July 2016

ふたたび文化とは (そして学問とは)

先日「文化」について書きましたが、今日は別の観点から文化を議論したいと思います。それを題材に、最近書いてきた博士学生の指導の問題についても説明したいと思います。

レイモンド・ウィリアムズによると、文化(culture)はラテン語のcolereが語源ですが、そこには「耕す」・「住む」・「敬い崇める」というような意味があります。我々は文化という概念に何らかの神聖な意味を込めますが(文化は侵してはいけないとか自分の拠り所だとか)、この語源にすでに崇めるという意味があります。これは英語のcultという言葉になっていきます。文化が何か社会を超越した意味を帯びるのはここから始まったわけです。そして、耕すということが、自然を耕すということから、精神を修練・修養するという意味になっていきます。文化概念に先行する文明化(civilization)の概念にも重なりますが、基本的には教養を身につけるとか、洗練したふるまいをするなどの意味を帯びます。

さてここで重要なのは、精神の修養というような意味での文化が政治性を帯びているということです。市民が利害を持った個人として成立してくる歴史の背景から、国家という抽象的なものの中に折り合いをつけるために、人々を形作らなければならないというイデオロギーです。このような考え方は帝国主義などと結びついているわけです(植民者を文化的に修練していくことで支配するというように)。住むという意味のcolereはラテン語のcolonus(耕作民)となり、英語のcolony (植民地)につながっていきます。余談として我々の直面する状況に飛ぶと、政治家が文化を持ち出すとき、自らを超越的な立場に位置付けた上で他者を形作るという上から目線であることが多いわけですが、これは帝国主義の芽を含んでいます。そうでなくても文化・文明化が教養とか洗練さを意味するとき、文化に優劣をつけるという前提がひそんでいるので、そもそもの考え方が教養がなく洗練されていません。

ところで現在は文化が芸術の領域に退避している観がありますが、これは社会全体が資本主義の論理によって目的合理性が支配的なロジックとして浸透するなかで、宗教が特殊なものとして外に追い出され、政治、経済、科学など他の領域が脱神秘化したため、芸術しか超越性(神秘性)を担えないからです。芸術にその負荷を全て負わせるわけですが、芸術は当然それを担い切れません。そこで芸術は社会から自らを切り離し、そのアンチテーゼとして構築していきます。ブルデューが「負けるが勝ち」のルールとして説明した世界です。つまり、現世で成功をしないこと(特に経済的利益に無頓着であること)が成功となり、むしろ苦悩の人生を歩んで死んでから評価されるというようなことが理想の芸術家像に仕立て上げられるわけです。資本主義を否定して純粋さを獲得することで、自らを差異化せざるをえないわけです。ところで最近合理性のロジックでは事業も立ち行かなくなってきており(そんなロジックではもともと事業は成り立ったことはないのですが)、デザイン思考とかデザイナーが重視されるようになってきています。ここでもデザインを神格化してそこに全ての負荷を負わせようという動きですが、当然それは本来のデザインと反します。

さてここからが本題です。私が文化のデザインを研究テーマに選ぶとき、文化を何か特別なものとして神格化しているように見えますが、それは学者のあるべき態度ではありません。むしろ文化という概念を歴史化(historicize)すること、つまり文化を神秘的なものとして受け取るのではなく、どのように文化がそのような神秘性を帯びるのかという歴史を捉えることが必要だろうと思います。つまり文化に価値があるということを研究するには、まずその文化を解体するところから始めなければならないのです。
『「闘争」としてのサービス』も同じで、極端だとか偏っているとか言われますが、そもそもサービスを理解し革新するためにサービス概念を解体するという試みであり、その概念の前提から批判されても意味がないわけです。

これが学問というもののスタンス(イデオロギー)だと思いますので、博士課程の学生さんにはそのように研究するように指導しています。 単にひとつの例を挙げると、衰退する伝統産業をなんとかしたいと言う学生さんが来られることがこれまで何度かありました。このとき伝統産業を是としているわけですが、まずどのように伝統産業という概念が生まれそれが正統化され神格化されるのかを明らかにして、つまり伝統産業という概念自体を解体しなければならないというところから話しをします。本当に伝統産業をなんとかするのであれば、まず伝統産業というもの自体を解体しなければ失敗するでしょう。ただこのように指導すると、研究したいというモチベーションそのものを否定されることになるので、苦悩をもたらすようです。

ところで学問が実践に役に立つというのは厳密にはこの意味でそうなのであって、実践に役に立つようなツールを提供するからではありません。学問が実践に貢献できるのは、その実践自身を解体するということを通してということになります。

学生の受入れについて

最近研究室に来たいという学生さんをお断りすることが多くなってきました。せっかくアプローチしてきていただいているのにお断りするのは、お互いに気分のよいことではありませんので、その理由を一度明記しておきたいと思います。

これまでは博士に進みたいという方々は、ほぼ受入れてきました。しかしながら、それで数年間やってみて様々な問題が顕在化してきました。色々考えたのですが、当たり前のことが見えてきました。私のやっている研究が、内容的にも方法論的にも、そして根本的な視座の点からも、基本的には経営学ではメインストリームではなく、むしろそのメインストリームの研究を批判していく傾向があるということです。一方で、学生さんは本や雑誌を眺めて知っているメインストリームの経営学の内容を求めて来られます。

私も指導できなくはないだろうと思い、ひとまずは学生さんのやりたいことをやってもらって、私の視点でそれに何か面白いことを付加できればいい研究ができると考えていました。しかし、この後から付加するという部分が、学生さんがやりたいことの否定になることであったりします。私としては、そういう多面的な研究の方が面白いと思ってそういう指導をしてきたのですが、これが学生さんに苦悩を招く結果となることがわかってきました。

同時に私の研究はあまり評価されません(よくわからんことをしているという程度にしか見られません)。ということは、そうやって学生さんが研究をしたとしても、その結果が評価されにくいことになります。私は自分が重要だと思うことをやっていればいいと思いますし、それが自分の仕事のスタイルだと思っているのですが、そこまで理解していない学生さんに同じことを求めるのは正しくないということに気付きました。特に論文が通りにくいという致命的な問題、そして就職するときに自分の研究を理解されにくいことは、ほとんどの学生さんには抱えこめないリスクですが、そういう重要なことをこれまで気軽に考えすぎていました。反省しています。

そこで自分と同じ志向の学生さんだけに絞らなければならないという結論に達しました。同じ考えである必要はないのですが(同じ考えであればそもそも同じ志向ではないわけです)、リスクを取って同じような立ち位置を求めるような人ということです。結果的にほとんどの方をお断りしなければならない状況です。つまり、お断りした方々に問題があるわけではなく、私の方に許容するキャパがないというか、マッチングの問題です。ですので、他の教員とマッチングがあえば全く問題ないだろうと思います。

最後に、経営管理大学院の博士課程は必ずしも研究者養成を第一目的とはしていませんが、実際にはかなりの競争率になっているという状態で、受入教員として学者になりたいという方を優先したいという気持ちがあります。正直なところ、学位だけ取れればいいということですと、教員自身にとってメリットがないのです。教員が博士課程の学生に求めるのは、単に一方的に教えたいということではなく、自分の研究にゆさぶりをかけてその限界を乗り越えていくのを促してくれるような人材です。つまり博士の学位を取るということは、既存の博士を否定していく活動であるべきなのです。