Destructured
Yutaka Yamauchi

人間〈脱〉中心: ことしも「組織文化論」

これまで人間中心設計の理論的問題を指摘し「人間-脱-中心設計(human de-centered design)」を提唱してきました。人間を中心にすることを批判するなんてケシカランという反応が多かったのですが、これは何も唐突なものではなく、主体および人間を脱中心化しようとする学問のここ40年ぐらいの流れに乗っているだけの話しです。そのような内容をカバーするために、後期には「組織文化論」(経済学研究科)を開講します。文化を扱うにあたって、やはり主体の問題が中心となります。

最初は文化とは何かを議論します。基本的には、EliasやBourdieuを見ながら、文化とは自己呈示あるいは差異化=卓越化の過程であるという捉え方から始まります。しかしながら、Bourdieuの枠組み自体が現在と合わないということで、そもそもモダニズムとは何かの議論をします。そこから、個人が理性をもって考えて行動するという近代特有の考え方の源泉を見て、そこに主体概念のあやうさがあることを議論します。そこからポストコロニアルの議論まで一気に進めます。その後で、組織論に寄せてWeickのセンスメイキングを議論し、そこからナラティブ、テクスト、言説などに戻ります。そこから実践論を経て、マテリアリティに注目する理論へとつなげていきます。ということで、同じような議論を違う観点から3周ぐらいします。

さて、近年は社会科学全体的にマテリアリティ(物質性)を重視し、人間を脱中心化する議論が進んでいます。特に、主体と客体が分離する前の状態から議論を始めるもの(Baradなど)、そもそも人間に特権を与えるのではなく動物や非生物的なものにも行為主体性(agency)を与えようという議論(Latourなど)があります。しかしながら、主体を完全に回避した議論は、経験的な分析において結局、データ(客体=対象)を解釈している研究者(主体)が措定され、主客分離を温存してしまう危険性があります。そうではなく、主体が脱中心化されたこと自体が、その主体にとっての関心事であることを研究した方が建設的であると考えています。ここでエスノメソドロジーが有効な視座となります。私の論文のほとんどが、再帰性あるいは相互反映性(reflexivity)を中心に据えているのは、そのためです。

具体的には、アクターネットワーク理論に見られるように、非生物的なモノに行為主体性を与えるという議論があります。従来の行為主体性の考え方のもとで、モノも「意図」を持って行為しているというと、けったいな主張に見えます。二段階ほどの議論が必要です。まず意図を持って一方的に世界に働きかけるという主体を解体しようということですので、「意図」が脱中心化されます。しかしそうだとすると、単に意図のない形で他のアクターの行為に影響を与えるということ(たとえば意図せざる効果)が、行為主体性なのかというともちろんそうではありません。そもそもある特定のアクター(ヒトもモノも含む)が他のアクターに影響を与えているという考え方自体が否定されています。むしろ、何らかのアクターがあるのではなく、まずつながりがあるのであって、行為主体性はアクターにではなくそのつながりにあるのです。逆にいうと、人間だけではなく非生物的なモノに行為主体性を認めるというのは、ただそれだけのことです(だと思います)。

そうすると、もう少し積極的に人の行為を捉えることができると思います。行為はすでに様々なつながり(作動配列=アジャンスマン)に投げ込まれていますし、それによって意味をもち、また可能となっています。人が意図を持って行為をすること自体を否定する必要はなく、単にその意図もアジャンスマンであるということであり、行為をしている人はつながりから切り離されて理性だけで思考している存在ではなく、人の内部と外部の様々な異質なもの(物質的なモノ、言説など)の中でなんとか構成されているということです。この枠組みにおいて、人が行為をなすということは、既存の支配的なアジャンスマンを前に逃走しながらそれをゆさぶる、つまり「逃走線」を引くことでアジャンスマンを逃走させることになります(Deleuze)。これが脱中心化された上で、人がイノベーションを生み出す地点ではないでしょうか? 主体が解放されて意志をもって新しい社会を構築していくことが人間中心だとすると、これはとても現実的ではありません。

デザインとは社会の外部性を内部に節合することと主張してきましたが、このデザインの行為主体性とはそのようなものと考えています。デザイナーという主体を完全に排除する必要はありません。デザインに外部性が必要であることは、消極的にはそこにしか価値が残されていないからですが、積極的には社会に亀裂を入れゆさぶるということがデザインという言葉に込められた意味だろうということです。内部に節合するというのは、モダニズムの芸術のように社会の外に位置するエリート主義、つまり距離を取って自由に発想している天才的個人ではなく、社会の中に投げ込まれつつ、逃走しながら社会をゆさぶるということです。そうすると最近よく見られる、革新的な「アイデア」に還元してしまうようなデザインの考え方は、古臭い主客分離をより強固にしてしまうために、批判せざるを得ません。

昨年は「
組織文化論」を正式に履修してくれた経済学研究科の学生はひとりだけでした。今年は誰も履修しなければ開講できないかもしれません(部局、大学限らず、どなたでも大歓迎です)。自分の授業すらデザインできないことに絶望を感じるのですが、実はそれがデザインを考える原動力でもあります。

またまた子供を連れてカリフォルニア

恒例の夏のカリフォルニアです。子供の夏休みの間を最大限活用して丸1ヶ月滞在です。残すところ約10日となりました。

今年はとても考えさせられる年です。こちらに来る直前に学部で所属した石田亨先生の研究室25周年の合宿に参加しましたが、20年来の同級生や前後の先輩後輩の輝かしい成功を見て、自分の人生を振り返り自信喪失とこれらの自分のキャリアについて奮起した次第です。その前にUCLA時代の同級生(厳密には先輩)が訪問してくれました。そして今年の夏は子供を連れてUCLAの引退した恩師と、そこへ行く途中に住んでいる同級生(厳密には先輩)のところを訪問しました。みなさんお会いするのは12年ぶりぐらいです。またPARCでの最初の上司 Danny Bobrowとメンター Gitti Jordan、博論のコミッティーに入っていただいたChuck Goodwin先生などお会いする機会を得ず亡くなった方々もおられます。40代に入ると自分の過去を振り返るタイミングが来るようです。そこからどれだけ次の20年を前向きに進めるのかが問われているような気がします。


さて、米国にいる間、私は仕事をしなければならないので、子供はサマーキャンプに通っています。新しい場所で全然知らない人々の中に入っていくのはしんどいと思いますが、子供なりになんとか楽しもうとがんばってくれています。今ではどんなところに連れて行っても、すぐに抵抗なく入って行けるようになりました。自分ならできないだろうなと思うと本当に関心しますし、その分自分もそれ以上にがんばらなければとプレッシャーを受けています。子供二人を連れてのワンオペですが、子供たちが慣れてきたのでずいぶん助けられています。

サマーキャンプについて少し書いておきたいと思います。現地でも夏休みの間に子供を預けて仕事をするために、多くのサマーキャンプが用意されています。ベイエリアだけで400以上のキャンプがあります。ご興味があれば
こちらから検索できます。我々の場合は、2年離れた兄妹がいるので、両方を受け入れてくれるところに絞ります。だいたいSTEM教育、Art、クラフト、スポーツなどテーマがあるので、子供にあったものを選びます。今回は、クラフト、コーディング、ロボティックス、アートにしました。基本的に夏休みの自由研究はサマーキャンプで完成させることをミッションにしています... 昨年は木工で剣、今年はミシンでシャツを作りました。

サマーキャンプは
1週間(月-金)でワンセットになっているものが多いです。4週間半の滞在で、4つのキャンプを体験できます。基本的には9時から3時あるいは4時まで預かってくれます。extended careというのを購入すると、8時から5時ぐらいまでいけます。子供を送り届けた後すぐにすぐに戻って仕事をして、合間に買い物、洗濯、夕食の準備などをします。あっと言う間に、お迎えの時間となります。打ち合わせもランチをかねて短時間で済ませるように工夫しなければなりません。自分が倒れたり事故に合うと、子供が二人で取り残されてしまうという緊張感はありますが、そういう緊張感のある生活も楽しみの一つです。

おかげさまで仕事もできて、子供も成長するという充実した夏を過すことができます。我々研究者は海外に行かなければ色々な意味でキャリアが終ってしまいますが、ほとんどの方が共働きの現在の環境では家族に負担をかけますので、ある程度長期で行くのはなかなか難しい現実があります。だからといって諦めることもできないので、これまで子供を連れて米国、デンマーク、シンガポールなど色々な国に滞在しましたが、なんとでもなるということがわかりました。


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主客の弁証法: 京大変人講座から

金曜日の京大変人講座富田直秀先生の話しがとても面白かったのですが、ちょうどその前の週にエストニアのEGOSで発表したかなり似た内容だったので、自分の中でもはっとしました(EGOSではサービスにおける「まなざし」の研究を発表しました)。なんとなくわかったけど完全にはわからなかったという声を多く聞きましたので、私なりの説明をしたいと思います。もちろん私と富田先生が考えていることは同じではありませんが、理解するための参考にはなればと思います。ところで、今回の越前屋俵太さんはこれまでの中で一番キレがあったと思います。このようにはっきりと割り切れない議論のとき、俵太さんのポエティックな力が生きるように思います。

富田先生は、不安でナースコールを鳴らす患者さんは、看護師さんがその手をそっとにぎってあげることで安心されますが、手をにぎるということは、相手の手をにぎる行為であるだけではなく、相手の手ににぎられる関係にもなることを話されました。私の理解はこういうことです。自分が相手の手をにぎる主体(subject)でありながら、相手に自分の手をにぎられる客体(object)である存在となります。そして看護師さんに手をにぎってもらって安心するということは、必ずしも何かの調和の取れた安心の状態であるのではなく、相手にとって自分が客体化され、自分の世界が他有化(alienate)されるという緊張感のある関係性を含むと思います。手をにぎってもらうとき「ハッ」という衝撃があるのではないでしょうか? 手をにぎろうとする看護師さんも同様です(たとえ小さくても)。しかしこの他者(看護師さん)のやさしさを感じることで、緊張感を乗り越えて安心だと思われるようなものに到達する(ように感じる)のではないでしょうか? 逆に、この緊張感がないとき、安心を感じることはないように思います。

私自身の研究では、これをJ-P サルトルの主客の弁証法で説明しています。廊下から鍵穴を通して部屋を覗いている人は完全な主体の状態であると言えます。つまり自分がその世界を完全に構成し、その世界の中にひたすら浸っている状態です。そこに廊下から足音が聞こえたとしましょう。そのとき、その人は自分が見られてしまったという衝撃的な羞恥を感じます。自分が完全に浸っていた自分の世界がその足音の方に流れ出し、もはや自分の世界が他有化されます。廊下の先の「まなざし」によって、自分が客体にされてしまった体験です。人は他者によって客体化される中でなんとか自分をとり集めて主体を回復しようと苦悩します。この主体としての自分と客体としての自分の間には埋めることのできない溝があります。サルトルはそれが人間の苦悩を導くとともに、それこそが人間の自由を可能にするというような形で根源的に捉えます。

私の研究をよく知っている方は、これをサービス理論に適用することの含意に気付いていただけると思います。サービスは定義として価値共創ですので人間同士の関係を含みます。そのとき、むしろこの主客の溝において苦悩し自分を取り戻すということ、自分を証明するということがサービスにおいて重要とならないはずはありません。一方で、主体としての潜在的ニーズを満たされるということが、サービスにおいてそれほど根源的ではないということです(それが重要ではないという意味ではありません)。しかし今回はサービスの話しはおいておきましょう。

富田先生は、名詞ではなく動詞で捉えようということを強調されました。名詞ということは客体として捉えるということだと言われていたように解釈しました。特に、自分や他者を客体として捉えるということです。動詞であるとは、客体と主体の間の溝に直面し苦悩し、それからなんとか自分を取り集めようとする動き(それは必ず失敗する)だろうと思います。そして、現在の医療や科学が名詞に囚われ、客体の中で議論を閉じているという批判がありました。手をにぎることをマニュアル化して看護師さんが都度患者の手をにぎったとすると、患者の手はもはや客体でしかありませんし、患者さんにとっても看護師の手は客体でしかありません。そこには主客の間の緊張感がありませんし、安心することができなくなります。さらに言うと、医師は患者から自分を切り離し患者を客体(object=モノ)として捉え、患者も一方的に治療してもらう主体性のない客体になり、その中で第三者的・超越的な科学者が治療法を生み出すという構造です。科学者の努力は尊敬しますが、医療全体を見たときの問題です。

少し混乱があったのは、見られている自分を意識しすぎているという話しです。見られていることを意識して行為をすることは、同様に自身を客体として捉えているということであり、本来の自分を失うという話しでした(ハイデガー的主題でしょうか)。単に素直にやさしいということと、他者からやさしいと思われている自分であること(他者の目を気にして席を譲るなど)の違いは、後者には他者に動かされているのであり、主客の間で苦悩しなんとか自分を取り集める動きがないということでしょう。一見すると、前者のように素直にやさしくあるということは自然に調和の取れた単純な構造に見えます。私はそうは思いません。やさしいということは、やはり苦悩の中で自分をなんとか取り集める動きで初めて生れるのではないでしょうか。客体が問題とならない調和の取れたプライベートな領域、客体化される中で自分を証明する行為を取るパブリックな領域、そして客体化されたまま客体と関わりあうソーシャルな領域、この3つを分けて考えないといけないと思います。3つめでは「やさしさ」は達成できないのはあきらかです。1つめには自然な「やさしさ」があるように見えますが、そうではないように思います(それはむしろ家族の間の親しさでしょうか)。

富田先生が、名詞・客体として捉えることも必要であるということを最後に強調されました。これは、客体であるということが苦悩を生むのであれば、それを避ければいいというのでは本末転倒だということだろうと思います。人が主客の緊張感の間でなんとか自分を取り集めるという苦悩は、がんばって避けるものではなく、むしろそれを引き受けるということが重要であるということを示唆されているのだと思います。

このような理論は、ブルジョワ的な価値観を残しているというような批判がありえます。自らに課す厳しさ、微妙な違いがわかるという自負、社会をリードするという意識で大衆を馬鹿にしてしまう性向など、ブルジョワ的なカッコよさです。現在の組織論は、M. フーコーなど主体概念を避ける理論、B. ラトゥール、K. バラッドなど人間概念を避ける理論が流行っているのですが、その背景にはブルジョワ的な古臭い価値への嫌悪を感じます。私は確固として下に横たわったような主体という近代の幻想を解体することは率先してやってきましたが、だからと言って主体概念を完全に手放してしまうのではなく、むしろ主客の間の苦悩を捉える方が面白いのではないかと考えています。そしてサービスという極度に資本主義的で現代的な主題にそれを持ち込むことで、軽やかに(ブルジョワ的ではない形で)これを議論できるのではないかと思います。今はブルジョワ批判が逆にエリート主義になる時代です。しかしまだまだ先は長いです。

コンピュータと文化

先日、文化のデザインはITサービスとかコンピュータのハードウェアビジネスとは関係ないですねとコメントをいただきました。それで少し考えていたことがあります。私は高校生のときにXerox Palo Alto Research Center (PARC)に憧れてコンピュータサイエンスを目指して、そのあとでコンピュータサイエンスをあきらめて経営学に進んだ後にPARCに就職したという変な因縁があるのですが、そもそもなぜPARCに憧れたのかがなんとなく今になってわかる気がします。パーソナルコンピュータを作ったとか、イーサネットやウィンドウシステムを発明したとか、マウスを実用化したとか新しい技術に憧れたのではなく、その当時の文化に憧れたのです。ということをEntitled OpinionsでFred Turnerの話しを聞いていて理解しました。

PARCができたのが1970年です。60年代後半から70年代前半のカウンターカルチャー(ベトナム反戦運動、ヒッピーなど)の文化の真っ最中です。Steve JobsがWhole Earth Catalogueにハマったのは本人の話しでよく知られるようになりましたが、これがカウンターカルチャー(特にヒッピー)の象徴でもありました。しかしながら、コンピュータという人々を管理する技術だと捉えられていたものの産業の形成に、なぜカウンターカルチャーの人々が担ったのかは逆説的です。

それまでのコンピュータはメインフレームにしてもミニコンピュータにしても、大きな機械があってそれを分けあって使うというモデルでした。タイムシェアリングという概念が当初人々を魅了したのですが、それは中央の資源をみんなで時間を細かくわりあてて使いましょうという感じでした。そのような中央集権的なモデルは、当時のカウンターカルチャーが対抗していた権力にフィットしました。そこで若者はみんなコンピューティングを民主化することに熱狂したのだと思います。パーソナルコンピュータというのはコンピューティングを個人にもたらすという文化的な革命だったのです。私が学生のころに、神戸大学の金井先生が、クライアントサービスというのは面白い、末端の弱いコンピュータの方がクライアント(客)で、中央の強力なコンピュータがサーバーとして奉仕をするという逆転だとおっしゃっていたのを思い出しました。

この民主化の思想は、Whole Earth Catalogueのように、人々に自分で生きていくために自分のために使える「ツール」を用意するという思想とも共鳴したのだろうと思います。誰かに頼るとか、大きな組織の一部であるということを捨てて、自分で作るというハッカーの文化もそれに関連します。PARCの研究者はこの思想の流れで、分散コンピューティングを理念としてパーソナルコンピュータAltoを開発しました。一方でそれはあくまでもXeroxという(当時の)大きな会社の範囲で、リソースに恵まれた理想的なトップダウンの思想でもありました。だからパーソナルコンピュータひとつを取り出して考えることができず、イーサネットやレーザープリンタなどを含んだシステムとして捉えていました。Steve JobsがAltoのアイデアを盗んでLisaを開発し、Macへとつながっていくのは周知の通りですが、Jobsは弱い者の立場からコンピューティングを民主化することを目指したのだとすると、もともと目指していたものが違うのです。

もちろん矛盾があります。PARCの伝説的なリーダーであるBob Taylorは、PARCに移る前に国防省ARPAでプログラムマネジャーをしていたのですが、PARCの初期のメンバーはARPAの資金で動いていた全米のプロジェクトに関わっていた若者でした。当初のインターネットは分散(脱中心)を原理としていましたが、当然ながらARPAのお金でARPAの名前で開発されたものです。カウンターカルチャーを支えたのが、軍のお金であったのはよく言われることです。Steve Jobsにしても、経営のスタイルは強権的な独裁者に近く、その製品群は閉じられたものであり、極度な秘密主義のもとて開発されてきました。Jobsがカウンターカルチャーとは相容れない一つのエステティックを持っていたのは明らかで、全てを歴史に還元するのは危険であることは明らかです。

つまり、コンピュータの技術は当時の文化と関連しながら、力を得て発展してきたと言えます。この文化がなかったら、コンピュータの技術がどのような方向に開発されたのかは想像でしかありませんが、いずれにしても技術が歴史に埋め込まれているということ、時代の変化を捉えることが重要であることは間違いないだろうと思います。ちなみにこの文化的背景を考えると、現在のスマホなどの技術はとても便利で喜んで使っていますが、技術としてはキレイに閉じられてしまって閉塞感を感じざるを得ません。民主化という理想は、実際に実現されてしまうとその力を失います。次のデザインの突破口はそういうところかもしれません。

矛盾を遂行するのがデザイン

デザインを「社会の限界点としての外部性を内部に節合すること」と定義して、その意味を議論しています(ブログはこれこれ、本はこちら)。(資本主義)社会の外部性とは、資本主義の論理を裏切るロジックを作り上げる動きです。例えば、芸術、工芸、伝統、ホスピタリティなどです。さらには社会を外部から批判するエリート主義です。デザインはこれを内部に節合して社会の中で価値に仕立て上げなければなりませんが(端的には市場で売ることです)、同時に外部性を保持もしなければなりません。つまり、かなり矛盾した動きです。以前にも増して現在のデザイナーは矛盾したものを両立させなければなりません。

どういうことでしょうか? 例えば、最近注目を集める「フーディ(foodie)」の言説を見てみましょう。一昔前はグルメとか美食家と言われた人々がいましたが、最近はそのような人は批判の対象でしかありません。彼らの「スノッブ(snobbery)」はごく限られたエリートの中で成立したエステティックですが、現在は誰かをスノッブだと言うのは最大の侮辱となりました。そこでグルメとか美食家を否定して生まれてきたのが、フーディです。彼らはエリート的な食べ物(ヨーロッパ的)だけではなく、ペルーのサビチェとか中東のハムスなどどんなものにでもこだわる(omnivore)という意味で、民主的な価値を体現したコスモポリタンなのです。ちなみにアメリカのフーディにとってはSushiはもはやメインストリームなので、陳腐なものでしかありません。

さて、このフーディのコスモポリタン的価値は、エリート主義を否定して出てきたものであるにも関わらず、それ自体がエリート主義だというのが現在の状況です。つまり、自分はエリート主義を批判することができ、民主的で異文化を好むことができるんだ、スゴいんだという屈折したエリート主義です。よい食とよくない食を区別し、ステータスに志向した政治でもあります。このフーディの言説は政治的な批判精神を再帰的に内包していて、帝国主義的な搾取、絶滅が危惧される種、非倫理的な労働環境、ローカルな文化を破壊してしまうようなグローバリズムに対しては批判精神を持つという意味で先進的なものではあります。しかしコスモポリタン的な政治的枠組みに無視されてきた人々の目からすると、自分たちが喜んで食べているものを勝手に批判してくる単なるエリート主義なのです。

「フーディ」というカテゴリを生み出してきたプレーヤーたちは、民主主義とエリート主義という相反するものを両立させる言説を作り上げる天才的なデザイナーです。
以前スターバックスがなぜ成功したのかについて説明しましたが、イタリア語を利用してなんとなくエリート的な価値を匂わせ、横でテロワールを明記したコーヒー豆を売るこだわりを見せつつ、ミルクをふんだんに入れてコーヒーの味をわからなくした大衆的なラテを売り出すのは、エリート的なエステティックと大衆的なエステティックという相反するものを両立させた天才的なデザインなのです。さらに言うと、これまでサービスは客を否定する闘争である必要があり、人間中心設計ではなく、人間〈脱〉中心設計である必要があるというのは何度も説いてきたことですが、ここでも同時に人間中心的に一貫してわかりやすくするデザインと両立させなければならないのです。サービスデザインは、わかりにくくすることと、わかりやすくすることを同時に行わなければなりません。

さて、フーディの話しに戻りましょう。このコスモポリタン的な価値は、オバマ前大統領の価値です。そして、従来のエリート主義を批判しているこの新しいエリート主義にうんざりした人々が、トランプ大統領の価値に共鳴しています。次の10年間で、この両方を乗り越える新しい価値を生み出したデザイナーや起業家が成功するのは間違いありません。しかしこのときかなり屈折した形で矛盾したものを同時に作り込まなければならないでしょう。ちょうど今、学部ゼミで、2、3回生の若い学生にこれをミッションとして与えています。

参考: フーディに関しては、たとえばこういう本が参考になります。
Johnston, J., & Baumann, S. (2018). Foodies: Democracy and Distinction in the Gourmet Foodscape. New York: Taylor and Francis.

求められている人材と大学改革

今は大学の人文社会系は役に立たないので縮小するべきという風潮ですが、むしろ人文社会系こそが現在の社会を革新する最先端であって、残された数少ない価値の源泉の一つです。それを縮小してしまったとして、どういう革新を期待しているのでしょうか。もちろん大学はこの人文社会系の知識を最大限活用して人材育成ができていません。改善していく余地はかなり大きいと思います。

今、日本の企業で求められている人材は、論理的に整理できたり、データを分析できたり、創造的なアイデアを思いつく方々(だけ)ではなく、時代の微妙な変化を読み解きながら、新しい概念を形作って社会に展開できる人だと思います。これが「
文化のデザイン」として研究テーマとしていることです。今に始まったことではありませんが、イノベーティブな事業は、利用者の潜在ニーズを満たすことからは生まれず、単に創造的で面白いアイデアだけからも生まれず、時代の先端で新しい社会を現前させることで生まれます。そこで時代の変化を読み解く力が必要ですが、そのためには世界の言説、人々の不安、エステティック、ヘゲモニー(権力関係)、サブカルチャーなどを総合的に結びつける物語を語らなければなりません。

例えば、企業で戦略に携わる方々が、なぜトランプ大統領が当選したのかなどについて、たとえ一面的でも自分なりのストーリーを語れなければ、おそらくその戦略は時代を捉えていません。企業の研究者が一つの技術に取り組んでいても、たとえばインスタがなぜ今流行るのかを考え抜いていなければ、その仕事は狭い技術的な専門性を越えることはありません。デザイナーも、ユーザリサーチをしてインサイトを導けてよく見えるものを制作できたとしても、アイデアだけの勝負はツラいものがあります。そのアイデアがどういう社会に埋め込まれているのかを捉えることで、デザインに力強さが生まれると思います。もちろん、社会の変化を強調するとき、歴史というものが何か理性を持ったお化けのようなものであると捉えるという意味ではありません。むしろ全体性を持った社会という幻想に対して、どこに亀裂を入れていくのかという問題です。


今、大学が創出しないといけない人材は、こういう時代の変化を読み解ける方々でではないでしょうか。起業の方法論を知っているとか、デザイン思考を身に付けているとかではありません。社会の変化を読み解き、新しい社会のあり方を追求するという、人文社会系の学問がやっていることをやらなければなりません。以前の技術自体に神秘性があった時代や、ニーズが満たされきっていない成長の余地のある時代では、そこまで考えなくても自分が専門とする領域でいい仕事をしていればよかったと思います。しかしながら、現在の状況ではそれでは食っていけません。一方で現在はその反動として創造的なアイデア勝負の風潮がありますが、これは近代主義を乗り越えるどころかそれに囚われた考え方であって、社会を変える力にはなりません(以前のブログ)。もちろん技術が重要ではないと言っているのではなく、技術とは根本的に時代に埋め込まれたものであるということです。

しかし現時点では、大学で社会学を学んでも、現代思想を学んでも、まして
MBAを取得しても、そういう能力を養うことは難しいでしょう。それが最も求められているはずのMBAでは、残念ながらそもそも学生さんがそういうことを学ぼうという意図がないので空回りしているのが実情です。大学がもう一度自分の存在意義を遂行・呈示しないといけないと思います。一方で、企業側もそういう人材の使い方を知らないと思います。そんなこと言う前にちゃんと目の前の仕事をしろと言われる雰囲気があるように思います。他方、時代の変化を読み解ろうとする方は、居酒屋での世間話の水準ではなく、そういう世間話でよく言われていることを理路整然と否定して、エビデンスを持って緻密に語ることができなければなりません。

今年から
2回生、3回生のゼミを持つことになりましたので、学生を鍛えようとしています。例えば、スタバはなぜ成功したのかを議論することから始めました。サードプレイスを作ったからというのは、当時そういうカフェが他にいくらでもあったことから、説明になっていません。ファッショナブルな空間を作ったからというのも同様です。これを理解するには、時代の変化を理解しなければなりません。戦後生まれの米国の若者が自らの存在を証明する手段を物質的な成功ではなく文化的エリートの価値に求めたのですが、同時に文化を囲い込むエリート主義やスノッブを否定し文化が民主化していくという矛盾した動きが重なったのがスタバなのです。スタバはオーセンティックなイタリアの文化に忠実であるのではなく、単に「イタリア語」を使うことで、文化を二重に読み解き軽く滑らせたのです(Douglas Holtを参照)。スタバに限らず、世の中を変えたヒット商品は全て時代の変化を読み解き、新しい社会を現前させたものです。

こういう説明が後付けであるという批判はあると思いますが、目指しているのは理論により将来を予測することではなく、時代の変化に敏感に反応する能力を培うことです。通常は何も考えずにすっと流れていきます。ペットボトルの水のパッケージを見てその意味を解き明かしたり、大学生がポールスミスの財布を持つというのがどういう意味があるのかを真剣に議論することで、この時代の変化を敏感に感じ取るスキルを鍛えています。これをするにあたって、社会学などの理論が役に立ちます。例えば、まずブルデューとその批判から始めていますが、それでかなりのことが説明つきます。その後、ジェイムソン、ハバーマス、フーコー、ボルタンスキー&シャペロ、レクヴィッツなどをカバーしていきたいと思います。理論をツールとして利用するだけも価値がありますが、やはりその理論自体がどういう時代背景で生じたのかを理解することで、社会の変化を読み解く深度が変わります。

大学で育成する人材に実務的な知識を与えよというプレッシャーが強く感じられますが、重要なのはその実務的な知識がどういう時代に埋め込まれていて、どう変化しているのかを掴めることが重要なのです。我々学者は自分の研究を通して時代を捉えようとしているので、その成果はこのような実務の教育に結びつくはずです。そういうことを考えずに、それぞれの分野の細かい部分だけを研究していたのでは、確かに馬鹿にされるだけです。そのなかで無理矢理、実務に役に立つ個別の事例を主張しても意味がありません。学者は直接的に企業と共同研究しなければならないとか、企業の利益に貢献する研究をしなければならないと結論する必要はありません。むしろ、企業が見ているものに批判的に向き合い、違う世界の可能性を提示することこそがその仕事です。

そうすると大学で育成する人材が企業がそのまま取りたい人材であるはずはありません。企業が求める人材を否定することができる人材を育てなければならなりません。昨今の大学改革は大学教育のこの基本的なことすら理解していないと思います。もう一度大学で勉強された方がいいのではないでしょうか。一方、大学はこのような人材を育成できるのかを問われていますが、個別の教員が努力しているだけで、大学らしくない反論しかできていません。

他者を迎え入れること: ホスピタリティ

授業(Intercultural Communication)でホスピタリティを議論しました。ホスピタリティは新しいMOOCでも1週間分を使って議論しています。ホスピタリティ(おもてなし)は現代社会に場所がないこと、そしてだからこそ今その価値が重要となっていることを、以前のブログで書きました。それとは別に何となく伝えたかったことがあります。

ホスピタリティが現在社会に場所がないということは、世界的に多くの国が内向きになって、民族主義のようなものに傾倒していく動きから見てもわかります。ホスピタリティが世界永久平和の条件だとすると、我々はそれから遠ざかっているように見えます。

デリダが言うように、法は我々の社会を切り詰めていくことによって、我々が保有する「家」を侵犯するのですが、自分が自信を持って保有している家がなければ、おそろしい「他者」を迎え入れることなどできなくなります。だから個人が内向きになり、社会が内向きになり、結果的に他者(異邦人)を嫌悪し排斥することになります。デリダの言葉を引用することに意味があるかもしれません。

「我が家」が侵犯されるところでは、いずれにせよ侵犯が侵犯として受け取られるところではどこでも、私有化を求める反動、あるいは家族主義的な反動さえも予想されます。さらに範囲が広がって、反動は民族中心的か国家主義的なものとなり、潜在的には外国人嫌悪となるわけです。(デリダ『歓待について』p. 82)



我々の家を侵犯するのは、もちろん異邦人ではありません。資本主義社会のシステムです。だから異邦人を排除することは何の得にもなりません。

現在の高度資本主義社会では、限られた世界の中だけとは言え、人々が平等に勝負ができる素晴しい環境が構築されました。その中で人々は自らネットワークを構築し、プロジェクトを成功させ、他の人々の尊敬を勝ち取るということを通して、自らを証明し続けることを求められています。もともとの出自や国籍は意味をなさず外国人が成功する一方で、それまで自分の家(国)だと思っていたものが脅かされることになります。つまり、我々は人々が平等に勝負ができるという理想の世界を手にしたとき、その世界は以前に増して偏狭なものでしかないという弁証法に直面するのです。

逆から言うと、ホスピタリティとは他者を無心に迎え入れることですが、それは自分の家を絶対的に保有するという権力を行使することと同時的なのです。家を保有する権力というのは、他者を排除することであり、その上で他者を迎え入れるということは自らの力を示すことです。だから、人々に対して他者を迎え入れようと押し付けても、あるいは保守的な人々を単に偏狭だと非難しても、ホスピタリティは実現されません。ついでに言えば、「家」というものは、伝統的には女性を、そしてその他の人(奴隷)を虐げる場として存在してきました。

だからホスピタリティという概念は自己矛盾を抱えており、その理想が実現されることはありえません。それならどうすればいいのか? まず、他者を心から迎え入れるというようなキレイな言葉だけで捉えるような単純なホスピタリティ概念は、無意味であるだけではなく有害です。自らの暴力に気付いていないというようなナイーブさ、あるいは人々になぜそのようなものもわからないのかと詰め寄るエリート主義は、現実から二周ほど遅れています。一方、ホスピタリティには意味がないと割り切って保守的な価値に突き進んでも、結果的に自らを苦しめるだけです。

そうではなく、我々はホスピタリティ概念を遂行的に達成しようと動かないといけないのです。遂行的にというのは、ホスピタリティを達成する行為自体の中で、ホスピタリティとは何かを問うという再帰性を実践しなければならないということです。ホスピタリティの意味は誰からも与えられませんし、ホスピタリティを実践する中で、自らのホスピタリティ概念を呈示しつつ、それを乗り越えていくわけです。しかし、そういうことをエリート的にではなく、軽々しくやってしまうのが現代的です。

今年から経営管理大学院のサービス価値創造プログラムは、「サービス & ホスピタリティプログラム」と名称を変更しました。同時に私がプログラム長を引き受ける事態となってしまいました。個人的には「ホスピタリティ」を前面に押し出すことに、以上のような意味を込めています。京大でホスピタリティを学ぶというセンスのなさは否定できないとしても、その意味が少しわかっていただければと思います。