Destructured
Yutaka Yamauchi

September 2017

文化のデザインについて

ようやく『組織・コミュニティデザイン』(共立出版)の第3稿の修正を終えました。10月20日ごろに配本予定です。日本語で本を書いている場合かと怒られそうですが(我々大学教員は「英語」で「論文」を書かないといけないのです)、これはこれでやらないといけない仕事なのです。京都大学デザイン学教科書シリーズの2つめで、他に様々なデザイン学の教科書が出ます。一緒に授業をやっている杉万俊夫先生(コミュニティデザイン担当)、平本毅先生(組織デザイン担当)との共著です。ここでは私の担当部分に限定して紹介したいと思います(つまり以下の内容に問題があっても他の共著者の方々に責任はありません)。

先日のデザインについての議論で、(文化の)デザインとは、社会の限界点としての外部性を内部に節合する(articulate)ことであると書きました。これを背景から具体的に噛み砕いて説明したいと思います。出発点としては、鮨屋のようなサービスを研究する中で、どのように鮨屋のサービスがデザインされうるのかという問いでした。当然ながら客の潜在的ニーズを満たす、顧客に満足度や感動を与えるという説明では不十分ですし、むしろ説明できないことの方が多くなってしまいます。さらにもっと身近な例を挙げると、マクドナルドが一つの現代社会のシンボルとなるようにデザインされたこと、その次にはスターバックスが同様に成功したことも、既存の枠組みでは十分には説明できません。そこで「文化」のデザインを打ち出す必要が出てくるわけです。「文化」というような言葉を使うと余計に混乱するかもしれませんが、それ以外に(理論的に)いい言葉が見つからなかったのです。

とりあえず私が行き着いた答えは、これらのデザインは社会的条件に投げ込まれた主体の不安が起点になっているということです。文化のデザインとは、この不安に対して何らかの代補を構築していく取り組みです。もちろん不安というのは、ある個人の特定の状況での心理学的なものではなく、社会的条件に埋め込まれた実践に根差した社会学的なものです。

例えば、マクドナルドは文化のアンチテーゼのように捉えられることが多いですが、その成功は効率性、予測可能性、機械化ではなく、近代性の象徴を作り上げたという意味で文化のデザインにあります。戦後の米国の文脈で、伝統的な社会にうんざりしつつ、それと同一化していることにやるせない自分(不安)を感じていたところで、しがらみから解放された姿としての新しい近代的社会を表象しました。この近代社会はキラキラした憧れと共に、外部性としてコワい存在でもありました。このような体験には自分の否定を伴うため愛憎まじった倒錯したものとなりますが、これがマクドナルドに対する憧れと同時に、それへの嫌悪感を伴うことにつながります。もちろん今では大人がマクドナルドにドキドキして行くことはありませんが、だからこそ子供をターゲットにしているのです。

スターバックスは、バークレーのA. Peetのコーヒーショップやそれをシアトルで模倣した初期のスターバックスのようなエリート主義的でスノッブなコーヒー体験を、H. Schulzがうまく大衆化したものです。これは70年代の戦後世代が、物質的な充足が当たり前となったときに、自らを証明する手段がなく不安にさらされ、結果として文化的な洗練さに向かった動きに同期したのです(Douglas Holtの”Cultural Strategy”を参照)。これらの人々は文化的な洗練さに憧れても、それと同一化できないのですが、それを疑似体験できるようにしたのです。つまりコーヒーの味なんてどうでもいいようにミルクをふんだんに入れたラテなどです。一応正当性を残すために、形だけ様々なテロワールの豆の販売は続けました。スターバックスはカッコいいとかということではなく、自分を証明する手段がなくなったときの不安に対する答えとして大きな意味があるわけです。

これらのデザインは、潜在ニーズを満たすとか、顧客の問題を解決するとか、満足度を高めるという水準とは全く別のところで、人々を魅了します。また人々の不安が起点となるため、その代補としての文化はシンボル性を獲得していきます。マクドナルドのサービスの善し悪しや、スターバックスのコーヒーの味や雰囲気を評価するのは的外れです。これらがシンボルとなるのは、人々の不安を隠し補う形でフェティッシュとして固着するからと言うと、多少の示唆があると思います。人々の不安は解消されることはなく、あくまでも不安に対する代補を構築され、なんとかごまかしていくことになります。

重要なのは、これらのデザインを実践していくための理論的な基盤がないということです。むしろそういうデザインを阻害するような理論が議論されています。
京都大学のデザインスクールも数年経ち一つの区切りをつけることが視野に入ってきましたが、この研究とその成果であるこの教科書は強い使命のもとに作り上げてきたものです。世界の他のどのデザインスクールでも議論されていないような独自の内容です。簡単に理解されるものではありませんし、いつものようにキワモノだとしてすんなり評価されるようなものではありませんが、何とか貢献できれば考えています。

あまり知られていないPARCのイノベーション

8月4週間カリフォルニアに行ってきました。古巣のXerox PARCについてあまり知られていないのですが、現在の企業の研究開発にとってとても参考になる事例について共有したいと思います。以前にも書いたことがありますが、この厳しい時代だからこそイノベーションを狙って新しいアイデアに賭けるのではなく、長期的視野からケーパビリティを育てていくことが必要だと思います。

Xerox PARCは1970年に設立されて以降、パーソナルコンピュータAlto、イーサネット、マウス(発明ではなく実用化)、オブジェクト指向、ウィンドウシステム、WYSIWYGワードプロセッサなどを発明したことで知られています。余談ですが私は高校生のときにこれらのイノベーションに憧れて、大学ではコンピュータサイエンスを選んだ経緯があります。一方であまり知られていないのですが、当初よりa-Si(アモルファスシリコン: きれいに結晶になっていないシリコン)の研究がさかんでした。これは大規模なエレクトロニクスのためには結晶シリコンでは限界があるというがモチベーションとなっていました。そのころa-SiでTFTを作るということが実証され始めた時代で、Xeroxのようなイメージングの会社としては当然の投資先です。John Knightsが研究を始め、徐々に蓄積してa-Siの研究でセンターオブエクセレンスになり、その後様々な発明を生み出します。例えば、ディスプレイを想定していたのですが、それが逆方向にセンサーとして利用できるというBob Streetの発明によって、大規模なセンサーでイメージングをする必要のある(光学的にフォーカスできない)X線センサーの実用化に目処をつけます。dpiXという会社としてスピンアウトし、Xeroxの他、Siemens、Philipps、Thomsonの投資を受けて事業化し、今でもヨーロッパのX線機器のほとんどに組込まれています。少し前までPARCの向いに製造ラインがありました(今はコロラドです)。

a-Siは大規模な半導体デバイスを作ることに先進性がありました。そこで大きくなるとリソグラフではパターニングできないだろうということで、パターニングのために印刷技術を使うというのはXeroxとしては自然な選択でした。もちろん印刷によるパターニングは解像度では及ばないことと、ステッパーという技術が生み出されたことにより下火になっていきますが、同時にプリンティッドエレクトロニクス(有機材料を印刷することで作るエレクトロニクス)の領域を切り開きます。大規模なプリンタを日本の企業から調達し研究を重ねていくのですが、それが例えばDARPAプロジェクトで生まれたセンサーテープのようなイノベーションにつながります。研究としては同じテーマを継続しながら、徐々に領域を広げつつシフトしてきたわけです。当初より焦点であった太陽光パネルも今でも研究が続いているものの一つです。

このように消費者にはわかりにくい地味な領域ですが、大きな成果を出してきました。そしてこれらの研究を40年以上継続して続けるということが、現在の研究機関としてのPARCの強みとなっています。他には、PARCがレーザーダイオードで先駆的であることもあまり知られていません。レーザープリンタを発明したことはよく知られていますが、その関連でレーザーダイオードの研究も進んでいました。PARCからスピンアウトした
Spectra Diode Labs (SDL)はその後Xeroxの時価総額を追い抜くほどの企業となりました。Xeroxにはものすごい経済的リターンをもたらしたはずです(Xeroxがエクイティを手放すのが早すぎた点には触れません)。今でも半導体レーザーの研究は進んでいますし、それから発展して光学デバイスでは先駆的です(最近では画期的なフローサイトメータとかHyperspectralイメージセンサーなど)。その他には、Model-based Computingという領域では90年代からXeroxの製品開発に貢献しつつ、現在でも多くの企業が技術を求め投資をしています。どれも30年以上継続して蓄積してきた分野です。

このように過去から丁寧に研究を蓄積してきた結果があるため、現在においては様々な技術を生み出す原動力となっています。研究開発やイノベーションの世界は新しいものが全てであり、長期的な継続はあまり議論されませんが、実際にはそういう長期的な視点が成果を生み出す最先端といことだと思います。よく聞く話しですが、新しいアイデアに投資しても3年ぐらいで失敗だとわかるのですが、そこでそれまでの3年間を全てなかったものにして新しいアイデアに移っていき、10年もすると何も残っていない状態だというのも珍しくありません。

もちろん長期的であるということは、同じことを同じように繰返すという意味ではありません。同じことをやり続けて気付いたらその領域が時代遅れとなっていて慌てて新しい領域を探すということではなく、世界をリードして先に手を打つことが必要です。リターンを出すために常にアプリケーションを求め続け、それにより研究の方向性を柔軟に修正していく必要があります。徐々に技術的なノウハウを広げていくことで、継続性を保ちながら結果的にかなり新しい領域に進んでいきます。その過程でメンバーもかなり入れ替わりますが、それがネットワークの拡大としてリターンを生みます。長期的に研究を継続するためには、このように変化に機敏に対応することが必要なのです。逆に変化に対応していくには、長期的に蓄積してきたノウハウ、知見、ネットワークが必要です。アイデアだけの勝負では、まず成功することはないでしょうし、他の人々もすぐに同じことをするようになります。

もちろんこれは企業の研究開発に限った話しであって、スタートアップなどの世界は別のロジックがあります。