November 2016

サバティカルのすすめ

明日帰国します。コペンハーゲンビジネススクール(CBS)での4ヶ月、実りの多いサバティカルでした。当初の目標は全て達成しましたが、そもそも期待をはるかに越える経験でした。日本では相談できる人もなかなかいないような研究をしているのですが、同じような興味を持って同じような志向で研究している多くの人とつながったことで、自分の研究の将来性がかなり変わりました。サバティカルという制度がなぜあるのかよくわかりました。その経験が参考になればと思いました。

まずサバティカルでの滞在先は安易に決めてはいけません。自分の知り合いがいるからということで決めてしまってはもったいないです。知り合いについてはすでにわかっていることも多いので、せっかく知見とネットワークを広げるのであれば、知らないところに行くべきでしょう。これは相手にとっても新しいネットワークを構築できるメリットがあるということです。ただしその上で、他の部局には知っている方々がいたり、知り合いの先生から別の部局の方を紹介いただいたりということが、知見を広げる助けになりました。

滞在先の決め方ですが、単に一人の著名な研究者がいるというだけではもったいないように思います。むしろ組織としてまとまってやっているところがいいでしょう。格段にネットワークが広がります。私の場合は似たような研究の志向をしている人がクリティカルマスを形成するぐらいの部局でしたので、これ以上ないというぐらいの最適な場所でした。

単に客として終わらないためには、先方にとってのメリットがある形である必要があります。まずは自分の研究で相手に刺激を与えるということが最重要で、その次に共同で論文を書けることが重要ですが、それ以外にもあると思います。例えば、日本との連携が研究費を取得するために重要であるかもしれません。

また、特に私のような中堅研究者の場合は、タイミングが大事です。ある程度業績がある段階だと、扱いが格段に違います。客ではなく同僚として扱ってくれますし、それによって構築できるネットワークの質も規模も異なってきます。つまり早すぎるのも難しいかなと思います。タイミングを選べないことも多いですが。若い人は機会があるならこのようなことを気にせず、ドンドン出ていって経験するのがいいと思います。

それから家族の生活です。私は失敗しました。最初は子供2人連れてくる予定が、安全のためということで1人だけとなり、それが問題でその1人の子供も帰国することになりました。結果的に家族にかなりの負担をかけました。最近は共働きが多いと思いますので、このような問題が重なります。子供にとってもかけがえのない経験ですが、学校は常に頭痛の種ですね。このような事情からあまり長期は難しいのですが、短期でも学校が受入れにくいので、3、4ヶ月が落とし所でしょうか。

あと個別にCBSがお薦めです。ヨーロッパ的な研究のスタイルを守ろうとし、それに成功している稀有な組織です(部局を選ぶ必要があります)。また、北欧の文化としてグループで集まり議論するという規範があることで、日々とても多様な議論に参加できました。最後に、CBSのような巨大な組織では、常にどこかの誰かが著名な研究者を世界中から招聘し講演会を設定しますので、それを周るだけでも刺激になります。その他にも、滞在するハウジングが整っていること、コペンハーゲンが住みやすい町であること、素晴しいレストランが多いことなど色々な理由があります。

とは言うものの、これは私が考えて経験したことですので、他のスタイルもあるかと思います。CBSでたまたまお会いした東京の大学の先生は、あるテーマに絞ってヨーロッパ中の複数の拠点を転々と滞在されていました。あまり真似のできないことです。

さて、帰国して1月からシンガポールです。それも楽しみです。

リベラルなデンマーク社会

帰国するにあたって、多くの方からデンマークで学んだことを発表する機会を作って欲しいと言われることがあります。実は自分の研究に没頭していたので、デンマークだからどうということはあまり考えていませんでした。そこで少しだけ考えてみました。

デンマークの社会がとてもリベラルで夢のような国だなと思って住んでいました。夏にこちらに来てからずっと、なぜデンマークという国はこんなにリベラルでいることができるのかを考えてきたのですが、帰国する時期になってもその答えが出ていません。

何がどうリベラルかというと、例えば子供の応対です。同僚の家に食事に招待されたのですが、土曜日夜10時ぐらいに13歳の女の子が一人で出掛けてくると言って出て行きます。どこに行ったのかと聞くと、友達と宿題をするというのです。当然宿題をしていないだろうということはわかっています。10時に13歳の女の子が一人で出歩くことは日本ではありえないですし、米国なら検挙されます。基本的には子供は信用する、失敗するなら早い方がいい、できるだけ早く自立できるように育てるという意識が強いです。18歳になると親は子供に対する権利を失います。親も、家を出て彼氏・彼女と一緒に住んだらどうと言うらしいです(多少政府から援助が出ます)。親も子供に老後を診てもらうということはありえない話しです。

教育に関しては模範的というぐらいリベラルです。親の収入に関係なく全ての子供が同じ機会を与えられるべきだという思想が徹底されています(完璧ではないことは当然ですが)。つまり生活に必要なお金を政府からもらって勉強することができます。当然ながらソーシャルモビリティは高くなります(上昇するモチベーションがあまり働かないため効果が薄まりますが)。一方で町を歩いていると個人商店のようなもの(散髪屋、肉屋、魚屋、パン屋など)が圧倒的に少ないですが、親の職業を子供が継ぐという観念がないからでしょう。学校では基本的に他の子と比べることを徹底的に禁止するとのことです。

女性も対等です。共働きでなければ変な目で見られると言います。ドイツでは妊娠すると辞職するようにプレッシャーがかかるが、ここではありえないと住んでいるドイツ人が言っていました。ただしそれでも完璧ではなく、今でもモメているという事実は重要です。同時に離婚率は高いです。家にお邪魔したところのほとんどは、離婚した上で別のパートナーと一緒に生活されており、両方の子供が一緒に生活しています(日によってどちらの親のところに行くのが分けているそうです)。

外国人にも違和感があまりありません。デンマークに来てすぐに感動するのは、人々が純粋に気持ち良く丁寧に応対してくれることです。私も若いときからフランス、米国とそれなりに長い間住んできましたが、外国人に対して距離感を感じさせない国民は初めてです(もちろん人によりますので、相対的にということです)。基本的に<他者>を信用しています(上平先生のブログ)

私は最もリベラルと言ってもいいようなサンフランシスコにもしばらく住んでいました。しかし彼らはがんばってリベラルです。色々なプレッシャーに対して文句を言いながら、反発してリベラルをしているわけです。ところがデンマークは社会全体がリベラルに成立しているのです。

なぜこのような社会が成立するのかまだわかりません。プロテスタント倫理や合理性も関係しているでしょうし、Hygge(Jeppeのトーク)と呼ばれるような暖いつながりに代表されるような、集団的な価値の重視はあります。空間的にも時間的にも余裕があること、格差が少ないこと、国が小さいことなども絡み合っています。また資産があることを隠し、富を見せびらかさない、労働者階級を尊敬する規範というのもあります。すべて重層決定されているところがあるのでもはやよくわかりません。

興味深いことに今のデンマークは保守的になったとみんなが言います。親の世代はもっとリベラルだったとのことです。68年の意義申立とそれに応じた社会の変容がどの程度あったのかは興味があるところです。ただ他の国も同様の変化を経験したはずです。デンマークでは特に女性が積極的に権利を主張したというのは聞きました。同時に現在社会が保守的になりつつあるというのも興味深いです。グローバル化の流れはあると思いますが、昨今の格差の拡大とどう関係しているのかはわかりません。またコペンハーゲンしか知らないので、田舎に行くとどうなのかは興味があります。

このような社会が存在することは、私にとっては奇跡です。もちろんそんな単純ではないことも理解する必要があります。最近では移民の問題があり、保守的な政策が取られます(スウェーデンとは対照的です)。社会がかなり均一なので、少ないマイノリティの方には住みにくいということもあると思います。ナイーブであるのか、人種差別的な行動が気軽に悪意なく取られることもあります(例えば、あるパーティで黒人に仮装した人々がいたと聞きました)。ダウン症に対する対応もドライです。そうだとしても、全体的には不思議な国です。

ということで結果的によくわからない説明ですが、社会について考えるための重要な例としては学びがあったと思います。


サービスは闘争か、顧客満足度か?

この3ヶ月ほど、サービスが闘争であるということについてヨーロッパ各所で議論を重ねているのですが、かなり反応はいいです(米国とは違いますね)。ただやはりどういうときに闘争になり、どういうときに従来の満足度重視のサービスになるのかについて理論的な説明が必要であるという議論は避けることができません。こういう議論をするときの、私の説明をここにも紹介しておきたいと思います。これはどの場合に人間<脱>中心設計が、あるいはどの場合に人間中心設計がふさわしいのかの議論でもあります。

サービスが闘争になるのは、サービスが価値共創(value co-creation)であるとき、つまり相互主観性(inter-subjectivity)の領域でサービスが問題になるときです。客も提供者もそれ以外の人も一緒になって価値を共に創るので、そのときのサービスは相互に了解し合うという形で相互主観的に達成されています。主観性の領域ではありません。主観性とは、少し乱暴に言うと、主体が客体から分離された上で、客体を眺め、その価値を主観的に見極めるというものと考えられます(乱暴というのは、たとえば現象学の主観性ではその分離を棚に上げ知覚、行為、存在に着目するからです)。

もし「客」という主体が、「サービス」という客体の価値を判断しているとすると、実はその価値は客も一緒に共創しているので、客も客体の中に絡み込まれ、客の「価値」も問題となります。つまり客がどういう人なのかが問題となります。だからレストランで革新的な料理を食べて、「美味しい」というような表現をすると、そのような月並なことしか言えない洗練されていない人ということになります。つまり相互主観性の領域ではその人自身が絡み合っているので、主体と客体を分離できないわけです。だからその人の価値も問題となり、緊張感が生まれ、自分を証明しようとする闘争となります。

しかしながら、主体と客体が分離される一瞬というのはサービスにおいて何度も見られます。つまり客が目の前に握られた鮨を食べて本当に美味しいと思ったとすると、それは主観性の領域での価値です。この価値は共創されていないので、主体が鮨という客体に対して評価を下すことができるわけです。サービスにおいて難しいのは、共創される価値と、客体自体の価値(鮨の美味しさ)が共存するということです。病院のサービスがわかりやすいでしょう。病気を直すというのは客体としての価値であり、共創された価値ではありません。患者が病気という客体としての問題を解決する(してもらう)という価値です。

しかしすぐに考えればわかるのですが、価値共創が起こっている以上、このような主客分離は本来は存在しません。上記で「一瞬」と書いたのはそういう意味です。つまりその一瞬は主客が分離したように見えますが、次の瞬間にはその人がどういう人なのかが問題となる相互主観性の領域に置かれていることに気付きます。客が美味しいと思ったとしてそこでは終らず、すぐに美味しいと思った客のレベルが問題となります。患者が病気にどういう関係性を持つのかが問題となります。

ただそれが一瞬であるからと言って、意味がないとは言えません。なぜなら実際に食べた鮨を美味しいと思うこともサービスにおいては重要であり、病気が直ることがとても重要だからです。つまりサービスにおいては共創されない客体自体の価値というのが無視できない部分を占めるのです。もちろんこの価値は単独では存在しません。この価値にすぐに人々が絡み取られ、人々自身の価値と分離できないからです。しかしそれでも非共創的な客体自体の価値は無視できないのです。ちなみに価値共創を重視するSD Logicでは、価値が受益者にとってユニークに現象学的に決められるとなっているので、上記の二つの価値を混乱した上で、共創ではない方の価値を中心に議論しているという誤ちを犯しているわけです。

私がサービスデザインは人間<脱>中心設計でなければならないという時には、価値共創であるならばそうならざるを得ないということです(実際にサービスはそのように定義されているはずです)。サービスが高級であるとか大衆的であるとかは関係なくそうです。しかし実際にサービスをデザインするときには、たとえ一瞬であっても非共創的な価値も重要です。鮨を美味しくしなければなりませんし、病気を直すために効率的効果的にサービスを構成しなけれなりません。病院のデザインをするときに、鮨屋のように患者さんにわかりにくくしたり、患者さんを圧倒したりすることが一義的に正しいわけがありません。しかしこれは病気を直すという客体に関する非共創的な価値が重要であるからです。このときには客体をよりよくしていく人間中心設計が必要となります。サービスにおいては常に共創される価値と客体自体の非共創的価値が混在しますので、人間<脱>中心設計と人間中心設計の両方が必要となります。この二つの設計はNormanの言葉を借りれば「正反対」ですので、サービスデザインはかなり矛盾したことをしなければならないということです。

もう少しで帰国します。その前に少しだけまたフランスに行って議論してきます。

ビジネススクールの今後

ビジネススクールは今後20年間の間に4分の1ぐらいになるだろうというのが、イギリスの感覚です。多くのビジネススクールはMBAの授業料で運営していますが、MBAを取る人は年々少なくなっています。現在はそれを留学生(多くは中国の方々)によって埋め合わせているのが現状です。日本の大学はそもそもMBAの授業料では生計を立ててはいませんので状況は若干異なりますが、MBAの数は減っていく傾向は止めることができないでしょう。

一般的なMBAがそれほど役に立たないという意見は昔からあるのですが、私もそれに同感です。人々がMBAに求める知識なり経験というのは、もはや簡単に手に入る状態です。本屋で何冊か買って読んだり、企業の研修で多くのことが学べます。20年ぐらい前でしたら、米国ではMBAを取ると給料が5割ぐらい増えるという感覚でしたが、今ではどうでしょうか? 今後もMBAを取ろうとする方々の数は減っていくでしょう。

すでに経営のためのエリートを養成するという概念は古臭くなっています。最近では考える前に実行するというようなことが重要だとされています。デザイン思考のようなものを取り入れるのも一つのやり方ですが、すでに社会に十分普及してしまっていますので、無意味でしょう。大学に来て経営の基礎や応用を学ぶというのは、そもそもありえない話しですが、それがありえたのは近代という特殊な時代のためであって、経営学それ自体の力ではないのです。

そこで各ビジネススクールは専門性を持たせるような戦略を取ります。私が所属する京大のグループではサービスに特化したプログラムを6年前から始め、今年度からホスピタリティやツーリズムに拡大しています。これは社会からの要請が大きな領域ですし、戦略的には興味深いところです。これは今後かなり盛り上がると思います。原先生、若林直樹先生のリーダーシップのおかげです。

それと同時にMBAの教育自体がある程度変化していかなければならないと思います。私の個人的な感覚ですが、実践に近づくよりも、学術的な研究に近づいていかなければならないように多います。英国もデンマークも多くがそれを志向しています。経営学の最先端の知識は経営の実践にそれなりに役に立つのですが、それだけで2年間MBAに通うコストを正当化できるものではありません。大学が提供できて他にはできないものというと、学術的な研究しかありません。つまり様々な現象の前提にある微妙な差異を捉え、それを説得力のある形でうまく表現していくという力です。

ということで京都大学の経営管理大学院では、今年からMBAを減らして博士課程を作りました(上記は私が勝手に言っているだけで、必ずしもその理由ではありません)。いずれにしても地方の交通の便もよくない大学にわざわざ来られるわけですから、他と同じようなMBAでは意味がないと思います。