デザインのエステティック
21 Jul, 2020 filed in:
Design | Culture | Art海老田大五朗. (2020). デザインから考える障害者福祉 ―ミシンと砂時計―. ラグーナ出版.
障害者福祉におけるデザインに関するこの本を読みました。障害者のためにデザインするという話しを聞くと、それがどれだけ素晴しい取り組みであっても、どうしても上から目線であることに違和感を覚えます。これは障害者に関わらず、他者が生活し仕事をする環境をデザインするというときに、デザイナーが直面する問題です。だから、最近ではデザイナーは一方的にデザインすることはできないし、そうするべきではないという言説がよく聞かれます。誰でもデザイナーだと言うわけです。利用者自身がデザインできるようにすることで、民主主義を実現するというような話しがあります。これらの言説は、デザインの中にある矛盾を消し去ろうとする身振りであり、欺瞞であると言えます。この本は、この問題を考えさせるひとつのヒントを与えてくれました。
この本に出てくる様々な事例には考えさせらます。どれも障害者を雇い、障害者の人が他の社員と一緒に一人前の従業員として仕事ができるように、様々なデザイン(創意工夫)をしています。知的障害を持つBさんは、数が数えられず、「なにをやらせてもできなかった」と言います。社長は、Bさんにできることをさせようとすることをあきらめ、「苦手なことをさせてみよう」と考えました。最終的には、数字を書いて部品を入れる升目状の箱を作ったことで、Bさんは必要な部品を数で判別し用意する仕事ができるようになりました。最終的には、この会社の1,000種類以上の部品の管理という製造の中核となる仕事をひとりでするようになり、いないと困る社員になったと言います。
これが「デザイン」だとすると、デザインを決定的に捉え直さなければなりません。このデザインは創意工夫ではありません。
社長は障害者を一度雇用すると絶対解雇しないと決めていると言います。しかし一方で、障害者だからと言って特別扱いはしないし、厳しく指導するとも言います。障害者だから特別に絶対に解雇しないということと、障害者だから特別に扱わないということの矛盾があります。これはどうでもよい矛盾ではありません。他の事例であるB社では時には重度障害者を、「最低賃金除外」の申請をして、最低賃金以下で雇うことがあると言います。これは搾取していると思われてもおかしくない行為と言えます。しかしこの会社はこのような障害者をフルタイムで、正社員と同じように雇うと言うのです。普通ならわざわざ最賃の申請をするような手間をかけず、パートタイムで雇えばいいと思いますが、景気が悪くなったり、上司が変わっても、これらの障害者が解雇されないようにするためにやっていると言います。これも矛盾です。
障害者を包摂するときには矛盾が前景化します。障害者という社会から締め出すという形式で包摂される生を、単純に社会に包摂し直すことができるというのでは都合がよすぎます。矛盾を消去しようとすることは、政治性を消去することです。それがどれだけ献身的な仕事であっても、欺瞞であることには変わりありません。この政治性をむしろより強調しなければならないのです。だからこそ、包摂することで、分離することが必要なのです。著者が映画「万引家族」を分析し、薬なのか毒なのかを決定することができない「パルマコン」という概念で、家族という素晴しい形象をハッピーエンドで閉じるのではなく、そのむごさを見せつけることで、政治性を保持することを主張することにそれが表現されています。
これらの矛盾がデザインの根幹にかかわるように思います。デザインは目的を実現する方法を考えることだと言われます。しかし、障害者がうまく自分の能力に合う仕事を見つけて能力を発揮できるようになることがデザインだとすると、それは確実に失敗するのです。以前、デザインとは社会の外部性を内部に節合することであり、これは不可能であることを説明しました。意図から効果までの直線的な最適化、問題解決は、それがどれだけ創造的なアイデアを伴っていても、あるいは新奇の美的感覚があっても、ひとつの超越的な立場における計算であって、デザイナーの仕事ではないと思います。
逆にこう言えないでしょうか? デザインは目的を実現することではなく、目的の実現に断絶をもたらすものである。この断絶こそが、Jacques Rancièreの言うエステティック(美学=感性論)です。目的の連関からなる既存の階層的なシステムに亀裂を入れ、新しい主体を出現させ、新しい客体を布置することです。目的を実現し、意図した効果を生み出すという直線的な動きを攪乱し、断絶を導入することがデザインではないでしょうか。上から目線になってしまうのは、この目的から効果まで一直線に結びつけることが傲慢だからです。デザインされた結果を見てみると、あたかも目的まで一直線に進んだかのように見えますが、そこにはひとつ以上の断絶があったのです。Bさんの社長は絶対に解雇しないという信念によって、何をやらしてもできないBさんに、むしろ苦手なことをさせてみるというありえない分割をしたのです。自分の目的に一直線につなげたのではなく、むしろ逆に進み断絶させたのです。
エステティックは美学という意味の前に、感性論という意味があります。我々の社会では多くの政治的衝突が起こりますが、衝突の前にそもそも誰が声を上げることができるのかが規定されています。ある種の装置が構成されることで、主体に位置が与えられるので、位置が与えられなければ声を持てないのです。Rancièreはそもそも見たり、言ったり、感じることができる水準であるという意味で、これは感性論の領域であると言います。感性論的(エステティック)に、ある分割(partage)がなされ、声を与えられる人と与えられない人が分けられます。そして、この既存の感性論的な分割に亀裂を入れ、新しい分割を生み出すことが、エステティックの意味なのです。これまで存在しなかった人が声を上げることができるようになります。
Rancière
の扱う芸術では、断絶を導入し攪乱するところで終ってもいいのかもしれませんが、そこから新しい声に位置を与えていくデザインが必要です。ある意味では、芸術家はこれに気付いてしまったのです。だからソーシャリーエンゲージドアートやソーシャルプラクティスアートが生まれ、実際に社会を変革したり、新しい関係性を樹立することを目指すわけです。デザインは逆からこれに接近しているのではないでしょうか? このように断絶を導入し目的を攪乱することと、目的を実現することの矛盾がデザインの本質であるなら、このデザインは失敗します。その緊張感から目を背け成功させるのではなく、この緊張感を最後まで増殖し続ける必要があるのです。だから、何もしないこと(
ノンフェール)
が一つの行為となります。この本の最後に補論として、栃木県のノンフェールという精神障害者施設の話しが出てきますが、明らかにこれは補論ではありません。この補論は締め出されるという形式で包摂されています。この施設では通常の施設で行うような「プログラム」をしないと言います。既存のプログラムに押し込めることが、そもそも自分を苦しめる原因なのです。だから何もしないし、意味のないことをするのです。何もしないことが最大の行為となること、これは矛盾です。何かをすることがすでに確立した感性論的な分割に従うことであり、何もしないことがこの分割を無化するということであることを意味しており、だからこそ何もしないことが最も政治的な行為となりうるわけです。ずいぶん勝手なことを書きましたが、どうしても書かないと気分が収まりませんでした。