Destructured
Yutaka Yamauchi

コンビニという安らぎの空間

学部の学生と一緒にコンビニについて考えています。コンビニは学生に身近なトピックであり、現在進行形で社会問題にもなっているテーマですので、扱うにはちょうどいいかと思いました。学生との議論を先日週刊ポストの取材(なんでやねん)で話して盛り上がりましたので、すこし書いてみました。

コンビニは、いつでも欲しいものが簡単に手に入る便利なものとして発展してきたというのが一応の常識です。しかしコンビニは便利で効率的なものというだけではなく、現代の社会において「文化」を形成しています。学生の話しを聞くと、コンビニで知り合いに会うと気まずい。複数人のグループで行くのは違和感がある。夜バイトの帰りに疲れたときに、フラっとコンビニに寄りたくなる。考えることなくぼーっとしていられる空間。店員から声をかけられることもないし、自分の個人的な空間。大きすぎず安心できる空間。というように捉えているようです。そういう意味では、コンビニは便利であるという以上の何かです。都会でない場所で育った学生さんは、夕食後に家族でコンビニに行って、それぞれが自分の好きなスイーツなどを買ったり雑誌を見たりするらしいです。

コンビニは、まず個人的なものです。スーパーでは他の人(家族など)のために買い物をしますが、コンビニでは自分のためにだけに買い物をします。スーパーでは将来を見越して買い物をしますが、コンビニでは「今」の自分のためだけに買い物をします。直接的に個人的なものを買うので、知り会いに会うと個人的なものを見られた気になって気まずくなります。コンビニは欲望をそそるものが剥き出しで(多品種個包装で)置かれているので、コンパクトに消費文化を体験できます。各社が消費者を刺激するために新しい商品を作って並べますので、何も能動的に考えることなくそこにいるだけで刺激を受けることができます。店員さんは声をかけないので、自己表現するプレッシャーもなく、他人の空間でありながら安心して自分でいられます。スーパーは大きすぎてどこに何があるのか把握できず安心できませんが、コンビニは大きくないので、安心してボーっとできるわけです。

そう考えると、コンビニは現代社会の人々の安らぎの場となっています。大きな物語が信じられなくなった今、個人が丸裸で何の約束もない世界で生きなければなりません。がんばっていても報われる保障などないニヒリズムに直面し、個人は勝負し続けることを強いられています。そこで人々の不安が高まっているのですが、コンビニはひとつの安らぎの空間を提供していると言えます。資本主義が個人を社会的関係性から引きはがし、対等にがんばれば成功できる素晴しい社会を用意しつつ、人々の不安を極限まで高めることで、資本主義の完成形とも言えるコンビニでその不安を回収し、そこからさらに利益を絞り取る、よくできたデザインと言えるかもしれません。

人手不足で高齢のオーナーが夜中に働かざるをえないことや大量の食品廃棄が問題となって、何やら急にバッシングの対象となってしまっています。元々オーナーは野心を持った起業家で、客は便利さを享受する王様だったようですが、今ではオーナーも客もそこでなんとか自分を保っている被害者に見えます。安らぎの場としてのコンビニ自体は批判はされませんが、自分が資本主義に回収されていることに対する違和感はあるように思います。攻撃の対象は、あたかも自分は関係ないかのようにエリート的にふるまっているように見える本部ということでしょうか。この本部は、すべてを見通して我々をこのコンビニという小さな空間に切り詰めている超越した存在に見えるのかもしれません。

コンビニを詳しく研究しているわけではないので、ずいぶん適当なことを言っていますが、少なくとも一般に考えられている以上の面白い存在であることは確実でしょう。「文化」とは最もかけ離れたように見えるコンビニも、やはり無視できない文化を形成していると言えます。コンビニをデザインし直すことは危急の課題ですが、この文化の視座はおそらく抜け落ちるでしょう。むしろ文化の視座からデザインし直すとどうなるのか、それを学生さんと考えたいと思います。

論文の構造

ようやく新年度です。なんとか全員の博士論文の目処がつきました。すでに学位を取られた方々、おめでとうございます。論文の書き方については何度か書きましたが、こういうことを学ばずに博士号を取って修了してしまう学生さんが多いという現実に責任を感じています。下記は私の個人的な説明ですし、他の教員は違った説明をすると思います。どの教員も考えを持って指導しているので、それぞれの説明を聞いて自分なりに参考にするのがいいかと思います。ちなみに自分がきちんとできているという意味ではありません。

組織論という我々の領域では、論文の根幹は理論的な貢献です。何か新しいことがわかったというだけでは、論文が成立しません。次の4つのステップからなります。


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1. まず研究領域(ドメイン)の既存理論の「問題」を指摘しなければなりません。既存理論(勝手にドメイン理論と呼びます)の問題を指摘するということは、既存理論が何かを見過しているとか、何かの現象を説明できないとかいうことでは不十分で、既存理論が「破綻している」ことを示さなければなりません。多くの場合、不要な前提を引きずったために、もともと目指したものを実現できないというような筋書になります。既存理論では議論されていないことを丹念に指摘しても、議論していないことは無数にありますので、それ自体は理論的貢献にはなりません。そうではなく、もし既存理論が何かを語っていないとすると、それは何らかの問題を隠すためであり、それを隠さなければならなかったのは、自己矛盾が発覚するからだということを示さなければなりません。ただし既存理論が「問題」だと直接的に主張すると、査読者にとって印象がよくありませんし、無意味に敵を作るだけなので、ポジティブに書かなければなりません。

2. この問題の
「原因」を記述しなければなりません。たとえば、近代的な主体概念を温存していることが「原因」であり、それによりイノベーションを個人の能力に回収してしまい結果的にイノベーションが理論の外に置かれてしまっている「問題」や、逆に主体を不用意に解体しすぎたことが「原因」で、秩序を説明するのに研究者という超越的な主体を持ち込んでしまっている「問題」というような感じになります。単に「主体概念を温存している」というのは「問題」ではなく「原因」なので、それだけでは「問題」を指摘したことにはなりません。つまり外からよくある批判を持ってきてあてはめているだけです(それがOKなら何でも好きなものを持ってきて批判できてしまいます)。一方で問題を指摘するだけで原因がないと、次の新しい視座との接続が難しくなります。

3. その原因を取り除き、既存理論の問題を乗り越える
「視座」を提案します。経営学では、社会学、哲学などのリファレンスディシプリンから、ツールとしての理論を借りてくることが多いです。ツールとして利用する理論(勝手にツール理論と呼びます)は「問題」を抱えている理論(ドメイン理論)とは別のものです。つまり論文には2つの全く異なる役割を持った既存理論が必要です。貢献する対象はあくまでもドメイン理論であり、ツール理論に対して問題を指摘したり、それに貢献をしようとするとエラーとなります。私がよく使うツール理論は、例えばエスノメソドロジーのリフレクシヴィティ(相互反映性)、言語論的転回にもとづくパフォーマティヴィティ(行為遂行性)、主体を脱中心化するアジャンスマン(agencement)などです。これらのツール理論自体が何らかの既存理論の問題の原因(たとえば「主体」概念や「主客分離」)を解決しようとして生まれてきたものですので、その原因がドメイン理論の問題の原因と重なります。

4. その視座を用いて既存理論の問題が乗り越えることで、新しい
「理論」を提案しなければなりません。ツール理論を更新するのではなく、研究領域に戻ってドメイン理論を更新します。問題が解決されたというだけではなく、それが解決されたとするとどういう新しい理論を提案できるのかを示さなければなりません。たとえば既存理論が注力するディベートを再考します。そもそも上記の「問題」は、既存理論がやろうとしたにもかかわらずできなかったことですので、既存理論がやろうとしたことが可能となる理論をポジティブに提案する必要があります。逆説的ですが、新しい理論を書くためには、実は既存理論が本当にしようとしたことを理解するだけではなく、なぜそれをしようとしたのかを問い、既存理論のさらに前の理論(既存理論が批判している理論)まで戻る必要があります。

この1から4を順番に書いていけば論文ができます(実際には4つ全てを同時に考えます)。以上の4点のどれかが欠けても論文としては不十分ですし、読むとどれが欠けているのかはすぐにわかります。一方で、上記以外にスペースを使っているとすると、時間を無駄にしていると考えられます。よくあるのは、既存理論との「差異」をしきりに書くことでスペースを無駄遣いすることです。できるだけ多くの差異を見つけて書こうとしているなら、そもそも論文に決定的な欠陥があります。差異は無数にありますので、ひとつの差異に注目するなら、なぜそのような差異があるのかを問わなければなりません(そうすれば問題、原因などがわかってきます)。

実際にはレビュアーやエディターのめぐりあわせに依存しますので、こういう理論的貢献が明確でない論文も多いです(しかし「理論的貢献が明確でない」は決まり文句になっている思いますが)。いずれにしても、この要件を理解することで論文は格段に書きやすくなりますし、論文としての質が上がります。自分の指導する博士課程の学生さんには、これをきちんとできるようになっていただくことを条件にしています。

これが理論的貢献の1つの書き方ですが、その上で経験的な分析が位置付けられます。経験的分析の水準で貢献しようとすると書くのが難しくなります。例えば、こういう事象を発見したという主張では、「だから何?」と言われてしまいます。まずは上記の要件を満たしていることが前提で、それに基づいて分析を書いていきます。驚くような「発見」がないと論文が面白くないという誤解があり、発見をみんな必死で探し求めて時間を無駄にしますが、そういう発見は必要ありません。


デザインとは--須永剛司先生との議論を通して

須永剛司先生が東京藝術大学を退任されることにあわせて、特任教授としてご尽力いただいてきた京都大学デザインスクールでも特別講義をしていただきました。

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須永先生の結論は、「つくるプロセスがわかること、それがデザインだ」というものでした。デザインとは単につくることではなく、つくることがわかること、そしてそれがわかることによって、つくるもの(こと)が変容することである、というように理解をしました。須永先生は、デザインとはプロのデザイナーによる特権的な営為ではなく、市民が自分たちの生活をつくるということにまで広がっているというお話しをされました。デザイナーは市民がつくるプロセスをわかるようにすること、それを通して市民が新しい「つくる」段階に進むことを支援するということなのだろうと理解しました。この新しい段階の「つくる」は、それまでの「つくる」とは異なり、「デザイン」と呼ばれるべきものとなるというような話しかと思います。

この考え方は私にはとても腑に落ちるところがあります(と同時に受入れがたいところもあります)。デザインするという行為が、デザインとは何かという言説を含むということは、この時代の要請だと思います。以前は「デザイン」というと「こういうものだ」という理解をする暗黙の拠り所が存在していましたが、そのような拠り所の信憑性がなくなった時代です。

これはデザインに限ったことではありません。例えば、「大学」というと以前は「こういうものだ」という理解が得られていたと思います。特に説明を要しなかったのです。学問が社会の中で何か特権を持っているように考えられていましたし、大学教員はある種社会の外側に位置付けられ変人として片付けられてというところがあると思います。しかし、今はこのような拠り所に信憑性がなくなり、社会の中で特別な位置が与えられるものは存在しません。だから、大学教員はもはや授業をするとか、研究をするというとき、単に授業をしたり、研究をするだけでは済まされません。授業や研究をしながら、大学教員とは何か、大学とは何か、授業とは何か、学生とは何かについての言説を打ち立て続けなければなりません(これは教員だけによってではなく、様々な人々、制度、モノとの相互作用によってなされます)。

同様に、デザインするということが、何かをデザインするだけではなく、デザインするということがどういうことなのかという言説を含むことは必然です。これは最初に100年前にアートにおいて、デュシャンによってまず始まったことで、60年代以降の現代アートはすべからくこのパフォーマティヴィティ(行為を通して意味や現実を打ち立てること)を含まなければならなくなりました。現在のデザインも同様です。だから、デザインするということは、事前に定義できないのです。デザインとは何かという定義は、デザインの行為を通して打ち立てられるしかありません。

ここからが本題ですが、このデザインの定義はデザイナーが自由に提示できるものではありません。既存の拠り所が信憑性を失ったというのは、単に既存の枠組みが解体したというだけではなく、その枠組みに対する批判があるということだと思います。デザインやデザイナーがそれまで特別であったということに対する異議申し立てがあるように思います。この異議申立ては、ひとつには社会の中で既存の権利を持つカテゴリに対する一般的な批判ですが、もうひとつにはデザイン自体に内在するものです。つまり、デザインはあらゆる前提を問い直しクリエイティブに新しいものを表現するという行為であるという主張があるとすると、当然ながらデザイン自身の拠り所も問い直されます(学問も同様です)。現在において一切のエリート主義はその欺瞞を見逃されることはありません。

この状況で、デザインするという行為がデザインの定義をパフォーマティブに打ち立てるということは、必然的に自己破壊を伴うということです。つまり、デザインする活動は、デザイン自身を批判することが避けられないのです。たとえば自分のデザインはこれまでのデザインとは異なるのだという主張になるかもしれませんし、さらにデザインなんて無意味だと主張するデザインや、あえてデザインしないという方法もありえると思います。しかしながら、デザインを否定的に捉えるだけでは、カッコいいかもしれませんがつまらないものとなります。自己破壊をすることで新しいデザインの可能性を提示するというリスクに向き合った肯定的な実践こそが求められると思います。このニーチェ的なデザインが、デザインの最先端だと思います。これが須永先生のされていることを、私なりに解釈したものです。

デザインスクールは今月で補助金が終了します(プログラムは続けていきますので誤解のないように)。須永先生も東京藝術大学を退任されます。このタイミングでデザインの新しい姿が見えたことは、デザインスクールを一区切りするひとつの成果と言ってもいいように思いますし、須永先生が長いキャリアの中で積み上げてこられたものの重みを考えると当然のことのようにも思います。須永先生、これまでデザインスクールへのご尽力ありがとうございました。また、これから新しいチャレンジをされるので終りではありませんが、このようなお仕事を残されたことに感謝いたします。


「価値」とは何か

最近「価値」について議論する機会が続きました。ちょうど『世界の食文化辞典』(丸善出版)に、「味のランク付け」という文章を書きました。並行して博士課程の佐藤くんが「価値づけ研究」で博論を書いていますし、先日のMBAの学生さんの発表でも「価値」が議論されていました。

何かのモノに本質的に価値があり、価値評価はそれを測定するという考え方は多方面から批判されてきました。価値はモノにあるのではなく、一つのパフォーマンスつまり動詞であるという考え方は、現在の社会においてとても重要だと思います。なぜかというと、現在の社会には何らかの価値を基礎づけるような大きな構造はすでに解体されており、様々なものがほぼ自由に結びつくようになっています。既存の枠組みで与えられた価値を語れない以上、我々は常に価値を定義する実践に従事しなければなりません。例えば、「社会的起業家」のような概念は従来の構造からすると自己矛盾ですが(社会的価値は資本主義的価値と相容れない)、今ではそれが自由に結びつき、その自己矛盾が価値となっています。しかし、社会的貢献をマーケティングとして利用しているだけでしょという批判にさらされますし、何か具体的な事業をした瞬間に「本当」の社会的価値ではないという矛盾をつきつけられます。そこで自分は本当に社会的事業を行っているのかを問うこと、つまり自分自身を否定し自分が何なのかを定義しようとするリスキーな実践が避けられないのです。

価値づけがパーフォーマンスであるというのは、Michael Hutterによる村上隆の分析を参考に考えるのがわかりやすいと思います(2年ちょっと前にコペンハーゲンビジネススクールに来られたときに初めて話しを聞きました)。村上隆は芸術家でありながら、ルイヴィトンのバッグをデザインしました。それだけ言うと、芸術とビジネスの境界があいまいになったというだけの話しで、今さら取り立てて言うほどのことはありません。それだけではなく彼は美術館での自分の展示の中で店を作りルイヴィトンのバッグを販売しました。どういうことでしょうか? これは村上隆がデュシャンピアンとして意図的に行ったデモンストレーションなのです。つまり、美術館という従来資本主義から距離を取ってきたものの中でビジネスをするというのは、芸術の定義に対する一つの批判なのです。それは自分がやっている芸術を無意味にするカッコいい身振りであり、(無意味になった)芸術家がデザインしたバッグとして高い値段をつけ人々に美術館という矛盾した空間で購入させるということの無意味さを批判するエリート主義なのです。つまり考え抜かれた天才的なリレーショナルアートなのです。(芸術の専門家ではないので適当なことを言っています…)

そして重要なのは、このような何重にも入り組んだ価値を否定するパーフォーマンスによって、村上隆という芸術家は自らの価値を高めていくことです。資本主義を批判すればするほど経済的価値が高まるという従来からの弁証法がありますが(落札した瞬間に破壊されることでさらに価値が出るなど)、この村上隆の場合は資本主義の原理を肯定的に最大限パフォームすることによって芸術そして自分自身を否定し、返す刀で資本主義を馬鹿にする(つまり批判している人も批判している)というパーフォーマンスが、批判をしないからこそ最高度の批判となりえることによって、自身の価値を高めるわけです。単に儲けることを批判するのはすではもう時代遅れで、「またか」と思われるだけで批判にはなりえないでしょう。

価値がパーフォーマンスであるというのは、何かに価値があったのではなく、価値は実践を通して遂行的に(performativeに)作り上げられるということです。これは逆に言うと、単純に自分の価値を高めようとする凡庸な実践は価値を落とし、あるいは価値を測定しようとする行為自身が価値を裏切ることになります。そのような価値を議論すると、そうは言っても最終的には経済的な価値に置き換えて測定できないと意味がないという批判がよくあります(例えば企業にとっての実務上の含意がなくなってしまう)。しかし重要なのは、その置き換えをどのようにするのかという実践が決定的だということです。経済的な価値に置き換えるという実践は価値に内在的なので、例えば置き換えないような実践が置き換えを可能にしますし、置き換えようとすると置き換えできなくなります。それを全て踏まえた上で、あえて経済的価値に置き換えようとするパーフォーマンスによって、たとえば経済的価値を批判してみせることで遂行的に価値を高めるというような二重の実践であれば少しは意味はあるとは思いますが、そこまで考え抜かれていませんし、そんなリスクを取る準備もないだろうと思います。

このような議論は芸術にのみあてはまるという反論はあるかと思いますが、そもそも資本主義の現段階において、一度市場に流通したものは一瞬に陳腐になってしまい、価値は市場の外にしかない(しかし市場の外など存在しない)という現実を直視する必要があります。つまり、現在のあらゆるものの価値が問題となっているのです。もちろん、空腹を満たす、A地点からB地点に移動する、病気を治療するというような「なくては困る」ものの価値は残りますが、それ以上の価値は根拠を失っています。我々にとっては、価値とは何かという定義の実践が価値に内在的であるということは、避けて通れない問題なのです。私が「サービスとは闘いである」と主張し、一見おこっているように見える鮨屋の親方は、おこっているからこそ価値が生まれるという話しをしているのは、この遂行性のことです。

以上のことを理解できない企業は、価値を生み出すことに困難を抱えるでしょう。行政も、たとえば文化の価値が重要であるとようやく理解し始めて予算をつけようとしていますが、そもそも予算をつけるという行為自体が価値づけに内在的であることを理解しないと、余計に価値を毀損するだけになる可能性が高いです。しかしながら実際にはほとんど理解されていないのが現実です。それは我々学者がきちんと伝えるという価値づけのパーフォーマンスができていないという反省でもあります。この程度のブログを書いているのでは全然だめというわけです。

博士論文の基準

今年は3人の方が博士論文を提出する予定です。博士論文には最低限満たさなければならない基準があります。最後のひとふんばりを後押しするためにも、共有しておきたいと思います。

博士論文として成立するための最低条件は、(我々の領域の)ジャーナル論文で必ず必要になる「理論的貢献」があるということです。データが多少足りないとか、分析が少し甘いというのは、自分でわかっているなら直すことも難しくはありませんし、その方の次のキャリアでなんとでもなることだと思います。しかし「理論的貢献」を書けない場合は、その後のキャリアでかなり苦労するだろうと思いますので、それが最低限の基準となります。もちろんそれ以前にこれがないとそもそも博士論文としての体裁がないということです。

理論的な貢献は簡単に言えば、自分が貢献する対象である既存の理論の問題点を指摘し、それを乗り越える新しい視座を提供するということです。我々の領域(組織論)では、経験的分析が何か新しいことを発見したとか、説明するために変数を追加したとか、これまでの方法が達成していた精度を改良したということでは論文にならず、理論的な問題の解決が必要です。ここで重要なのは、既存理論の問題点というのが、その既存理論に内在的でなければならないということです。詳しくは
以前にこちらに書きました。

内在的ではない問題というのが大体2種類ぐらいあります。ひとつは、既存理論とは関係のない別の理論を横に持ってきて、既存理論に特定の視点が抜けていると指摘するものです。既存理論は自分が設定する範囲で問題なく成立しているときに、単に新しい視座を横に置いても意味がありません。もし新しい理論的視座を持ってきて外から問題を指摘するだけでいいなら、無数にあるものの中からどんな理論でも持ってきて無数の論文でも書けてしまいますが、それではジャーナルには通らないということです。そうではなく、既存理論が成立していない、失敗しているということを示さないといけません。

二つ目の問題は、既存理論が経験的な事例を説明できないとか、特定の事例しか説明していないというものです。問題はあくまで理論上の問題である必要がありますが、経験的な分析における問題は、理論の問題ではありません。もし何かを説明できないとしたら、それによって既存理論がどういう内在的な問題に直面しているのかを説明しなければなりません。既存理論が説明していないことは無数にありますので、それを指摘して論文が成立するのであれば、無数の論文が成立することになってしまいます。

内在的な問題というのは、外から何も持ち込まなくても、既存理論自体の中に存在している問題です。多くの場合は、既存理論が持ち込む前提(ほとんどの場合明確にされない)の中に問題の萌芽があり、その既存理論が主張していることと食い違っていたり、主張が中途半端で終らざるをえない状況であったり、問題を隠すために別の概念を持ってきて蓋をするようなことが起こっているということです。これは既存の論文には文章として書かれていませんので、自分で読み解いて示さなければなりません。論文を読むということは、書かれていないことを炙り出すということです。矛盾するようですが、そのためには別の理論的視座を持ち込むことが有効ですが、この視座はあくまでも既存理論の問題を炙り出し解決するために利用するものです。

その上でこれをするひとつのテンプレートは、既存理論に内在する二元論を批判し、それを克服する視座を提示するというものです。そういうテンプレートを利用した指導はよくないとも思いますが、後々にその方が成長する中でそのテンプレートを乗り越えていただくことを準備するという意味では、それでいいと思います。そのときの注意点としては、二元論は完全に解体してしまうと無理が出てしまい、それに対応するために別の二元論を引き寄せてしまいますので、安易に否定せず丁寧に議論を積み上げることです。

以上のことはジャーナル論文でも最低限必要なことだと思います。もちろんレビュアーもエディターも完全に一致した基準でレビューしているわけではありませんので、ふと通ってしまう論文もありますが、それは自分が基準を満たさないことの言い訳にはなりません。もちろん領域によって、また教員によって別の基準があると思いますが、教員は誰しも明確な基準を持って指導・評価していますので、学生さんはそれを理解することが必要だと思います(それほど違わないと思います)。

もちろん、教員の想定をはるかに越える博士論文が出てくる可能性はあります。基準とはそういう論文によって無意味になるときのためにあるものだと思います。

# 追記

誤解がありましたので補足します。実際に論文を書くときには、「既存理論は失敗している」とは書きません。他の人の研究を直接的に批判しても得るものがありませんので、できるだけポジティブに書きます。逆に、論文を読むときには、書かれていない本当に言いたいことを読み解かなければなりません。