Destructured
Yutaka Yamauchi

May 2019

コンビニという安らぎの空間

学部の学生と一緒にコンビニについて考えています。コンビニは学生に身近なトピックであり、現在進行形で社会問題にもなっているテーマですので、扱うにはちょうどいいかと思いました。学生との議論を先日週刊ポストの取材(なんでやねん)で話して盛り上がりましたので、すこし書いてみました。

コンビニは、いつでも欲しいものが簡単に手に入る便利なものとして発展してきたというのが一応の常識です。しかしコンビニは便利で効率的なものというだけではなく、現代の社会において「文化」を形成しています。学生の話しを聞くと、コンビニで知り合いに会うと気まずい。複数人のグループで行くのは違和感がある。夜バイトの帰りに疲れたときに、フラっとコンビニに寄りたくなる。考えることなくぼーっとしていられる空間。店員から声をかけられることもないし、自分の個人的な空間。大きすぎず安心できる空間。というように捉えているようです。そういう意味では、コンビニは便利であるという以上の何かです。都会でない場所で育った学生さんは、夕食後に家族でコンビニに行って、それぞれが自分の好きなスイーツなどを買ったり雑誌を見たりするらしいです。

コンビニは、まず個人的なものです。スーパーでは他の人(家族など)のために買い物をしますが、コンビニでは自分のためにだけに買い物をします。スーパーでは将来を見越して買い物をしますが、コンビニでは「今」の自分のためだけに買い物をします。直接的に個人的なものを買うので、知り会いに会うと個人的なものを見られた気になって気まずくなります。コンビニは欲望をそそるものが剥き出しで(多品種個包装で)置かれているので、コンパクトに消費文化を体験できます。各社が消費者を刺激するために新しい商品を作って並べますので、何も能動的に考えることなくそこにいるだけで刺激を受けることができます。店員さんは声をかけないので、自己表現するプレッシャーもなく、他人の空間でありながら安心して自分でいられます。スーパーは大きすぎてどこに何があるのか把握できず安心できませんが、コンビニは大きくないので、安心してボーっとできるわけです。

そう考えると、コンビニは現代社会の人々の安らぎの場となっています。大きな物語が信じられなくなった今、個人が丸裸で何の約束もない世界で生きなければなりません。がんばっていても報われる保障などないニヒリズムに直面し、個人は勝負し続けることを強いられています。そこで人々の不安が高まっているのですが、コンビニはひとつの安らぎの空間を提供していると言えます。資本主義が個人を社会的関係性から引きはがし、対等にがんばれば成功できる素晴しい社会を用意しつつ、人々の不安を極限まで高めることで、資本主義の完成形とも言えるコンビニでその不安を回収し、そこからさらに利益を絞り取る、よくできたデザインと言えるかもしれません。

人手不足で高齢のオーナーが夜中に働かざるをえないことや大量の食品廃棄が問題となって、何やら急にバッシングの対象となってしまっています。元々オーナーは野心を持った起業家で、客は便利さを享受する王様だったようですが、今ではオーナーも客もそこでなんとか自分を保っている被害者に見えます。安らぎの場としてのコンビニ自体は批判はされませんが、自分が資本主義に回収されていることに対する違和感はあるように思います。攻撃の対象は、あたかも自分は関係ないかのようにエリート的にふるまっているように見える本部ということでしょうか。この本部は、すべてを見通して我々をこのコンビニという小さな空間に切り詰めている超越した存在に見えるのかもしれません。

コンビニを詳しく研究しているわけではないので、ずいぶん適当なことを言っていますが、少なくとも一般に考えられている以上の面白い存在であることは確実でしょう。「文化」とは最もかけ離れたように見えるコンビニも、やはり無視できない文化を形成していると言えます。コンビニをデザインし直すことは危急の課題ですが、この文化の視座はおそらく抜け落ちるでしょう。むしろ文化の視座からデザインし直すとどうなるのか、それを学生さんと考えたいと思います。