真実と笑い

トランプ大統領に関連して、真実(truth)とは何かについて議論が盛り上っています。今回久しぶりにアメリカに行って少し考えましたので、書いておきたいと思います。

まずトランプ大統領の語ることが真実ではないということは明白なのですが、それに対してメインストリームメディアが真実の報道にコミットしているように逆転した構図になっています。メインストリームメディアが真実にコミットしてきたことはなく、今後もそれは期待できません。もちろん個別には真実であることはありますが、逆に言うと個別判断でしかありません。トランプ大統領はCNNなどのメインストリームメディアを「フェイクニュース」だと批判しますが、これはある意味で正しい批判です。

トランプ大統領の言っていることが真実ではないのは、何か現実があってそれと照合していないということではなく、真実ではないと議論されている内容がいつの間にか真実になっているカラクリがあるからです。逆に、真実をひとつひとつ裏付けを取って示すことができるカラクリがあることが、真実を作り上げます。しかしながら、このカラクリはカラクリである以上完璧には動かないので、真実というのは常に留保付きでしかありません。その意味では何が真実かをそれのみで判断することは不可能です。しかしこれがメインストリームメディアが真実ではないことの根拠ではありません。メインストリームメディアは社会から外に出て判断する特権を持たず、社会の中で利害関係を持ちますので、これはこれで信用できないカラクリがあるわけです。

本当に言いたいのはここからです。現在最も信頼できるメディアは、実は
Stephen Colbertなどに代表されるコメディであったりします。この逆説の意味を考えたいと思います。現在はもはや何が真実で何が真実でないのかがわからない状態、何が現実で何がイメージなのかがわからない状態にあります。その中で真実を伝えることは不可能です。もはや全てがマトリックスのようなシミュラークラとなってしまっています。そしてみんなが自分は正しいと主張するこのような世界で、真剣に自分の方が真実だと主張することは空回りして逆効果です。

コメディが真実味を帯びるのは、笑いを通して現実と見えるものをズラし亀裂を入れるからです。メインストリームメディアは本当のことを伝えると問題が起きるために、笑いを通してしか本当のことを言えません。一方で、コメディは人々に何が笑うべきで何を笑うべきではないのかの判断を迫ります。笑うべきでないところで笑うと、他の人から笑われます。ここで受け取る側にきちんと判断をしなければならないという緊張感を生み出します。逆に、真実を語っていると見せ掛けているメディアを受動的に受け取るだけでは、このような緊張感が排除されます。つまり笑いが、その人がどういう人かが問題となる緊張感のある闘争の関係を生み出します。

重要なのは、真実は自分自身だけでは維持できず、冗談に依存しているということです。そしてこの冗談は真実が排除してきたものです。つまり、自らがイカガワしいとして排除してきたものに依存しなければならないわけです。そしてこれは真実が自身を真実であると演じる(perform)ことの必然的な帰結です。トランプ大統領はこの社会的な水準での脱構築をうまく演じています(本人の意図とは異なりますが)。真実をきちんと伝えることにこだわらなければなりませんが、エリート主義的に真実らしく真実を主張することは時代遅れとも言えます。

— 追記 —

ちなみに、先日
越前屋俵太さんの過去の映像を見ました。フランスのクレッソン首相が「日本人は黄色い蟻」と言ったときに、越前屋俵太さんが蟻の着ぐるみを着てパリの人々に「日本人のどこが蟻なのでしょうか?」とインタビューし、そのまま首相官邸にアポなしで突入しようとしました。その一部始終が現地のニュースにも取り上げられました。「日本人のどこが蟻なのでしょうか?」という質問が当然Ouiという答えを織り込んでおり、しかもそれをセンスよく裏返しにパフォームしているということで、フランス人が得意な趣味(goût)の勝負で勝っている抗議であって、単に正面から抗議する単純なジェスチャーよりもはるかに洗練されていると言えます。言葉で抗議をすることと、言葉では何も言わずパフォーマンス自体が抗議となっていること(パフォーマティブな抗議)の差異において、笑いはとても巧妙な戦略となります。