June 2016

文化とは

文化をキーワードにして活動しているのですが、話しが噛み合わないことが多々あります。サービスは文化のゲームですし、グローバル展開において異文化間コミュニケーションが重要とされ、デザインでもエスノグラフィ(民族誌)が持ち出されますが、文化というものがあまりきちんと議論されていないように思います。私のイメージを説明したいと思います。

文化というと我々に染み付いた習慣や認知のパターンのようなものだという感じで議論されますが、これではあまりに漠然としています。私の文化に関するイメージは、常に不安定な中で表象され、交渉され、歪められ、押さえ込まれているようなものという感じです。一般に日本の文化とか言った場合、日本人なら誰しも体得している均質で統一的なイメージが想定されていると思いますが、それは文化を神聖化したいという我々の欲求を投影しているだけで、文化をそのようには捉えることは不適切です。

まず文化というものが、他者との関係において初めて意味を持つということを理解する必要があります。文化は基本的には我々にとって当たり前になっていることであり、客体としてそこにあって記述できるものではありません。例えば、我々日本人が箸で食べているとき、日本の文化だと感じたり表現することはありません。もしそのように感じたり表現するときには、必ず他の文化と接しているはずです。箸をあたりまえのように使わない文化の人と話しをしているなど。文化それ自体は決して表象できないのですが、同時に我々は文化を他の文化との関係の中で表象しようとして生きています。そしてこの表象を通して文化が打ち立てられるのです。文化という実体が表象の背後にあるという本質主義が拒否されるわけです。

つまり文化とその表象には、「他者」との関係が絡み合います。我々が文化を語るとき、何か誇りのようなもの、優越感のようなものを感じていないでしょうか? 文化を持ち出すということは、他者との関係を定義する行為です。他者に対して優越するということは、他者を否定し貶めることに他なりません。そして誇りや優越感が問題になるということは、裏返せば自己が脅かされているということです。そこで何とか文化が優れていることを主張しているというわけです。逆に言うと、この優越感は劣等感を伴っています。特に文化は根源(歴史とか伝統とか)を暗示しますので、その幻想に託して自分の拠り所とするのです--もちろんそのような根源は我々の欲求を投影した代補です。このような他者を前にした感覚は文化にとってはどうでもいい付随物ではなく、むしろ文化という概念の中心をなすものです。そしてこのことを突き詰めると、文化の表象というものは、自己に対する「不安」の中で、自己を示そうとする動きだということになります。ヘーゲルに依拠して
サービスは闘いであるということ(他者との相互主観的な闘いの中で自己を示すこと)と文化を結び付けて議論することの必然性がここにあります。

よく言われることですが、エスノグラフィとはある現場の文化を客観的に理解し記述することではありません。他者との関係で自己をあらためて理解することです。デザインにおいてエスノグラフィが意味を持つのは、デザインの対象となるユーザのニーズを理解するからではなく、デザイナーの自己が切り崩され、新しい自己を獲得し(ようとし)、新しい視座から世界を捉え始めることによって、革新的なデザインを導くからです。エスノグラフィは他者を表象の中に押し込めるものであり、他者を飼い慣らす政治的な行為です。エスノセントリズムを避けようとして、現場の人々が有能でありイノベーティブであることを示すような記述ほどエスノセントリックで暴力的なものです。別の社会の人について記述するとき、書き手の他者に対するイメージが写し込まれます。さらには、自分がどうありたいのかというイメージも写し込まれ、それは裏返しとして他者のイメージとなって表象されます。これは文化を表象するときには避けることができませんし、文化を議論する人は常にこの危険性と向き合わなければなりません。デザイナーがユーザを単純化してデザインする場合、そのデザイナー自身の持つ自分に関する不安と向き合っていないのです。

私は
文化のデザインを掲げて研究していますが、文化なんてデザインできないと反論されることがあります。しかしそのような反論では、文化は常に表象され続けているのであって、つまり全員が日々文化をデザインしていることが忘れられています。しかし反論にはもっと重要なサブテクストがあります。文化という概念には何らかの神聖な響きがあり、それをデザインという何か軽々しいもの(見た目とか美しさとかに関わるとか思われているようなもの)と結びつけることの違和感があるということだと思います(デザインという概念が何か楽しげであることが嫉妬を生んでいるということもあるのでしょう)。我々にとって文化は神聖であり、文化に対する恐怖があります。だからそれがデザインされると言われると反論するのでしょう。しかしそれは、文化というものが本質的には他者の反照としての自己の定義に関わるからであり、我々の不安に結びついているからです。むしろだからこそ文化のデザインを議論する必要があると考えます。

このような対象にデザインを結びつけるというのは、学問としてぎりぎりのところを追求しようという挑戦なのです。同時にデザインという概念が完全に修正されなければならないということは言うまでもありません。それについてはまた議論したいと思います。

ブログではここまでしか書けませんが、こんな雑な説明では余計に反発されるかもしれません。現在まとまって書こうとしていますので、それが進めばご案内します。

MBAから博士後期課程に進むことについて

経営管理大学院は専門職学位課程(経営学修士=MBA)が中心になっているのですが、毎年数名博士後期課程に興味があるという方がおられます。一緒に研究をしてくれる学生が増えるのはありがたいことです。一方で、本大学院の構造上、このような方々が大きな問題に直面します。このような道を考えておられる方に少しでも助けになればと思い、私の体験と個人的な意見を書いておきたいと思います。

まずMBAの授業と博士後期課程の研究とは全く別のものです。MBAの勉強を続けていれば博士号につながるという誤解が多いです。私は博士課程から米国のビジネススクールに行きましたが、MBAの授業は1つしか取りませんでした(ある先生との関係で取らざるを得なかったからです)。そもそもそれを求められてもいませんでした。唯一関連するのは、将来的にMBAの授業を教えなければならないということですが、そのやり方はTAをして学ぶことができます。本大学院でも博士後期課程は経営科学専攻であり、MBAの経営管理専攻とは別の専攻です。厳密にはMBAの上にPh.D.があるわけではありません(もちろんリーディング大学院デザイン学の5年一貫の博士課程を提供するという配慮しています)。

MBAではかなりの授業を取ることが求められます。しかし、MBAに入学し博士後期課程に進みたいと決めた人にとっては、その授業をこなしながら全く別の勉強、つまり博士の研究をしていかなければなりません。そして、この別の勉強の方がメインなのですが、MBAにいる間はそのためのリソース(授業など)は用意されていませんし評価もされません。これをやりきるには相当の努力が必要です。しかもこの二重の努力が必要なことを理解していないところから始まるので、三重のハンディがあります。ギアが入らないまま時間が過ぎていくという危険があります。

5年一貫の博士課程というと時間があるようですが、実はほとんど余裕がありません。例えば私がやっているような研究ではジャーナルに論文を載せるのに投稿してから2、3年かかりますし、その前に論文になるまでに2、3年はかかります(もちろん何でもよければもう少し早いかもしれません)。ということは博士課程にいる間に論文が採択されていることを想定すると(公刊論文があることが学位の前提となっています)、最初の2年の間には投稿する道筋がついていて、遅くとも博士の1年目の間には投稿しないといけないということです。しかしMBAに入ってから研究を始めようという人は、2年で最初の研究の目処をつけるのは不可能に近いものがあります。

とりあえず、修士1年生の間に自分の興味のある領域の論文を100本読むというトレーニングから始めています。これを通して1本でも自分がやりたいようなモデルとなる研究が見つかると、それと同じようなことをやっていけばいいということで見通しがつくようになります。どこの博士課程でもやっていることですが、それを多くの授業を履修しながらやっていくわけです。

自分もこの道に進むと決めてから色々悩み、諦めようと思ったことも多々あります。それだけシンドい職業だと思います(というとどの職業もそうですが)。ですので、博士後期課程に進みたいという方がおられると、やめておいた方がいいよと言いたい気持ちがあります。一方で限られた数ですが期待していたレベルをはるかに越える学生もいます。私が他人の人生を制限することの躊躇もあります。結局教員にできることはそれほど多くありません。

ホスピタリティとは

京都大学経営管理大学院は、従来からサービスの研究・教育を進めていますが、今年度から経産省のプログラムでホスピタリティの教育プログラム(インテグレイティド・ホスピタリティ教育プログラムの開発)を開発することになっています。その中でなぜか「異文化間コミュニケーション論」という授業が割り当てられました(この意味は最後に書きます)。

ホスピタリティ(歓待)は、単に他者を迎え入れることです。このことは社会の根底にある問題を指し示しています。他者の存在は、人にとっては根源的な意味を持ちます。人にとって他者は絶対的な外部性であり(自分のコントロールを越えたもの)、不安の源泉であり、かつ聖なるものです(宗教的意味ではなく)。そしてそれに自らを開き、無条件に(つまり見返りを求めず、名前を聞くことなく)迎え入れること。これは人間の倫理の始まりでもあります。現在の社会にはこのホスピタリティという概念が失われています。外国人に、移民に、異教徒に、同性愛者に対して… 受入れるのではなく、拒否をして自分の家を守ることだけが問題となります。イマニュエル・カントがホスピタリティを永久平和の基礎に置いたことが思い出されます。

ホスピタリティは歴史上、世界中のどの文化にも見られる営みです。不意に外からやってきたよくわからない他者を受入れもてなすこと。そのよくわからない他者を庇護し、精一杯の食べ物と飲み物でもてなし、自らの家族までも差し出し(不快にさせたらすみません)、去るときには贈物を与えること。自分たちを殺戮しにきたコルテスをもてなし、金庫を開き財宝を差し出すこと。なぜそのようなことが起こるのか? まず他者が神の化身であり、あるいは神から使わされたものであること、つまり見知らぬ他者が聖なるものであることを理解する必要があります。他者を迎え入れるということは、絶対的な存在を前に自らを無化することなのです。おもてなしやホスピタリティの逸話では、客を迎える人は貧しい設定となっているものが多いです。

一方でこのような無条件に見えるホスピタリティは、神への恐れから生じるのであり、時には贈物(イサクなど)をもらうのであれば、見返りを求めていることに他なりません。宗教的な意味がないとしても、他者の外部性がそのまま聖なるものとして妥当します。デリダが言うように、ホスピタリティの絶対的な唯一無二の掟(無条件にもてなすこと)と、実際にホスピタリティを命令する諸々の条件付の法(異邦人の権利などの法)には絶対的な矛盾があります。法の命令に従ったホスピタリティは、義務に従ったという意味で無条件の絶対的なホスピタリティではなく、何かを期待した、あるいは止むを得ずしている、つまり見返りや処罰を前提としたホスピタリティなのです。だからデリダは本来のホスピタリティは不可能であると言い、Pas d’hospitalité、つまり「歓待の歩み(pas)」=「歓待はない(pas)」と主張するのです。

つまり、永久平和の基礎となるホスピタリティやサービスで重視されるホスピタリティは、一般的に考えられているように、単に美しい営みではありません。カントが明記したように、ホスピタリティは「人間愛」の問題ではありません。そんなあやうい概念は学者の主張するものではありません。ホスピタリティは恐怖であり、不安であり、卑屈さであり、緊張感であり、矛盾であり、闘いなのです。ホスピタリティの語源が、ラテン語のhospesであり、見知らぬもの、敵としてのhostisあるいはhostilis、そして力としてのpetsに結びついていることは以前述べた通りです(デリダの議論ですが、もともとはバンヴェニストです)。

私はここから、自分の経験的研究と結びつけて、
サービスやおもてなしは闘いであると主張しました。その意味は、相互主観的な承認をめぐる闘争であり、弁証法的な自己の超克と生成であるということです。闘いのないホスピタリティは、他者を自らの世界に従属させ、他者の他者性を剥ぎ取っているのであり、もはやホスピタリティではありません。Réne Schérerが示したように、ホスピタリティとは他者を迎え入れることでありながら、その他者に迎えられることであり、自分を他者として生成することです。外部性としての聖なる他者と向き合い、自らが自らにとっての他者となること、これがホスピタリティなのです。

このホスピタリティが、現在の社会において、サービスという経済的な交換の関係においてどのような意味を持つのか? これを考え抜かなければなりません。上記のような根源的なホスピタリティは古代の文化であり、古代ですらも古びたものとして扱われたものであることは明らかですが、もはやサービスの文脈では意味がないのでしょうか? 私はそうは思いません。なぜなら人が他者と出会うという契機は変わらず我々に緊張をもたらすものであり、それがサービスの条件だからです。サービスの文脈でホスピタリティやおもてなしに関する議論が尽きないのは、人々がそこに何らかの神聖な意味を見出し、それを恐れを抱きながら求めているからであり、その不可能性を知っているからだと思います。そして何よりも今の社会に最も求められているのが、この本来の意味でのホスピタリティだからです。

このような議論を無視しながら、単に客を喜ばせるというような「ホスピタリティ」を語る理論は、単にサービスの理論として中途半端であるだけではなく、それ自身がホスピタリティを飼いならし無意味にする実践そのものなのです。そうではなく、ホスピタリティに関する理論は、ホスピタリティを実践しなければなりません。

「異文化コミュニケーション」という、自分にはほとんど言うべきことはないと思われるような授業がアサインされたわけですが、よく考えたら「ホスピタリティ」はまさに異文化間コミュニケーションの基礎ですし、私なりに独自の視点で授業を作れることに気付きました。このように実は自分に合っているのかもしれないことにアサインされること、いつもながらその慧眼には驚かされます… 授業では、まずはこのようなことを議論するところから始めようかと思います。