Destructured
Yutaka Yamauchi

京大変人会議

先日の「変人会議」で話したことがよくわからなかったと言われたので、補足です。精進が足りません。

大学の存在意義については
以前のブログとかぶりますが、再度説明したいと思います。学問は世の中に役に立たなくてもいいという考え方は、学問を社会において特別な存在であって、社会の外に位置付けるということですが、もはやそれが通じる時代ではありません。近代という社会は、何かスゴいものとそうではないものの大きな区別が感じられた時代でした。ある意味無条件に学問はスゴいと思われていたところがあると思います(私はそのような時代を知りません)。しかし、今は全てのものがTVのイメージやTweetsのように横並びで、正しいとか正当であるというものがごちゃまぜになったポストトゥルースの時代です。それぞれの人が独自の価値基準を持っており、それらの間で優劣をつけたり、どれかに還元することができない以上、すべてが並列に置かれるとも言えます。そのような時代に学問を無条件にスゴいものだと思うようなことはありませんし、学問も社会の他の部門と横並びになったわけです。だから学問も自分の正当性を示さなければならなくなったのです。

学問が自らの正当性を示すひとつの方法は、実際に社会の他の部門に貢献していることを示すことです。具体的には、経済的なリターン(投資対効果)を生み出しているかどうかです。しかし、学問(あるいは科学)に投資をして、その結果新しい技術が生まれて、それが経済的価値を生み出すというリニアモデルは歴史上いくつか例があるように見えますが、たまたまそうだっただけです。そもそも学問から生まれるイノベーションというようなものは、確率の問題であって、しかもその確率が低いので、狙ってやると成功しません。ある成功事例を分析し、それと同じことをやろうとしても、次のイノベーションは同じようには生まれません。企業がイノベーションを起こすために施策をやるのですが、それを賢くやろうとすればするほど失敗するのです。

一方で、科学は世の中の役に立たなくてもいい、いずれ誰かがそれをうまく利用してくれるというのは、実はすでにこのような投資対効果で正当化しようという枠組みに乗ってしまっています。逆に言うと将来的にも用途が見つからないものもある(むしろ多い)ということであり、そもそもそのような勝負をするべきではないと思います。余談ですが、よい研究は役に立つかどうかを考えない純粋な学問からしか出てこないというのは幻想だと思います。多くのピュアに科学的な発見は、応用研究から生じたものです(江崎ダイオードの話しを持ち出しましたが、混乱させただけでした)。さらに余談ですが、学問は社会に役に立つ必要がないというのは、近代において社会が分化し、それぞれの領域が自律化していった典型的な戦略です。社会の他の部門のために仕事をしているのではない、自分自身のために仕事をしているのだということによって、その領域が他の領域に従属しない最高の価値を持つということを示すという戦略です(鮨屋の親父が客のために仕事をしないのも一緒です)。ということで、学問は社会にとって役に立つ必要はないというのは、ひとつのパフォーマンスとしては意味のあることです。

以上を踏まえると、学問は自らの正当性を示さなければならないのですが、一方で社会の他の部門に貢献するという形では正当性を示すことができません。それならば学問が社会にどのように役に立つのでしょうか? 私が言いたかったのは、学問が社会に役に立つとするならば、それは社会において役に立つと評価される基準を解体し、新しい基準の可能性を示すということ(だけ)です。学問がやってきたのはまさにこういうことであって、何か他の人にとって具体的に役に立つモノを作り出すことではありません。これが言いたかったことなのです。ちなみに学問の歴史は、人間が自分が中心だと思ってきた観念を脱中心化してきた過程です。総長も触れましたが、コペルニクスが太陽が人間の周りを回っているのではなく、人間が太陽の周りを回っていると言ったこと、ダーウィンが人間は特別ではなく動物と一緒だと言ったこと、フロイトが人間は自分を知っていると思っているが本当はほとんど知らないと言ったことなど… 自分を中心にした基準で測ることに対して、それを解体していくのです。

しかしここからが難しいのです。もしそうであるならば、学者の仕事は社会にすぐに理解され、受入れられ、評価されるはずはありません。人々が信じ利用している基準を解体するとき、人々は不安に陥るでしょうし、むしろ反発するはずです。私の研究はほんの小さなものですが、サービスとは何かということで、一般の人々が持っている前提を解体しようとしています。今だに十分に理解されませんし、かなり反発をくらいます。大学でやっている学問を社会にわかりやすく伝えるなどということは幻想です。社会にすぐに理解できず反発されることをやるのが学問なのです。だから学問はこの社会において負けるしかないのです。そもそも勝てない勝負なのです。それで勝とうとして、一般的に人々が聞きたいことを言うのは学者の仕事ではありません。

しかしこのようなわかっていて負けるということ自体がどうもエリート主義的で古臭いところもあります。我々の実践する学問は社会の外にはない以上、その学問の内容だけを社会の外から一方的に投げるのではなく、社会の特定の位置に立ってその内容を伝えることがどういう意味を持った「行為」となるのかを常に考え続けなければなりません。つまり、学問はパフォーマンスでもなければなりません。今の学者はこの両義性を理解して実践できなければなりません。自分もできていません… 越前屋俵太さんはこれを理解されているからスゴいのです。

というのが私の非常に個人的な考えです。これをお伝えしたかったのですが、その全体像をうまく伝えられなかったので、断片的にだけ聞いた方は、私を単なる変人だと誤解されたことと思います。単なる誤解です。

さて、最後に総長が変人講座をやろうということで、「総長のお墨付き」がつきました。これではもはや変人講座ではありません。総長がやめてくれと言ってもやるのが変人講座です(もちろん山極総長自身は学者としてとても尊敬できる変人です)。しかし、そんな本当に変な変人講座ではここまで成功しないですし、長く続きません。ということでパフォーマンスが大事なのですが、学問を裏切ったのでは意味がありません。この学問の本当のオモシロさを伝えるためには、学問をもう一歩社会の中に埋込み直さなければならないのです。矛盾したことなので簡単なことではありませんが、がんばりたいと思います。

ホスピタリティの場所

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先日の
京大変人講座の最後に少しだけ触れたホスピタリティの議論です。また、MOOCが2年ほど経ったので内容を更新しているところですが、ホスピタリティについての講義を少し拡充しています(その他、サービスの既存理論なども拡充しました)。ホスピタリティやおもてなしについては、これまでこのブログでも書いてきましたが、若干誤解があるようですので、説明の仕方を工夫したいと思います。

デリダに従って
ホスピタリティが不可能であることホスピタリティとは他者との力の関係であることなどを強調してきました。しかしこの主張が、ホスピタリティ概念に意味がないという誤解を導いたように思います。つまり不可能であるということは、ホスピタリティ自体が成立しないというように。そうではなく、むしろだからこそホスピタリティ概念に意味があると主張することが目的でした。不可能であることがその可能性の条件であり、だからこそ一層意味があるということです。そもそも可能なものによって閉じられた世界を措定することが危険なのです。ホスピタリティ概念はそれを切り裂く可能性を秘めたものだということが言いたかったのです。

ホスピタリティが人々を魅了するのは、まずは闘争を通して力を得ること、高貴になること、そして名誉を得ることです(アリストテレスなど)。他者という予測できない脅威に対してそれだけのもてなしができる人間であるということで、他の人を抜きに出ることができるわけです。しかしながら、それ以上にホスピタリティが魅力的である根本的な理由があります。ホスピタリティが「法」を乗り越える、「社会」を乗り越える、そして「自分」を乗り越えるための原動力だということです。ちなみに、「おもてなし」が友愛、やさしさ、思いやり、心からの奉仕などに根差しているからではありません。

どういうことでしょうか? ホスピタリティはまず法に基づくものでありながら、法を乗り越えるものでもあります。古代の話しから始めると、ここでの法は客人の権利(庇護権)であったり、盟約のある他国や他部族の人を迎え入れる掟であったり、あるいは神の命令であったりします。H. C. パイヤーによると、ギリシャの都市国家同士は互いの市民をもてなす契約を結び、その後国が法律を制定して庇護権を設定するようになりました。しかしながら、法にしたがい歓待したのでは、客人にとっても他の人にとっても(私の用語で言うなら「相互主観的」には)、ホスピタリティになりません。やらされている感が出て、ありがたいものではなく、力、高貴さ、名誉とは無縁となります。歓待するからには常に心から歓待しないといけないということになります。無条件なホスピタリティとは、他者の素性も名前も聞かず、誰でもいつでも見返りなしに迎え入れるということですが、このイメージが遂行されなければ、ホスピタリティには意味がありません(それを遂行することは不可能ですが)。だから、ホスピタリティは常に法を否定しながら、不可能であっても無条件なホスピタリティを指向しなければならないのです。

そしてこれは経済的な合理性に関しても同じです。将来的な見返り(リターン)を求めた利己的なホスピタリティは、瞬間的に価値を失います。そこでホスピタリティは、常にそれ自身のために、つまり見返りを求めていないようになされなければなりません。だからホスピタリティは常に経済的な合理性を裏切らなければならないのです。ポトラッチのように過度に与えるということがホスピタリティに見られるのは、この経済的合理性を裏切るということをそのようにしか表現できないということだろうと思います。伝統的なホスピタリティにおいては歓待されたゲストの側がお礼に贈り物をしてしまうと、ホストが憤慨します。ホストはゲストは最大限もてなした上で、送り出すときにはゲストにさらに贈り物を持たせるのです。つまり経済的交換とは逆なのです。そしてこのように法や経済合理性を乗り越えることによって、最終的には自分を無化し、それによって自分を乗り越えることになります。

そうすると、ホスピタリティ概念は、法や経済を否定し裏切り、それらを危うくするものになります。現在の社会は法や経済合理性に支配されているため、ホスピタリティを放置することができません。法は制定されると一様に施行されなければならず、法を裏切るものはコントロールできず、排除しなければならないのです。ヒッチハイクは多くの国で違法です(米国やオーストラリア)。同時に経済合理性のないものは社会の外部に押し出されてしまいます。現在の資本主義社会においては、我々の社会的関係は経済的な取引の関係として、人と人の関係ではなくモノとモノの関係に物象化されていくわけですが、そこではホスピタリティに場所はありません。

ホスピタリティ概念は過去のものであり、ホスピタリティ、歓待、おもてなしなどの言葉が何とも古い時代の感じがすること、つまりホスピタリティは現代社会においては居場所がないということですが、それは以上が原因だと思います。一方で、ホスピタリティや「おもてなし」が、現在の産業界にとってキーワードとなっています。経営管理大学院も来年度からホスピタリティを前面に押し出すことになりました(サービス価値創造プログラムからサービス&ホスピタリティプログラムに変更します)。なぜでしょうか? それはまさにホスピタリティには現代社会に場所がないことが理由です。つまり、経済的な合理性を裏切るからです。現在の社会は多様にものがあふれ、経済的に合理的なものは一瞬で価値を失います。そこでホスピタリティという、経済合理性を裏切る概念を戻し入れることによって、なんとか価値を保とうとしているのです。

しかしこのときホスピタリティは一度経済的な合理性が行き着いた後、付加的に持ち込まれたものです。そもそもホスピタリティ産業と呼ばれるホテルでのもてなしは、対価の見返りとして提供されているのであり、最終的にはある程度空虚な感覚を残さざるを得ません。そこで従業員に心からのおもてなしというようなことを刷り込むことによって、そこに「心がこもる」ような錯覚を起こし、なんとかこの空虚さを埋め合せようとします。ちなみに、Airbnbなどが個人の所有物に他者を迎え入れることを価値として、ホスピタリティを前面に打ち出すことは興味深いです。もちろん大部分はホテルと比較したときの経済的な計算であり、そもそもホテルで成立していないホスピタリティ概念を突いた、同じぐらい空虚なレトリックではあります。しかし重要なのは、それがなぜ人々を魅了するのかです。

ホスピタリティは資本主義に回収されるのでしょうか? これまで何度も起こってきたように、資本主義は屈折した形で批判を回収していくでしょう。そうだとしても、重要なのはホスピタリティが資本主義に挑戦状を叩き付けている現実であり、ホスピタリティにはこの社会を乗り越える原動力があるということです。もちろん資本主義がそのように自身に挑戦するものを求めているし、それに依存しているのですが。もしたとえば産業界もこのことの意味を理解すれば、ホスピタリティの価値をさらに現実にしていくことができると思います。ホスピタリティには、客を居心地よくすることの価値とは比べものにならないぐらいの価値の可能性があるのです。

なぜサービスには人が必要なのか

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先日石黒浩先生や他の方々と議論するときに主題化した問いは、なぜサービスにおいて人が必要なのかでした。つまりなぜロボットではいけないのか? ロボットでもいいかもしれない。しかしそれを区別する基準は何か?

安直には、歴史的にはサービスは複雑であるため人が応対しなければならなかったということがあります。つまりサービスは客の要求が個々に違っているため、人が応対した方が効率がいいという点があります。あるいは店に人がいないと、盗難などのセキュリティ上の問題があるというところがあります。しかしこれらが主な理由ではないだろうと思います。ロボットに置き換える議論をするまでもなく、本屋や日常品などネットでも注文してもいいわけです。

サービスという概念には他者との価値の「共創」が含まれており、他者なくしてはサービス概念が成立しません(たとえばサービス・ドミナント・ロジック)。しかしなぜでしょうか? 価値があればいいのであれば、他者がかかわる理論的な理由はありません。しかし、どんなカジュアルなレストランでも、人が応対するということが何か必然のように捉えられています。券売機のあるラーメン屋などでも、最終的には人が作り人が提供します。これは時代遅れの観念を引きずっているだけでしょうか? 将来的には人は必要なくなるのでしょうか? すでに人が介在しないようにデザインされたレストランやホテルが出現しています。まず人と関わるということの意味をしっかり理解することから始めなければなりません(もちろん全ての理論は歴史的な生産物ですので時代遅れである可能性はありますが)。

端的には、サービスには「他者」に出会うという価値があります。人にとって「他者」は、特別な価値を持っています。他者とは私には収まりきらない外部性として恐しい存在であり、だからこそ我々が渇望し迎え入れるものです(レヴィナス)。他者の「まなざし」によって、我々は震撼させられ、我々にとっての馴染みのある世界が急変します(サルトル)。他者との出会いにおいては、自己が否定され、闘争そして逃走へ駆り立てます。ここにおいて、他者の「承認」を得ること(それが不可能であるとしても)は、十分に価値のあることだろうと思います(ヘーゲル)。この価値は厳密にはお金には還元できない市場の外部性なのであり、本来的には値段をつけることができません。

この「他者と出会う」価値は、顧客の要求を満たすとか顧客の問題を解決するという直接的な価値に影響を与えます。特に高級なものを消費する場合には、単に要求を満たされたという価値だけでは物足りないのです。ブランド化されたものはすでに陳腐な印象を拭いきれません。それに一つのオーラを与えるために、他者との出会いという存在論的な契機をうまく活用するわけです。そして高級なサービスになるほど、提供者との関りは、定型化したフレンドリーなものではなく、フォーマルで緊張感のあるものとなりますが、これは他者が自分の世界を脱し、自分を脅かすような存在として現れてくることに関連していると思います。もちろん高級であるとか大衆的であるという切り分けは単純化しすぎだということも理解しておかなければなりません。大衆的なものでも一部のラーメン屋のように他者との緊張感のある関係を価値としている場合があります。ところで他者の「まなざし」はサービスにおいては非常に重要なのですが、現在それをなんとか論文にできないかと四苦八苦しているところです。

これは人とつながりたいというような社会的な欲求ではありません。よく人が応対することで温かみを出したり、共感を呼んだり、信頼したり、ほっとしたりということも議論されます。そんな表面的なことでは、サービスになぜ人が必要なのかという問いの答えにはなりません。実際にはこのような美しい出会いは稀であり、そうではない場合はことごとく自動化したらいいのでしょうか。むしろ他者との出会いの基本的な意味を理解しないといけないと思います。

一方で、いわゆる高級でないサービスにおいて人が応対することには、難しい問題だと思います。他者に出会う緊張感は残っているのですが、関係性が変化している場合が多いと思います。この場合の他者と出会う価値は、本来的に自分を否定しその世界を震撼させる他者ではなく、自分が支配する他者であるように見えます。つまり金を払っているのだから自分のために働けというように、他者を支配し従属させることから得られる価値とも言えます。金を支払うことで他者に負債を負わせて支配する快楽というニーチェ的な価値です。これは外部性でありコワい存在である他者の裏返しとして意味があるというわけです。他者を独立した主体としてではなく、客体に押し込めるわけです。

店員を人間とも思わず怒鳴りちらす人やワケのわからないクレームをする人は快感を味わっているのでしょう。それで満足は得られず余計に満たされない思いが残るだろうと思いますが。そのような明示的な行動がない場合でも、このような他者を支配する快楽が密かに忍び込んでいる場合が多いように思います。知らず知らずそうなっているのが一番根深い問題かもしれません。ただ、この価値も値段をつけにくいことに変りはありません。

サービスのどの部分をロボットに置き換えるのかなどの議論は、的を得ていないことがほとんどです。一方で、完全に自動化してしまってもいい部分が多いのは事実です。しかしそれは単に人の能力が必要なく、あるいはAIが置き換え可能であるということではなく、他者に出会う価値が問題となっていないからだと考えるのも意味があるのではないでしょうか。そして現在の社会においてサービスが重要となってきているのは、生産者が一方的に価値を定義できなくなってきたという時代背景とともに、そもそも価値自体に価値がなく、価値を超越することにしか価値がないという時代背景も理解する必要があるように思います。もちろんこのような整理は一つの視座にすぎませんが、もっと真剣に考えてもいいように思います。

組織文化論

もう授業が始まります。今年から経済学研究科(大学院)の科目「組織文化論」を新規開講します。明日第一回ですが、まだシラバスが完成していません… 目的はこの領域で研究して論文を書いていく人を育てたいということです。興味がある人は多いのですが、特にこういう分野は評価がされにくく論文も書きにくく(通しにくく)、一般的に博士課程の学生さんや若手の研究者の方はまともな支援を受けることができません。この領域に「真剣に」興味があるという方は、論文が書けるまでがんばって支援します(所属は問いません)。

シラバス(現時点)はこちらです。

1 導入
2 組織文化の概観
3 文化概念の系譜
4 文化闘争の理論
5 趣味・テイスト
6 実践とパフォーマティヴィティ
7 文化生産および場
8 モダニズムとポストモダニズム
9 モダン社会、ポストモダン社会
10 ポストモダン組織研究
11 ポスト・コロニアル理論と文化の表象
12 センスメイキング、ナラティブ、組織化
13 ポリフォニーと間テクスト性
14 研究の討議


組織文化論という名前で「未だにそんなもの議論するのか? 」という反応があるかもしれません。組織文化は80年代に主流になった後下火になり、今では組織文化という概念自体を議論するような研究は限られています。内容的には文化概念を広く捉え、文化という名前のつかないトピックなど、最近の研究も含めています。「文化」をあまり意識していなくても、センスメイキング、ナラティブ、実践、パフォーマティヴィティなどの現在主流の概念に興味があるという方でも意味があると思います。

大学院のリーディングセミナーのような科目ですので、毎週論文を数本読んで、議論していくというスタイルを取ります。月並ですが、私が教えるというような授業ではなく、一緒に文献を読みながら議論していこうというものです。とりあえず走りながら、シラバスを練っていきます。興味ある方は是非ご参加ください。


文化のデザインについて

ようやく『組織・コミュニティデザイン』(共立出版)の第3稿の修正を終えました。10月20日ごろに配本予定です。日本語で本を書いている場合かと怒られそうですが(我々大学教員は「英語」で「論文」を書かないといけないのです)、これはこれでやらないといけない仕事なのです。京都大学デザイン学教科書シリーズの2つめで、他に様々なデザイン学の教科書が出ます。一緒に授業をやっている杉万俊夫先生(コミュニティデザイン担当)、平本毅先生(組織デザイン担当)との共著です。ここでは私の担当部分に限定して紹介したいと思います(つまり以下の内容に問題があっても他の共著者の方々に責任はありません)。

先日のデザインについての議論で、(文化の)デザインとは、社会の限界点としての外部性を内部に節合する(articulate)ことであると書きました。これを背景から具体的に噛み砕いて説明したいと思います。出発点としては、鮨屋のようなサービスを研究する中で、どのように鮨屋のサービスがデザインされうるのかという問いでした。当然ながら客の潜在的ニーズを満たす、顧客に満足度や感動を与えるという説明では不十分ですし、むしろ説明できないことの方が多くなってしまいます。さらにもっと身近な例を挙げると、マクドナルドが一つの現代社会のシンボルとなるようにデザインされたこと、その次にはスターバックスが同様に成功したことも、既存の枠組みでは十分には説明できません。そこで「文化」のデザインを打ち出す必要が出てくるわけです。「文化」というような言葉を使うと余計に混乱するかもしれませんが、それ以外に(理論的に)いい言葉が見つからなかったのです。

とりあえず私が行き着いた答えは、これらのデザインは社会的条件に投げ込まれた主体の不安が起点になっているということです。文化のデザインとは、この不安に対して何らかの代補を構築していく取り組みです。もちろん不安というのは、ある個人の特定の状況での心理学的なものではなく、社会的条件に埋め込まれた実践に根差した社会学的なものです。

例えば、マクドナルドは文化のアンチテーゼのように捉えられることが多いですが、その成功は効率性、予測可能性、機械化ではなく、近代性の象徴を作り上げたという意味で文化のデザインにあります。戦後の米国の文脈で、伝統的な社会にうんざりしつつ、それと同一化していることにやるせない自分(不安)を感じていたところで、しがらみから解放された姿としての新しい近代的社会を表象しました。この近代社会はキラキラした憧れと共に、外部性としてコワい存在でもありました。このような体験には自分の否定を伴うため愛憎まじった倒錯したものとなりますが、これがマクドナルドに対する憧れと同時に、それへの嫌悪感を伴うことにつながります。もちろん今では大人がマクドナルドにドキドキして行くことはありませんが、だからこそ子供をターゲットにしているのです。

スターバックスは、バークレーのA. Peetのコーヒーショップやそれをシアトルで模倣した初期のスターバックスのようなエリート主義的でスノッブなコーヒー体験を、H. Schulzがうまく大衆化したものです。これは70年代の戦後世代が、物質的な充足が当たり前となったときに、自らを証明する手段がなく不安にさらされ、結果として文化的な洗練さに向かった動きに同期したのです(Douglas Holtの”Cultural Strategy”を参照)。これらの人々は文化的な洗練さに憧れても、それと同一化できないのですが、それを疑似体験できるようにしたのです。つまりコーヒーの味なんてどうでもいいようにミルクをふんだんに入れたラテなどです。一応正当性を残すために、形だけ様々なテロワールの豆の販売は続けました。スターバックスはカッコいいとかということではなく、自分を証明する手段がなくなったときの不安に対する答えとして大きな意味があるわけです。

これらのデザインは、潜在ニーズを満たすとか、顧客の問題を解決するとか、満足度を高めるという水準とは全く別のところで、人々を魅了します。また人々の不安が起点となるため、その代補としての文化はシンボル性を獲得していきます。マクドナルドのサービスの善し悪しや、スターバックスのコーヒーの味や雰囲気を評価するのは的外れです。これらがシンボルとなるのは、人々の不安を隠し補う形でフェティッシュとして固着するからと言うと、多少の示唆があると思います。人々の不安は解消されることはなく、あくまでも不安に対する代補を構築され、なんとかごまかしていくことになります。

重要なのは、これらのデザインを実践していくための理論的な基盤がないということです。むしろそういうデザインを阻害するような理論が議論されています。
京都大学のデザインスクールも数年経ち一つの区切りをつけることが視野に入ってきましたが、この研究とその成果であるこの教科書は強い使命のもとに作り上げてきたものです。世界の他のどのデザインスクールでも議論されていないような独自の内容です。簡単に理解されるものではありませんし、いつものようにキワモノだとしてすんなり評価されるようなものではありませんが、何とか貢献できれば考えています。

あまり知られていないPARCのイノベーション

8月4週間カリフォルニアに行ってきました。古巣のXerox PARCについてあまり知られていないのですが、現在の企業の研究開発にとってとても参考になる事例について共有したいと思います。以前にも書いたことがありますが、この厳しい時代だからこそイノベーションを狙って新しいアイデアに賭けるのではなく、長期的視野からケーパビリティを育てていくことが必要だと思います。

Xerox PARCは1970年に設立されて以降、パーソナルコンピュータAlto、イーサネット、マウス(発明ではなく実用化)、オブジェクト指向、ウィンドウシステム、WYSIWYGワードプロセッサなどを発明したことで知られています。余談ですが私は高校生のときにこれらのイノベーションに憧れて、大学ではコンピュータサイエンスを選んだ経緯があります。一方であまり知られていないのですが、当初よりa-Si(アモルファスシリコン: きれいに結晶になっていないシリコン)の研究がさかんでした。これは大規模なエレクトロニクスのためには結晶シリコンでは限界があるというがモチベーションとなっていました。そのころa-SiでTFTを作るということが実証され始めた時代で、Xeroxのようなイメージングの会社としては当然の投資先です。John Knightsが研究を始め、徐々に蓄積してa-Siの研究でセンターオブエクセレンスになり、その後様々な発明を生み出します。例えば、ディスプレイを想定していたのですが、それが逆方向にセンサーとして利用できるというBob Streetの発明によって、大規模なセンサーでイメージングをする必要のある(光学的にフォーカスできない)X線センサーの実用化に目処をつけます。dpiXという会社としてスピンアウトし、Xeroxの他、Siemens、Philipps、Thomsonの投資を受けて事業化し、今でもヨーロッパのX線機器のほとんどに組込まれています。少し前までPARCの向いに製造ラインがありました(今はコロラドです)。

a-Siは大規模な半導体デバイスを作ることに先進性がありました。そこで大きくなるとリソグラフではパターニングできないだろうということで、パターニングのために印刷技術を使うというのはXeroxとしては自然な選択でした。もちろん印刷によるパターニングは解像度では及ばないことと、ステッパーという技術が生み出されたことにより下火になっていきますが、同時にプリンティッドエレクトロニクス(有機材料を印刷することで作るエレクトロニクス)の領域を切り開きます。大規模なプリンタを日本の企業から調達し研究を重ねていくのですが、それが例えばDARPAプロジェクトで生まれたセンサーテープのようなイノベーションにつながります。研究としては同じテーマを継続しながら、徐々に領域を広げつつシフトしてきたわけです。当初より焦点であった太陽光パネルも今でも研究が続いているものの一つです。

このように消費者にはわかりにくい地味な領域ですが、大きな成果を出してきました。そしてこれらの研究を40年以上継続して続けるということが、現在の研究機関としてのPARCの強みとなっています。他には、PARCがレーザーダイオードで先駆的であることもあまり知られていません。レーザープリンタを発明したことはよく知られていますが、その関連でレーザーダイオードの研究も進んでいました。PARCからスピンアウトした
Spectra Diode Labs (SDL)はその後Xeroxの時価総額を追い抜くほどの企業となりました。Xeroxにはものすごい経済的リターンをもたらしたはずです(Xeroxがエクイティを手放すのが早すぎた点には触れません)。今でも半導体レーザーの研究は進んでいますし、それから発展して光学デバイスでは先駆的です(最近では画期的なフローサイトメータとかHyperspectralイメージセンサーなど)。その他には、Model-based Computingという領域では90年代からXeroxの製品開発に貢献しつつ、現在でも多くの企業が技術を求め投資をしています。どれも30年以上継続して蓄積してきた分野です。

このように過去から丁寧に研究を蓄積してきた結果があるため、現在においては様々な技術を生み出す原動力となっています。研究開発やイノベーションの世界は新しいものが全てであり、長期的な継続はあまり議論されませんが、実際にはそういう長期的な視点が成果を生み出す最先端といことだと思います。よく聞く話しですが、新しいアイデアに投資しても3年ぐらいで失敗だとわかるのですが、そこでそれまでの3年間を全てなかったものにして新しいアイデアに移っていき、10年もすると何も残っていない状態だというのも珍しくありません。

もちろん長期的であるということは、同じことを同じように繰返すという意味ではありません。同じことをやり続けて気付いたらその領域が時代遅れとなっていて慌てて新しい領域を探すということではなく、世界をリードして先に手を打つことが必要です。リターンを出すために常にアプリケーションを求め続け、それにより研究の方向性を柔軟に修正していく必要があります。徐々に技術的なノウハウを広げていくことで、継続性を保ちながら結果的にかなり新しい領域に進んでいきます。その過程でメンバーもかなり入れ替わりますが、それがネットワークの拡大としてリターンを生みます。長期的に研究を継続するためには、このように変化に機敏に対応することが必要なのです。逆に変化に対応していくには、長期的に蓄積してきたノウハウ、知見、ネットワークが必要です。アイデアだけの勝負では、まず成功することはないでしょうし、他の人々もすぐに同じことをするようになります。

もちろんこれは企業の研究開発に限った話しであって、スタートアップなどの世界は別のロジックがあります。

学問について話しました

先日収録したインタビューが放映されるとのことです。ABCラジオ 8月20日日曜日、22時30分~ 越前屋俵太さんの番組で「俵太の聞きっぱなし天国」です。自分は日本にいないので聞けないのですが、というかコワくて聞けないのが本音です。ネットでは3分でも長すぎて聞いてもらえない時代ですが、30分ももらいました。しかも「学問」という誰も聞いてくれそうにない内容です。学問についてなど話せる立場ではありませんが、あまり偉い人の話しよりも気軽な話しの方がいいということで、引き受けました。

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学問が知識ではないということから始めました。「知る」ということは、その対象を征服するということなので満足感と安心感が得られるのですが、学問はその前提を切り崩し自分自身を不安に晒し続けなければなりません。学問というのは知識があるということだと思われることが多いですが、知識に満足しないのが学問だと思います。もちろん勉強はしないといけませんが。

学問とは何ですかと問われて、とっさに世界が成立するための前提を問い直し切り崩すことと答えました(自然科学も人文社会科学も工学も同様だと思います)。一方で、「研究」とは問いを立てて答えを導くことです。もちろん研究で答えを導くためには前提を問い直さなければなりませんし、学問をするためには問いを立てなければなりません。どちらがいいということではなく、単に違う意味を持った活動ということです。重要なのは研究は教えることができても、学問を教えることがとても難しく、できていない場合が多いのではないかということです。まず重要なリサーチクエスチョンを立てろとか、先行研究との差異は何かとか、分析結果が面白くないとか、気が滅入るだけであまり意味のない議論になってしまうことが多いです。

また、近代の枠組みが弱体化した以上、学問は社会において何ら特権を持ちません。学問の自由を特権だと考えているとすると、時代錯誤です。現在大学に対するプレッシャーは強まるばかりですが、こんなときこそ学問の正当性は社会の他の分野への貢献(経済的リターンをもたらす、人生を豊かにするなど)だけではなく、それ自体の存在意義を真剣に追求しなければなりません。それ自体の存在意義とは、社会の既存の正当性の枠組みを解体するということしかないと思います。だから学者は評価されることを目指してはいけないわけです(しかし学問は自分をマーケティングしなければなりません)。以前、
ブログで書いた通りです。

などを話しました。おそらくほとんどの部分はカットされているはずです。いずれにしても、学問の地位がほとんどなくなったこの時代に、学問が脚光を浴びる可能性があるということ自体が興味深いです。これは全てが均質になった現代においてなんとか権威があるように見えるもの(歴史、伝統、文化そして学問)にすがろうとする消極的な動きなのか、出口が見えず永遠に回り続ける世界になんとか亀裂を入れることを求めているのか… 色々考え続けなければなりません。

ところで、越前屋俵太さんの生き方も学者の生き方と同じですね。その時代の笑いを批判し、新しい前提から革新的な笑いを作り出されたのですが、かなり孤独な仕事であったと思います。