝わらないようですが)。
これらの多様な議論は実は同じような議論を下敷にしていて、それらを踏まえると理解できるようになります。例えば、最近の組織論はマテリアリティ(物質性)に注目しています。これは人間中心の近代主義的な考え方を批判するものであり、人間がひとりで世界を作り上げるのではなく、非人間的な要素が重要だというアクターネットワーク理論に由来するものです。しかしこの考え方は、同時にその前の言語論的転回、構造主義、言説、テクスト概念などに依拠しているので、単にモノが大事だという話しではなく、モノを解体することを含んでいます。つまり、モノ自体には本質はなく、モノの意味は関係によって決定されるので、モノは関係性という空虚なものでしかないと捉えます。空虚でありながら、それを中心に据えるということは最初はなかなか理解できないかもしれません。今でも、アクターネットワーク理論を正確に捉えた議論が少ないのが実情です。
社会物質性(sociomateriality)やエージェンシャルリアリズムも同様です。物質性はモノの性質ではなく、実践(practice)の性質です。だから、社会物質性を議論するなら、実践が物質的なモノを「使う」という主張は間違いです(バウンダリーオブジェクトなど)。それでは静的で受動的な物質と、それを使う人間という二元論を強めるだけです。そうではなく、実践そのものが物質的であると捉えなければなりません。人がモノを使うというとき、すでに実践によって人とモノが切り分けられてしまっています。人は実践結果なので、人が何かをするのが実践ではありません。そして、この実践は言説=物質的(material-discursive)であると言い、物質的でありながら言説的であるというわかりにくいものです。言説を人間が生み出すものと捉えるのではなく、そもそも人間は実践の結果なのです。しかしながら、多くの社会物質性の研究が、実践が物質的なモノを使うという枠組みに戻ってしまっています。
何が言いたいかというと、これらの議論を正確に理解するには、直近の組織論の論文を読むだけでは不可能で、より大きな理論的文脈、たとえば60年代に始まる様々な考え方を理解することが重要です。そしてこれらの文脈を理解すると、多くの議論を簡単に整理できるようになります。この授業では、このような研究の流れをきちんとおさえていきます。自分自身は誰も教えてくれなかったので、わけわからない中で色々読んでなんとか理解していくという苦しみを経験しましたが、この授業では最初から説明することにしています。
このように、私の科目の中でも最も学術的な授業なのですが、なぜか正式にターゲットとしている大学院生ではなく、社会人の方々に興味を持っていただいています。学問が重視されない現在社会において、社会人の方々が学術的な議論に真剣に興味を持っていただいていることは救いです。