フィールドとは
28 Oct, 2016 filed in:
Cultureこの数日、お客様が多かったのでいい刺激になりまいた。一方でメールなど色々滞留してしまいました。早めに追いつけるようにがんばります。さて、先日Gideon Kunda
教授の講演に行ったのですが、感動しました。スライドなど一切使わず、1
時間以上途絶えることなく話し続けたのですが、素晴しい話しでした。テルアビブ大学はテルアビブの北の端、丘の上にあり、イスラエル市民であり特にヨーロッパ系の人々は丘の上の方に住み、一方丘の下の南テルアビブは不法な外国人などが生活するというように、二分化しているらしいです。Kunda
教授は数年前から一人で南テルアビブに行って、教育活動をされています。最初は呼ばれてイスラエルの歴史について講義をしたらしいですが、人々が学ぶことを求め、次にコンピュータのスキルを教える授業を娘さんと作られたそうです。30
人ほどの教室に400
名が並んだといいます(
無料ではありません)
。それからヘブライ語の授業、歴史の授業、法律の授業、子育ての授業、写真の授業などを開講していき、今では常駐スタッフもいる学校として確立したといいます。著名な研究者が一人で始めて、このように多くの人の生活にインパクトを与えておられるということ、素晴しいことだと思います。しかし感動したのはそれではありません。感動したのは彼がこれこそが学問だということです。彼の授業では学生が来ると、まずセメスターの間に南テルアビブに行って何かして来いと言うらしいです。そしてそれを振り返って、何を学んだのかを書かせます。理論はその後でいいということです。こういう過激な授業をされている方は多いと思います(
京大では杉万先生とか)
。私も最初にPARC
に到着したとき、Jack Whalen
から住所と時間の書かれたリストをわたされ、ここに行って調査をして来いと言われただけでした。本をじっくり読んでいるのではなく、フィールドに行けというわけです。私の研究は全てフィールドから始まります。
しかしフィールドと理論の二分法は危険です。なぜならこの二分法は常にフィールドに対する理論の上位を前提としているからです。そうではない場合にはフィールドに対して理論を対置しないのです。理論を作るための手段としてフィールドに行くとか、フィールドからヒントを得るとかいう言い方がなされるわけです。たしかにフィールドが理論に対して上位に置かれることもあります。お前はフィールドに行っていないじゃないか、というように言われます。しかしこの言説は、フィールドに対する理論の上位の裏返し(
反発)
という側面がなくはないと思います。自己が脅かされるとき、二分法に頼ってしまうのです。つまりKunda
教授のおっしゃるようなアクティビズムは尊敬すべき取り組みなのですが、フィールドを神聖化するのは問題を含んでいます。重要なのは、彼はその問題を間違いなく理解し、二分法をものともせず圧倒的なフィールドにおける研究の力を示しているということです。その上で彼は自分は単なるアクティビストではなく学者だと主張するわけです。かなり錯綜した議論ですが(
だからこそ)
、自分が行動することでそれをものともしない力があります。二分法を力で乗り越えるわけです。感動したのはこれのことだと思います。一方、私はこのように考えます。学問においてフィールドとは特定の場所ではありません。少なくとも大学という場所と対比されるような他者の場所ではありません。小難しい本を読んでいても、フィールドにいる必要があります。つまり本を距離を取って外から読むのではなく、自らをその中に置いていく必要があります。図書館に籠って過去の死刑の仕方を調べ上げるのも、フィールドにおける仕事です(Kunda自身が議論した例です)。そして実際に他国や南テルアビブのような他者の場所に行くのは、自分をその中に置いていくことを容易にすることですが、だからと言って他国に行くことがすなわちフィールドに身を置くことではありません。フィールドとは単に現地に行くことではなく、自分をそこに関与させ不安定な存在にし、そこから四苦八苦して自分なりの世界を組み立てるということです(この世界を組み立てるというのは暴力を含みます)。
ということで、フィールドで活動することこそが学問です。ただフィールドという言葉で何を意味するのかは注意する必要があります。京都大学はフィールドを重視する伝統がありますし、デザイン学でもフィールド分析法という共通科目を提供しています。