Destructured
Yutaka Yamauchi

ヨーロッパのビジネススクール

今回ヨーロッパのビジネススクールをいくつか回って得た感想です。ヨーロッパの経営学は、北米の経営学とは根本的にスタイルが違います。もちろん、ヨーロッパでも米国中心のジャーナルに成果を出すことが求められますので、米国的なスタイルを取り入れているところも多くなりました。しかし、違いは歴然としています。

例えば、デンマーク、イギリスなどのビジネススクールでは、最低限知っていないと議論に加われない理論的な知識というのがあります。よく聞かれるのは、Nietzsche, Heidegger、Deleuze、Foucault, Agambenなどです。一日に2、3回はそういう議論を聞きます。経営学がヒューマニティの領域と密接につながっています。これは米国のビジネススクールではあまりないことのように思います(日本でも)。もちろん一般的にという話しであって、中には色々な人がいますが。

私は米国のビジネススクールでトレーニングを受けて、現在はヨーロッパ的な研究に寄っているようなところがあります。この両方を見て、バランスを取ることの重要性が大事だと思います。ヨーロッパ的な研究は微妙な差異に対して敏感に深いところを炙り出すことができスリリングなのですが、結局哲学的な概念を使うことの必然性がわからないものも少なくありません。結果的に論文にならないモノも多いです。一方で、米国的な研究の問題点はその裏返しで、わかりやすい研究ではありますが、逆に予想ができて面白さがないという感じです。

私なりの結論としては、経営学の研究者は2つの別の理論軸を意識的に分けて培う必要があります。
  • 理論1 貢献する対象となる理論。つまり経営学の理論。この理論の問題を炙り出し、その問題を乗り越えることで貢献します。
  • 理論2 理論1の問題を乗り越えるために依ツールとして拠する理論。ここで哲学が出てきてもいいですが、あくまでも理論1が貢献先です。

ヒューマニティに寄っている人々は理論2だけに力点を置きすぎて、読者にとって貢献がわからなくなることが多いです。何よりも理論1が貢献先です。私の場合、理論2は意識して利用していても、論文には明示的に書かない場合も多いです(例えば、Hegelなんかを論文に登場させる利点があまりありません)。むしろそういうnamedroppingをしないでも理論1への批判に筋を通すというエクササイズが重要です。

一方で理論1だけでは、深く前提を切り崩すような研究ではなく、薄っぺらい研究になってしまう傾向があります。なぜなら理論1を批判していくには、何らかの視座が必要となりますが、その源泉が理論2であることが多いからです。仮説を検証したとか、経験的に何か新しいことがわかったとか、帰納的にデータから概念を浮かび上がらせたというような論文となり、厚みがありません。

ということで、理論1と理論2の両方を意識して使い分けないといけないのです。自分の学生には、博士論文のために前者の理論1を完全に理解することは必須ですが、自分が今後依拠していくような理論2を2つぐらい作り上げて欲しいと思います。理論2は現状に対してかなり批判的に考えることができるような力強い視座がいいと思います。私の場合は(米国発ですが)エスノメソドロジーであったり、批判理論と呼ばれるようなものであったりしますが、Foucaultでも、現象学でも、ポストコロニアリズムでもいいと思います。

そのためにはかなり広く読んで理解した上で、自分の依って立つものを選ばないといけません。教員のガイダンスが重要だと思います。その後のキャリア全体にわたっての資産となるでしょう。一方でそれがないと、筋の通った学者のキャリアを作るのは難しいように思います。

もちろんこのような指導ができるようになったのは最近で、自分もかなり苦しみました(誰もそのように指導してくれなかったので)。