Destructured
Yutaka Yamauchi

March 2016

サービスにおけるルーチンの達成

Yamauchi, Y., & Hiramoto, T. (in press). Reflexivity of Routines: An Ethnomethodological Investigation of Initial Service Encounters at Sushi Bars in Tokyo. Organization Studies.
http://oss.sagepub.com/cgi/reprint/0170840616634125v1.pdf?ijkey=yJmtzz3b9Kt0b6b&keytype=finite

鮨屋の論文です。データを取り始めてから5年ほど… エスノメソドロジー研究を組織論のジャーナルに出すには、まず最初全く理解されないところから始まり、それでも何か面白そうと思ってもらってなんとか耐え凌ぎ、リビジョンを8回ほど重ねようやくとなります。組織論のルーチンの文脈に乗せて書いています。

内容は、ルーチンにおける理解の食い違いです。つまり、鮨屋の親方は注文などのルーチンを当然のように提示するのですが、かなり高い水準を設定します(メニュー表がない、価格がわからない、作法があるなど)。当然ながらほとんどの客はそれに当然のように応えることができず、なんとか四苦八苦して応えるか、あるいは応えることができません。この理解の食い違いはルーチンに内在的なのですが、ルーチン理論ではルーチンに対する理解は一致しないといけないことになっているので、説明がつきません。そこで理解の食い違いはむしろルーチンにとっての前提であり、一致する必要はなく、その食い違いを参与者自身が再帰的に理解し、提示し、使用することでルーチンが達成されることを示すものです。

ルーチンの理解が一致しないことが、サービスの価値を高めることになり、客がどういう客なのかを示すことを可能にします。もし鮨屋のルーチンを客が簡単に理解でき実践できれば、客にとって日常に過ぎず、鮨屋の価値は毀損されるでしょう。客に理解されないルーチンを、ルーチンに(つまり当然のように)提示することが、サービスの価値を提示することになります。客はこの難しいルーチンに対して、できるだけ簡潔に労力を使わず、つまりルーチンに答えることが、自分の力を示すことになります。

そう考えると何がルーチンなのだろうかという問題に行きつきます。ルーチンは組織論にとって伝統的に最も基礎的な概念ですが、それが未だに研究されうるとは驚きですね。

かさね <襲>

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大阪の料理屋「
柏屋」のご主人松尾英明さんから新しい「襲(かさね)」をいただきました。日本の美意識である色の合せ方(襲の色目)による象徴的な表現をお菓子にしたものです。例えば、桜の季節では柳桜の緑とピンクを合わせます。それにより、柳と桜の混る春の光景が広がることになります。毎月新しい襲を作られていて、あまから手帖に載っただけで50種類以上、全てで100種類以上を作られたとのことです。

この襲は、料理の細部に重層的なストーリーを作り込まれる松尾さんらしい美意識の表現です。小さな四角の中に色が抽象的に配置されます。お菓子としてはこの絶妙な小さなかたちに表現すること、料理屋さんだからできる贅沢ですね。それを複数並べるというさらなる贅沢。一つの襲によって空間が広がり、それが複数並べられることで時間が流れ出します。

そして、一つひとつの襲にはそれぞれの意味があり、それが古来の伝統のテクストを参照しています。これらのテクストが考える暇もなく一瞬のうちに想起され、かつそれらのテクストが微妙にズラされ、伝統と季節が立体的に表現されます。しかもそれをパクっと食べろと要求される。黒文字でそれを無造作に突き刺した自分への違和感、そしてここだけでしか味わえない特徴のある様々な餡が混った味の余韻と、それを必死で識別しようとする自分、そしてそれが次第に消えていくときのぼわーっと現実に連れ戻される感覚、それらが全て一瞬のうちに通り過ぎます。

極限までシンプルにすることで、最大限の複雑さが表現できる。なんとも考え抜かれたお菓子です。

香港での出店、千里山のお店の改装、スーツを着た男性プロフェッショナルによるサービスという新しい取り組み、次の展開が読めない松尾さんですが、サービスを研究するものにとっては想像力の源泉です。

理性の狡智

在庫が尽きてきましたので、『「闘争」としてのサービス』の第3刷を作ります。この本の中で書いた文化のデザインについて、最近議論する機会がありましたので補足します。

サービスが根本的に矛盾であるということはすでにご紹介した通りです。つまり、サービスにおいては、顧客を満足させようとすると、顧客は満足しなくなります。この矛盾は、他でもよく見られるものの一つの派生型です。例えば、「痩せる」と謳っている商品を買って使うと多くの場合逆に太ります。それを使うと痩せた気になって気がゆるみ、結果的にまた食べてしまうからです。他には、信頼性の高い情報を提供するサービスを使うと、結果的に利用者が与えられた情報を信じてしまい、考えなくなり結果的に信頼性が失われること、情報のやりとりを効率的にするためにマトリックス組織を作りそれがうまく機能するほど、人々があえて情報を共有しようとする努力をしなくなり結果的に情報のやりとりが阻害されてしまう、などなどの事例があります。

なぜこのようなことが起こるかというと、主体が客体を見ているという主客分離の前提に立ってデザインする一方で、客体の中に主体が絡み合っているからです。サービスは客も参加して共創するわけですから、客がサービスの価値を問題とするとき、そのサービスに絡み合っている自分自身の価値もそこで問題とならざるを得ないわけです。

結果的に、特にサービスのデザインにおいて、というよりも一般的にはこのような内在性のある社会的現実のデザインにおいては、「理性の狡智」(ヘーゲル)とでも呼ばれるような事態が生じます。つまり、カエサルを殺して共和制を取り戻そうとしたその行為そのものが、カエサル(皇帝)、つまりアウグストゥスを生み出す結果となる。とりあえずヘーゲルを信じて歴史が理性的であるという前提に立つ必要はないのですが、基本的には何かの目標を達成するためには、人々はそれを「誤認」しなければならないということです。痩せるためには、太ると誤認して危機感を持つことが、結果的に痩せるという真実を打ち立てます。つまり、
Zizekが言うように、誤認が真実に内在的なのです。

以前
Re:public田村大さんから、夕張市の財政破綻が病院の閉鎖を余儀無くさせ医療崩壊をもたらしたこと、しかし結果的に市民が健康を意識するようになり、医療に依存しない生活を実現したことを紹介いただきました。つまり医療崩壊が医療のベストプラクティスをもたらしたわけです。もちろん現実はそんなに単純ではないということは理解しなければなりませんが、この事例は理性の狡智としてとても示唆的です。逆に一方的に人々によりよい医療を提供しようとしたのでは本当に目指した医療が実現できるのか、その努力を否定するのはとんでもない間違いですが、だからと言ってこの矛盾から目を背けるというのも間違いでしょう。主客を分離し、一方的に与えるだけのサービスでは、その目的は達成できません。

それではこのようなサービスをどのようにデザインできるのか? (とりあえず)そこでは何らかの弁証法的な矛盾をデザインしなければならないだろうと考えています。鮨屋が、かなり高い水準の知識と経験を前提とするような「文化」を構築し、ほとんどの客を否定し緊張感を感じさせることは、この矛盾を捉えギャップを作り出しているわけです。ここでは、この文化にふさわしい自分という目標が到達できない彼岸としてデザインされており、重要なのはそれに向かう「動き」そのものです。この動きがサービスであり、サービスデザインはこの動きを作り出すことです。このようなデザインは、Don Norman自身の言葉で言うならば、通常言われているような人間中心設計とは「正反対 reverse」となります。積極的に利用者の「誤認」をデザインしていかなければなりません。

以上のことを、『「闘争」としてのサービス』で書こうとしたのですが、うまく伝わらなかったかもしれません。もっとわかりやすく書かないといけないと思いますが、同時にわかりやすすぎてわかった気にならないように書くということを考えると、まだまだですね。

Montrachet 1983

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モンラッシェ (Montrachet)、世界で最も偉大な白ワイン。アレクサンドル・デュマが「脱帽し、ひざまずいて飲むべし」と言ったワイン。ブルゴーニュ地方のピュリニィ・モンラッシェ村で生産される。栗とハチミツの香り、琥珀色。すっと入ってくるなめらかさに、ブランデーのような力強さ。もはや言葉では表現できないあじわい。少し前に、橋本憲一氏が秘蔵にされていた、D.R.C.(Domaine de la Romanee-Conti)の1983年モンラッシェを開ける会に参加させていただいた。

モンラッシェは白ワインではない。今まで飲んだ白ワインは一体何だったのか? そのように思わせられるワインだった。以前バタール・モンラッシェ(Batar-Montrachet)を飲んだときの衝撃と同じ、そしてさらにそれを上まわる感覚だった。モンラッシェは白ワインの中で最高の地位をしめる。つまり、他の白ワインが目指すべきもので、これこそが白ワインの本質ということになるだろう。しかし、このワインは、白ワインと呼ばれるものを越え出ている。白ワインの本質は、もはや白ワインではない。

頂点に立つものは、その自分自身のカテゴリを越え出る。そういうことはよくある。サントリー名誉チーフブレンダー輿水精一氏がブレンドしたウイスキー「瞳」も、最高峰のウイスキーだろう。しかしそれを最初に飲んだときの感想は、「これはウイスキーか?」というものであった。頂点に立つということは、そのカテゴリの中で一番美味しいということであるが、すでにそのカテゴリの中には収まらない。

しかし、そうすると他の白ワインは一体何なのか? それはモンラッシェを目指しながら到達できない劣悪品ということになるのだろうか? ピエール・ブルデューが「まがいもの」と呼んだような、モンラッシェを飲めない人が代用するものだろうか。もちろんそういう側面もなくはないだろうが、おそらくそうではないだろう。輿水氏は「角」もブレンドされていた。そして輿水氏は、「角は自分の誇りだ」という。「瞳」を作ることができる輿水氏が、「角」が自分の誇りであるとはどういうことだろうか? 角は単に最高ではない品質の安い原酒をブレンドして、その範囲内で美味しくしたというような商品ではない。角は、「毎日飲んでも美味しい」というウイスキーである。毎日飲んでも飽きずに美味しい、そのようなウイスキーを作るには天才が必要であるし、相当の努力が必要だろう。

モンラッシェのようなワインを飲んだとき、自分が試されていると感じる。自分の仕事に同じぐらいの力強さがあるのか考えさせられる。最高の仕事をすることは、自らのカテゴリを越え出ることであり、そこには基準がないし、真似する目標もない。