January 2016

ブリコラージュについて

ブリコラージュ(bricolage)の概念は最近よく使われるのですが、多少の違和感を感じている方が多いのではないでしょうか? ちょうどある本(『EMCAハンドブック』新曜社)のひとつの章で書いたので、ここでも書いておきます。ブリコラージュというのはLevi-Straussによって広められた概念で、技術者(エンジニア)の方法に対比される概念です。つまり、ある目的のために概念的に何かをゼロから組み立てるような技術者的な合理性に対して、すでにある断片を寄せ集めて間に合せ的に組み立てる器用仕事を指します。このようなブリコラージュ概念は、とりあえず形にするというプロトタイピングを重視する昨今のデザイン思考に重なって特に議論されているように思います。あるいは、論理的に分析するアプローチから、意味不明の状況をなんとか断片を組み合せて理解可能に仕立てるというナラティブを重視したアプローチというのも同様です。

この概念に対する違和感というのは、DerridaのLevi-Strauss批判にもあるように、そもそも技術者的な方法に基づいてゼロから最適に組み立てるようなものがありえないこと、つまりこのような二項対立的な差異が崩壊すること、それによりブリコラージュ概念自体が意味をなさないことに起因します。私の研究に即して言うと、この本来存在しない差異を肯定した上でブリコラージュ概念を使うということは、ブリコラージュが常に神話化された技術者的理想の否定として議論され、結果的に技術者的理想の概念を引きずってしまう傾向があるということです。ブリコラージュ概念自体に全ての負荷を負わせ、技術者的論理の夢を実現しようとしてしまうことです。例えば、ブリコルールがデザイン思考的にありあわせの物を使って技術者と同等のものを作り上げる、さらには技術者よりも素晴しいものを作ることができるというようなときに、エスノセントリズム(民族中心主義)が際立ってしまうのです。

Levi-Straussの神話分析は、神話の脱中心性を主張するものです(それが「構造」で説明される矛盾をDerridaが批判するわけですが)。実際のブリコラージュとは、完成されない、断片的で、いつまでも意味の確定しない「遊び」ですが、この遊びは全体の構造を閉じた上での安全な遊びではなく、安全性を期待しない開かれた遊びです。中心を排除しようとする言説が、実はそれをノスタルジックに求めており、そもそもない中心に代補的に中心を設定することで、現実を一定の理想にあてはめることを志向していることになります。

ブリコラージュの概念を導入したJulien Orrの研究、それに関連してナラティブによる意味形成を議論したWeickやCzarniawskaなどの研究を私が(内在的に)批判するのは、以上の理由によります。ブリコラージュにより断片をつなぎあわせてストーリーを語るというとき、それが何か一貫した(coherent)意味のある全体性(meaningful whole)を構築するように記述され、あたかも語られる物語が完成しており意味が閉じられるかのように説明されてしまいます。この問題は、ブリコラージュをブラックボックスにした上でそれに全ての仕事を押し付けただけで、実際にブリコラージュの実践自体(例えば、語ること自体)を詳細に分析していないことに起因しています。ちなみに、これが内在的な批判であるというのは、そもそもこれらの研究者が脱中心化を目指したということがあり、彼らがそれと矛盾するものを導入したことによって目指したものに到達できなかったということ、それを乗り越えることで(敬意を持って)彼らの目指したものを実現しようとしているからです。

Yamauchi, Y. (2015). Reflexive Organizing for Knowledge Sharing: An Ethnomethodological Study of Service Technicians. Journal of Management Studies, 52(6), 742–765.