Destructured
Yutaka Yamauchi

デザインに哲学は必要か?

古賀徹先生から、『デザインに哲学は必要か』(武蔵野美術大学出版局)をご恵贈いただきました。ここで展開されるデザインは、人間-脱-中心設計というような標題で私の考えていることに重なるので、とても刺激を受けました。私自身、デザインがもはやデザイナーのすることには限定できない昨今の状況で、デザインをどう捉えるのかという問題に頭を悩ましてきました。古賀先生のお人柄をあらわすような流れるような文章を、私なりになんとか理解しようとしたぐちゃぐちゃの痕跡を書きとめたいと思います。

古賀先生は、デザイナーが人々が豊な生活を営めるように技術を洗練させていくものというデザインを「デザイン2.0」と呼ばれます。うまく考え抜かれて、わかりやすく、痒いところに手の届くようなデザイン。これは人間中心設計と呼ばれるものでしょう。

デザインによってすべての問題が解決された世界においては、人間もまた、その潜在的機能を充分に発揮しながら〈何ごとも起こらない〉ままにスムースに死に至るである。(p. 39)



これがデザイン2.0です。それに対して、「デザイン3.0」とは次のようなものです。

デザインは技術を洗練させるとともに、その技術を要求する人間に対し、「本当にそれでよいのか」と同時に問いかける技術でなくてはならない。このような、〈問いを発するデザイン〉のあり方を「デザイン3.0」と定義することができる。(p. 41)



デザイン3.0とは、単に人間を豊かにするためにうまく機能するシステムではありません。まずシステムは閉じられないため、考え抜いて作ったとしても期待通りにうまく機能することはありません。必ず、システムは危険にさらされます。本来人間を豊かにするはずだったシステムは、多くの矛盾をもたらすでしょう。そこで重要となるのがデザイン3.0ということになります。そこではむしろシステムは閉じられず、自らが問いを発することになります。しかし、「技術」が「人間」に向かって問いを発するとはどういうことでしょうか?

システムに包摂されて「機能」し続ける人間が、そのシステムには収まりきれず、その内部から発するのが、「これでいいのか」「これが人間か」「人間とは何か」といった一連の問いである。(pp. 40-41)



ここでは、「人間」がシステムの内部から問いを発することになっています。問いを発するのは技術・システムか、あるいは人間かどちらでしょうか?

デザインのこの次元においては、技術は自然や人間を制御すると同時に、その制御しようとする人間自身を、その主体としてのあり方から自由にする。(p. 42)



人間は自分を「主体」から自由にすると説明されます。「主体」は閉じられた内面において理性を用い、世界を対象化し表象することで事物を固定化していきます。神が死んだ後、今度は主体が超越的な中心を担うことになり、主体は自分自身を表象すると共に、世界を表象し「機械的な客体」として固定化することで安心感を得ます。世界から超越的な立場に立ち、世界を表象しデザインしていくデザイン2.0は、この主体によりなされます。デザイン3.0では、人間はこの主体から自由になるということになります。

例えば、次のように考えられないでしょうか? 人間は皮膚によって内面と外部に分けられる閉じられたものではなく、内部と外部がフラットに接続したものであり、この接続する動きであるということように。人間は自らに外部性を抱え、なんとか自分を取りまとめるような存在です。そこには要素を統一するような超越的中心はなく、かろうじてひとつのまとまりを形成するようなものでしょう。そうすると、問いを発する人間は、自らの内面から問うているのではなく、様々な要素とつながった配置として問うているのであり、つまり問うているのは、人間であり世界であるということになるでしょう。我々はもはや主客を分離できないのです。

さて「問い」とはどのようなものでしょうか?

意味の変動という危険に曝される結果、システムの論理に回収できない差異や要素を、システム自体がその内部から「問い」というかたちで生み出してしまうことになる。(p. 40)



問いとは、人間によって言語で表現されたものではないことは明らかです。問いとは、システムが自身の内部に生み出してしまう異質な差異や要素ということになります。システムが自身を危険にさらす要素を自身の中に生み出すのです。これは、システムを危険にさらすため、緊張感があり危機感のある「問い」として現われます。しかし誰に対して? それはシステム自身にであり、その一部である人間に対してであり、他の要素との関係性に対してであるということになるでしょう。人間がこのような問いに直面するとき、「これが人間か」「人間とは何か」という問いとして現われるでしょう。しかし問い自体はもっと根本的なものでしょう。

しかし自分を危険にさらす要素である「問い」はなぜ生まれるのか? システムが開かれており、その亀裂から不確定な要素が侵入するというだけではないだろうと思います。システムは「客体の側」の「機械的」な実体ではなく、また何らかの中心原理によって統一されたものでもなく、それぞれの要素が大きな配置の中で動的に動いている、もともと「有機的」で動的なものだろうと思います。たとえば、京都大学というシステムは社会に埋め込まれているだけではなく、そのような内と外の境界を措定する前に、様々な要素がうごめいており、それはランダムに動いているというよりは何らかの配置に規定されつつ、その動きによって配置を規定しているようなものだろうと思います。問いは「内部から」生み出されます。

そして、問いに対してデザインが生み出されます。しかし、デザインするということはどういうことでしょうか? ひとりのデザイナーが頭の中に構想を持って、何かを客体としての形にしていくというようなものではないでしょう。特定の行為を導くために、人々に問いかける「しかけ」を作るようなデザインではないでしょう。これらはデザイン2.0と言えます。

即興演奏がそうであるように、考えながら同時に何かを生み出していく技術のあり方をオートグラフィックという。だとすれば「デザイン3.0」はまさしくオートグラフィックな技術に相当する。というのはもその技術においては、何かを考案する思考そのものが、その考案する思考それ自体を同時に疑い、そこから離脱して新たなものを生み出していくという連続的過程のうちにあるからである。(p. 42)



デザイン3.0は考えながら生み出すことであるとされます。この「考える」のは主体としてのひとりの人間ではなく、考えるということは要素を接続するということでしょう。さらには、この考案する思考が自分自身を疑い離脱します。デザインするということは、まさにつながりとしての世界および自分に、新しい要素をさらに接続していく「実験」と同義だろうと思います。新しい要素がつなげられると、それぞれの要素が変容し、全体が変容します。そこから新しい意味が生まれ、問いに対する答えのようなものが生まれていくでしょう。その答えは人間の頭の中にあるのではなく、新しく変容した世界として現れてくることになるでしょう。

機械的に客体の側で進行する推論とは異なり、有機的な推論は、問題に直面する探索者(私)が、世界と自己の〈あいだ〉で繰り広げるものである。要素概念を接続(推論)し、環境を構成する諸要素に統一的な意味を与える鍵は、まさしくそこに位置する私によってのみ見出される。(p. 46)



このデザインとしての、要素の接続は人間が理性を用いて一方的にすることではありません。要素は外からつなげることもできません。すでにあるつながりを部分的に解体し、新しい要素を意味を翻訳しながら、全体の配置に合わせていくことになります。新しい要素を接続したとしても、次の瞬間にそれが離脱することもあるでしょう。ひとりの人の行為がそれをなしているように見えても、実際に動いているのは配置全体と言えると思います。「私」によって統一的な意味を与える企図は失敗を運命づけられているでしょう。だからその思考は「繰り広げ」されなければならないのです。

もちろん個人が考え創造的に発想することを否定する必要はありません。内側と外側が区別されないなら、内面的な行為に見えるものも、すぐに外につながっています。考えることも、発想することも、個人が内面でやっていることではなく、世界で新しい要素をつなげているという実験として捉えなければなりません。このようなデザインはデザイナーが実行するものであると設定する理由はありません、またこれをしている人が自分でデザインしていると認識している必要もありません。一方で、人々の創造的な行為がないということではありません。創造性は世界の外から押し付けられるのではなく、内部から生じるはずです。

デザインとは、問題を解決する、つまり状況をフィックスするものではなく、むしろ固定してしまった状況に対して、個別的提案を通じて世界を新たに解釈し、新しい動きの可能性を切り開くたえざる実験であることがわかる。(p. 47)



固定化した世界を解体し、逃走させるのがデザイン3.0ということになります。これは世界を閉じてしまうデザイン2.0とは対照的です。つまり、デザインすることは、新しい要素を接続していく実験として、固定化したシステムを攪乱し、逃走させ、またそこに絡み取られた人も変容し、デザインするという実験自体を切り崩すものです。これはかなりリスキーな行為になるでしょう。

そうするしかたで私はこれまでの私を越えて世界と結びつき、新しい私にそのつど生まれ変わる。他方で世界はそのうちに私が侵入することによって変容し、終わりなき運動を始めるだろう。そういう運動する状況のうちで、環境の諸要素も、また人間を構成する諸要素も、その潜在する能力を何がしか開化させてゆくのである。(p. 46)



「私」が「私」ではなくなります。新しい私に生成変化します。それにより世界も生成変化します。仮に人間が意図を持ってデザインしようとしているとしても、その人間はデザインされる世界に絡み取られているため、自分自身の変容は避けられません。デザイナーは距離を取ってパズルを組み合せるかのように、デザインすることはできません。「機械的に客体の側」をデザインするのではなく、私が「新しい私に生まれ変わる」のです。デザイナーが何かをデザインするのは、自分自身がデザインし直されるというリスキーな行為です。だから、デザインとは「いわば絶望的な営為なのである」(p. 47)ということになります。

以上のように理解するとき、デザインの意味が根本的に変わると思います。企業においてイノベーションを起こせと言ってしくみを作ること、大学を改革せよと言ってグローバルなスタンダードを押し付けようとすること、研究をする前にその革新性を説明せよということ、これでは本当に革新を起こすデザインとは言えません。子どもに将来何になりたいのかと聞くことと同じぐらい無意味であり、むしろ有害です。我々に必要なのは、固定化することではなく、問いを発するために攪乱することなのです。「しくみ」を作ること、「手順」を決めること、「フォーマット」を作ること... ほぼ成果を出させないために作っているようなものです。重要なのは人が新しく生れ変わることであって、決められた形に人を押し込めることではありません。むしろ個人に問いをつきつけるような危険な状態を作り出すことの方が重要です。

しかし、我々はここで固定化と流動化の二元論に閉じこもったのでは、デザインを見誤るでしょう。固定化することがだめだから、固い人工物(しくみとか手順とか)を作ってはいけないということではありません。そんな単純な思考では、固定化することと流動化することは相互に前提をなしているような関係ですので、必然的に固定化を招き寄せます。固定的な形がないと、何も起こらない可能性が高いです。逆に形があることで、動的な動きを生み出す余地ができます。むしろ人工物を作ることで流動化させるデザインが必要なのです。デザイン3.0は独立しているのではなく、デザイン2.0やデザイン1.0と絡み合って存在するわけです。

工業化のデザイン、システム化のデザイン、そして問いを発するデザイン、これらは時代のうちで次々と乗り越えられていくようなものではなく、いずれも19世紀のうちにほぼ同時的に成立したものである。現代の社会においてもそれぞれの層は、ともに促進し合ったり、ときには拮抗・対立したりしながら、デザインの今日の姿をかたちづくっている。(p. 43)



デザイン1.0、2.0、3.0は同時的とされます。モノのデザインから、経験のデザイン、サービスのデザイン、コミュニティのデザインなどと時間を追って発展してきたかのような説明がありふれていますが、上記3つのデザインが同時的というのは驚くべきことです。原理的には固定化する動きは同時に流動化する動きを生み出しますので、実際にはデザイン1.0もデザイン2.0も単独では存在しないものです。そうすると、デザイナーという主体がデザインすることも意味がないわけではありません。しかしデザイナーは(というか誰であっても)、自分がしていることを完全に理解できているわけではありません。デザイナーの誤謬もデザインにとっては内在的です。例えば、固定化するようなデザイン2.0を極端な形で遂行する行為は、ひとつのパロディ効果を持ち、必然的に問いをつきつけ、新しい意味を生み出していくデザイン3.0となっていくでしょう。デザイナーをその頭の中だけではなく、そのつながりとして捉えると、実はデザイナーが理解していること(つまり影響を受け変容され変容していること)は多いと思います。

という具合で、古賀先生の書かれたものから問いをつきつけられ、デザインに関する思考をぐちゃぐちゃにされてしまいました。だからデザインには哲学が必要なのです。