Destructured
Yutaka Yamauchi

March 2019

論文の構造

ようやく新年度です。なんとか全員の博士論文の目処がつきました。すでに学位を取られた方々、おめでとうございます。論文の書き方については何度か書きましたが、こういうことを学ばずに博士号を取って修了してしまう学生さんが多いという現実に責任を感じています。下記は私の個人的な説明ですし、他の教員は違った説明をすると思います。どの教員も考えを持って指導しているので、それぞれの説明を聞いて自分なりに参考にするのがいいかと思います。ちなみに自分がきちんとできているという意味ではありません。

組織論という我々の領域では、論文の根幹は理論的な貢献です。何か新しいことがわかったというだけでは、論文が成立しません。次の4つのステップからなります。


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1. まず研究領域(ドメイン)の既存理論の「問題」を指摘しなければなりません。既存理論(勝手にドメイン理論と呼びます)の問題を指摘するということは、既存理論が何かを見過しているとか、何かの現象を説明できないとかいうことでは不十分で、既存理論が「破綻している」ことを示さなければなりません。多くの場合、不要な前提を引きずったために、もともと目指したものを実現できないというような筋書になります。既存理論では議論されていないことを丹念に指摘しても、議論していないことは無数にありますので、それ自体は理論的貢献にはなりません。そうではなく、もし既存理論が何かを語っていないとすると、それは何らかの問題を隠すためであり、それを隠さなければならなかったのは、自己矛盾が発覚するからだということを示さなければなりません。ただし既存理論が「問題」だと直接的に主張すると、査読者にとって印象がよくありませんし、無意味に敵を作るだけなので、ポジティブに書かなければなりません。

2. この問題の
「原因」を記述しなければなりません。たとえば、近代的な主体概念を温存していることが「原因」であり、それによりイノベーションを個人の能力に回収してしまい結果的にイノベーションが理論の外に置かれてしまっている「問題」や、逆に主体を不用意に解体しすぎたことが「原因」で、秩序を説明するのに研究者という超越的な主体を持ち込んでしまっている「問題」というような感じになります。単に「主体概念を温存している」というのは「問題」ではなく「原因」なので、それだけでは「問題」を指摘したことにはなりません。つまり外からよくある批判を持ってきてあてはめているだけです(それがOKなら何でも好きなものを持ってきて批判できてしまいます)。一方で問題を指摘するだけで原因がないと、次の新しい視座との接続が難しくなります。

3. その原因を取り除き、既存理論の問題を乗り越える
「視座」を提案します。経営学では、社会学、哲学などのリファレンスディシプリンから、ツールとしての理論を借りてくることが多いです。ツールとして利用する理論(勝手にツール理論と呼びます)は「問題」を抱えている理論(ドメイン理論)とは別のものです。つまり論文には2つの全く異なる役割を持った既存理論が必要です。貢献する対象はあくまでもドメイン理論であり、ツール理論に対して問題を指摘したり、それに貢献をしようとするとエラーとなります。私がよく使うツール理論は、例えばエスノメソドロジーのリフレクシヴィティ(相互反映性)、言語論的転回にもとづくパフォーマティヴィティ(行為遂行性)、主体を脱中心化するアジャンスマン(agencement)などです。これらのツール理論自体が何らかの既存理論の問題の原因(たとえば「主体」概念や「主客分離」)を解決しようとして生まれてきたものですので、その原因がドメイン理論の問題の原因と重なります。

4. その視座を用いて既存理論の問題が乗り越えることで、新しい
「理論」を提案しなければなりません。ツール理論を更新するのではなく、研究領域に戻ってドメイン理論を更新します。問題が解決されたというだけではなく、それが解決されたとするとどういう新しい理論を提案できるのかを示さなければなりません。たとえば既存理論が注力するディベートを再考します。そもそも上記の「問題」は、既存理論がやろうとしたにもかかわらずできなかったことですので、既存理論がやろうとしたことが可能となる理論をポジティブに提案する必要があります。逆説的ですが、新しい理論を書くためには、実は既存理論が本当にしようとしたことを理解するだけではなく、なぜそれをしようとしたのかを問い、既存理論のさらに前の理論(既存理論が批判している理論)まで戻る必要があります。

この1から4を順番に書いていけば論文ができます(実際には4つ全てを同時に考えます)。以上の4点のどれかが欠けても論文としては不十分ですし、読むとどれが欠けているのかはすぐにわかります。一方で、上記以外にスペースを使っているとすると、時間を無駄にしていると考えられます。よくあるのは、既存理論との「差異」をしきりに書くことでスペースを無駄遣いすることです。できるだけ多くの差異を見つけて書こうとしているなら、そもそも論文に決定的な欠陥があります。差異は無数にありますので、ひとつの差異に注目するなら、なぜそのような差異があるのかを問わなければなりません(そうすれば問題、原因などがわかってきます)。

実際にはレビュアーやエディターのめぐりあわせに依存しますので、こういう理論的貢献が明確でない論文も多いです(しかし「理論的貢献が明確でない」は決まり文句になっている思いますが)。いずれにしても、この要件を理解することで論文は格段に書きやすくなりますし、論文としての質が上がります。自分の指導する博士課程の学生さんには、これをきちんとできるようになっていただくことを条件にしています。

これが理論的貢献の1つの書き方ですが、その上で経験的な分析が位置付けられます。経験的分析の水準で貢献しようとすると書くのが難しくなります。例えば、こういう事象を発見したという主張では、「だから何?」と言われてしまいます。まずは上記の要件を満たしていることが前提で、それに基づいて分析を書いていきます。驚くような「発見」がないと論文が面白くないという誤解があり、発見をみんな必死で探し求めて時間を無駄にしますが、そういう発見は必要ありません。


デザインとは--須永剛司先生との議論を通して

須永剛司先生が東京藝術大学を退任されることにあわせて、特任教授としてご尽力いただいてきた京都大学デザインスクールでも特別講義をしていただきました。

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須永先生の結論は、「つくるプロセスがわかること、それがデザインだ」というものでした。デザインとは単につくることではなく、つくることがわかること、そしてそれがわかることによって、つくるもの(こと)が変容することである、というように理解をしました。須永先生は、デザインとはプロのデザイナーによる特権的な営為ではなく、市民が自分たちの生活をつくるということにまで広がっているというお話しをされました。デザイナーは市民がつくるプロセスをわかるようにすること、それを通して市民が新しい「つくる」段階に進むことを支援するということなのだろうと理解しました。この新しい段階の「つくる」は、それまでの「つくる」とは異なり、「デザイン」と呼ばれるべきものとなるというような話しかと思います。

この考え方は私にはとても腑に落ちるところがあります(と同時に受入れがたいところもあります)。デザインするという行為が、デザインとは何かという言説を含むということは、この時代の要請だと思います。以前は「デザイン」というと「こういうものだ」という理解をする暗黙の拠り所が存在していましたが、そのような拠り所の信憑性がなくなった時代です。

これはデザインに限ったことではありません。例えば、「大学」というと以前は「こういうものだ」という理解が得られていたと思います。特に説明を要しなかったのです。学問が社会の中で何か特権を持っているように考えられていましたし、大学教員はある種社会の外側に位置付けられ変人として片付けられてというところがあると思います。しかし、今はこのような拠り所に信憑性がなくなり、社会の中で特別な位置が与えられるものは存在しません。だから、大学教員はもはや授業をするとか、研究をするというとき、単に授業をしたり、研究をするだけでは済まされません。授業や研究をしながら、大学教員とは何か、大学とは何か、授業とは何か、学生とは何かについての言説を打ち立て続けなければなりません(これは教員だけによってではなく、様々な人々、制度、モノとの相互作用によってなされます)。

同様に、デザインするということが、何かをデザインするだけではなく、デザインするということがどういうことなのかという言説を含むことは必然です。これは最初に100年前にアートにおいて、デュシャンによってまず始まったことで、60年代以降の現代アートはすべからくこのパフォーマティヴィティ(行為を通して意味や現実を打ち立てること)を含まなければならなくなりました。現在のデザインも同様です。だから、デザインするということは、事前に定義できないのです。デザインとは何かという定義は、デザインの行為を通して打ち立てられるしかありません。

ここからが本題ですが、このデザインの定義はデザイナーが自由に提示できるものではありません。既存の拠り所が信憑性を失ったというのは、単に既存の枠組みが解体したというだけではなく、その枠組みに対する批判があるということだと思います。デザインやデザイナーがそれまで特別であったということに対する異議申し立てがあるように思います。この異議申立ては、ひとつには社会の中で既存の権利を持つカテゴリに対する一般的な批判ですが、もうひとつにはデザイン自体に内在するものです。つまり、デザインはあらゆる前提を問い直しクリエイティブに新しいものを表現するという行為であるという主張があるとすると、当然ながらデザイン自身の拠り所も問い直されます(学問も同様です)。現在において一切のエリート主義はその欺瞞を見逃されることはありません。

この状況で、デザインするという行為がデザインの定義をパフォーマティブに打ち立てるということは、必然的に自己破壊を伴うということです。つまり、デザインする活動は、デザイン自身を批判することが避けられないのです。たとえば自分のデザインはこれまでのデザインとは異なるのだという主張になるかもしれませんし、さらにデザインなんて無意味だと主張するデザインや、あえてデザインしないという方法もありえると思います。しかしながら、デザインを否定的に捉えるだけでは、カッコいいかもしれませんがつまらないものとなります。自己破壊をすることで新しいデザインの可能性を提示するというリスクに向き合った肯定的な実践こそが求められると思います。このニーチェ的なデザインが、デザインの最先端だと思います。これが須永先生のされていることを、私なりに解釈したものです。

デザインスクールは今月で補助金が終了します(プログラムは続けていきますので誤解のないように)。須永先生も東京藝術大学を退任されます。このタイミングでデザインの新しい姿が見えたことは、デザインスクールを一区切りするひとつの成果と言ってもいいように思いますし、須永先生が長いキャリアの中で積み上げてこられたものの重みを考えると当然のことのようにも思います。須永先生、これまでデザインスクールへのご尽力ありがとうございました。また、これから新しいチャレンジをされるので終りではありませんが、このようなお仕事を残されたことに感謝いたします。