Destructured
Yutaka Yamauchi

February 2019

「価値」とは何か

最近「価値」について議論する機会が続きました。ちょうど『世界の食文化辞典』(丸善出版)に、「味のランク付け」という文章を書きました。並行して博士課程の佐藤くんが「価値づけ研究」で博論を書いていますし、先日のMBAの学生さんの発表でも「価値」が議論されていました。

何かのモノに本質的に価値があり、価値評価はそれを測定するという考え方は多方面から批判されてきました。価値はモノにあるのではなく、一つのパフォーマンスつまり動詞であるという考え方は、現在の社会においてとても重要だと思います。なぜかというと、現在の社会には何らかの価値を基礎づけるような大きな構造はすでに解体されており、様々なものがほぼ自由に結びつくようになっています。既存の枠組みで与えられた価値を語れない以上、我々は常に価値を定義する実践に従事しなければなりません。例えば、「社会的起業家」のような概念は従来の構造からすると自己矛盾ですが(社会的価値は資本主義的価値と相容れない)、今ではそれが自由に結びつき、その自己矛盾が価値となっています。しかし、社会的貢献をマーケティングとして利用しているだけでしょという批判にさらされますし、何か具体的な事業をした瞬間に「本当」の社会的価値ではないという矛盾をつきつけられます。そこで自分は本当に社会的事業を行っているのかを問うこと、つまり自分自身を否定し自分が何なのかを定義しようとするリスキーな実践が避けられないのです。

価値づけがパーフォーマンスであるというのは、Michael Hutterによる村上隆の分析を参考に考えるのがわかりやすいと思います(2年ちょっと前にコペンハーゲンビジネススクールに来られたときに初めて話しを聞きました)。村上隆は芸術家でありながら、ルイヴィトンのバッグをデザインしました。それだけ言うと、芸術とビジネスの境界があいまいになったというだけの話しで、今さら取り立てて言うほどのことはありません。それだけではなく彼は美術館での自分の展示の中で店を作りルイヴィトンのバッグを販売しました。どういうことでしょうか? これは村上隆がデュシャンピアンとして意図的に行ったデモンストレーションなのです。つまり、美術館という従来資本主義から距離を取ってきたものの中でビジネスをするというのは、芸術の定義に対する一つの批判なのです。それは自分がやっている芸術を無意味にするカッコいい身振りであり、(無意味になった)芸術家がデザインしたバッグとして高い値段をつけ人々に美術館という矛盾した空間で購入させるということの無意味さを批判するエリート主義なのです。つまり考え抜かれた天才的なリレーショナルアートなのです。(芸術の専門家ではないので適当なことを言っています…)

そして重要なのは、このような何重にも入り組んだ価値を否定するパーフォーマンスによって、村上隆という芸術家は自らの価値を高めていくことです。資本主義を批判すればするほど経済的価値が高まるという従来からの弁証法がありますが(落札した瞬間に破壊されることでさらに価値が出るなど)、この村上隆の場合は資本主義の原理を肯定的に最大限パフォームすることによって芸術そして自分自身を否定し、返す刀で資本主義を馬鹿にする(つまり批判している人も批判している)というパーフォーマンスが、批判をしないからこそ最高度の批判となりえることによって、自身の価値を高めるわけです。単に儲けることを批判するのはすではもう時代遅れで、「またか」と思われるだけで批判にはなりえないでしょう。

価値がパーフォーマンスであるというのは、何かに価値があったのではなく、価値は実践を通して遂行的に(performativeに)作り上げられるということです。これは逆に言うと、単純に自分の価値を高めようとする凡庸な実践は価値を落とし、あるいは価値を測定しようとする行為自身が価値を裏切ることになります。そのような価値を議論すると、そうは言っても最終的には経済的な価値に置き換えて測定できないと意味がないという批判がよくあります(例えば企業にとっての実務上の含意がなくなってしまう)。しかし重要なのは、その置き換えをどのようにするのかという実践が決定的だということです。経済的な価値に置き換えるという実践は価値に内在的なので、例えば置き換えないような実践が置き換えを可能にしますし、置き換えようとすると置き換えできなくなります。それを全て踏まえた上で、あえて経済的価値に置き換えようとするパーフォーマンスによって、たとえば経済的価値を批判してみせることで遂行的に価値を高めるというような二重の実践であれば少しは意味はあるとは思いますが、そこまで考え抜かれていませんし、そんなリスクを取る準備もないだろうと思います。

このような議論は芸術にのみあてはまるという反論はあるかと思いますが、そもそも資本主義の現段階において、一度市場に流通したものは一瞬に陳腐になってしまい、価値は市場の外にしかない(しかし市場の外など存在しない)という現実を直視する必要があります。つまり、現在のあらゆるものの価値が問題となっているのです。もちろん、空腹を満たす、A地点からB地点に移動する、病気を治療するというような「なくては困る」ものの価値は残りますが、それ以上の価値は根拠を失っています。我々にとっては、価値とは何かという定義の実践が価値に内在的であるということは、避けて通れない問題なのです。私が「サービスとは闘いである」と主張し、一見おこっているように見える鮨屋の親方は、おこっているからこそ価値が生まれるという話しをしているのは、この遂行性のことです。

以上のことを理解できない企業は、価値を生み出すことに困難を抱えるでしょう。行政も、たとえば文化の価値が重要であるとようやく理解し始めて予算をつけようとしていますが、そもそも予算をつけるという行為自体が価値づけに内在的であることを理解しないと、余計に価値を毀損するだけになる可能性が高いです。しかしながら実際にはほとんど理解されていないのが現実です。それは我々学者がきちんと伝えるという価値づけのパーフォーマンスができていないという反省でもあります。この程度のブログを書いているのでは全然だめというわけです。