Destructured
Yutaka Yamauchi

February 2018

サービスにおいて「見られる」ということ

よく聞く話しですが、サービス現場において客が店員に声をかけられることに抵抗感があることがあります。自由に買い物させて欲しい、何か買わないといけない雰囲気になる、などなど。アパレルのお店では、最近では声をかけてくれるなという意思表示を可能にするバッグがあるとか。我々のチームはサービスを研究するなかで、当然このような問題に直面します。クリーニング屋では、予期していなかったようなオプションを勧められるのは、何か売り付けられた感があり、少し緊張感が高まる場面です。この問題に対して、現場でどのように対応することで、スムーズに接客し、可能な場合には売上げを増やすことができるのかは、研究の過程でいくつか含意を議論することができます。しかし、今回議論したいのはそのような実践的な方法ではなく、サービスにおける客の「自由」の問題です。

おそらく客は店に来る前から、すでに店員に声をかけられることで自由に買い物ができなくなるということを予想・期待しています。店員の方々の視座から見るなら、店員は何も客の自由を奪うために声をかけているのでもなければ、売り付けようとしているわけでもありません。むしろ、店員は客に声をかけることにとてもリスクを払って、精神的な負荷を負っています。声をかけられた客からすると「また来た」と思っているかもしれませんが、声をかけるのは店員にとってもそれほど簡単なことではありません。

店員が客に話しかけるには、とても込み入った方法が必要となります。まず客を観察します。我々が調査をしたカジュアルなアパレルの店であれば、客の真横か少し後ろあたりに3メーターほどの距離を取ります。そこで品物の服をたたみ直したり、ハンガーを整理したりします。なぜこのようなことをするのでしょうか? まず、客を見るときに、凝視をしてはいけないのです。凝視は客の自由を奪います。そこで品物を整理したりすることで、自分は忙しいということを示します。忙しいのであなたを見ているわけではないということです。同様に、誰に言うともなしに「いらっしゃいませー」と空間に声をかける日本特有のやり方は、自分が目の前の客にではなく、他の客に注意を払っているということを示しています。見ていないフリをして客を見なければならないのです。

しかし客は同時に見て欲しいという思いもあります。店員の助けが必要となったとき、すぐにそこにいて欲しいのです。ピタっとつかれて見られると嫌なのですが、見ておいて欲しいということです。そこで店員は客の真横の周辺視野に入り、なんとなく存在感を意識できるところに位置して、忙しくしているフリをして客を見るのです。そして、その見られている状況で客がある商品の前で一定時間以上留まり、商品を手に取り始めれば、声をかけてもよいという相互の了解が出来上がります。

一方で、高級店ではどうでしょうか? 高級店では、店員は他の仕事をすることなく、静かに立って客を凝視します。調査した高級なアパレルのブランド店では、客を継続的に凝視し、服の陳列を一通り見終ったタイミングで近寄って声をかけます。客からするとこの間ずっと見られていることを意識します。かなりのプレッシャーですね。たとえば値札を見ることもできません。調査した店では女性のニットが15万円以上するのですが、客はそれを店員に聞かなければなりません。そして値段を聞いて驚いたフリをするわけにもいきません。

高級店では、いくら店員がフレンドリーに応対しても、かなりの緊張感を作り出すようにデザインされています。パリのヘリテージストアでは、このうわべのフレンドリーさすらもありません。一方でギャラリーラファイエットの中の店舗の店員が少しフレンドリーなのは、この二種類を意識して区別しデザインしているからです。また、この緊張感の中で自然に振舞えること、時にはルールを破って「自由」にふるまえることが、その客のレベルの呈示となります。むしろルールを意識しすぎて「正しい」ふるまいをする客は、慣れていない客なのです。

このようにサービスにおいては、「まなざし」がとても重要な要素となります。客にとっての「自由」は、客が求める「価値」と相反します。だから高級店では客の自由がなくなりますし、その不自由な状態で自由にふるまえる客を相手にしているというわけです。客は求めるものを求めると、それを手に入れることができず、求めるためには求めてはいけないという弁証法に直面しています。従来のサービス理論では説明されない側面ですが、むしろサービスの根幹をなすと言ってもいいと思います。一方で、高級店の緊張感はブルジョワ的価値を引きずっているのは明白で、近年この価値自体に陰りが見えるという側面も重要かもしれません。それでもまなざしの重要性は変わらないでしょう。

新しいMOOC (KyotoUx 008)で、実際のビデオデータを分析してもらって、このまなざしを議論しています。昨日収録が終了し、4月からランします。新しいMOOCの内容についてはまた時間のあるときに書きたいと思います。

相互主観性

私の研究では、相互主観性(intersubjectivity)を、組織やサービスに関連させて議論することが多いです。この概念を独自の用法で使っているので、少しとっつきにくいところがあり、質問されることが多いです。また私のジャーナルなどに出る論文はこのようなことをいちいち書かないので、ある程度整理して説明しておいた方がいいかと思いました。

サービスに関しては、私は図式的に次のように説明することにしています。サービスが定義として「価値共創」であるならば主客は分離できず、主体(客)は客体(サービス)に絡み取られているため、主体が客体について語るとき、自分自身について語らざるを得なくなります。だから、客がサービスの価値を云々するとき、客自身の価値も問題となるということ。つまり、客がどういう人なのか(who)ということが問題となるということです。サービスが闘争となるのは、このように人々が絡み取られることで、自分がどういう人間なのかを呈示し、否定し、交渉していくことを避けることができないからです。私が組織論の文脈で、ナラティブ、センスメイキング、ルーチンなどに絡めて、それぞれの人が自己呈示を行うこと、そして自己が状況に絡み取られているのであり、組織化や行為遂行性というものは、この自己の問題を前景化するものであるということです。この説明は相互主観性という概念を前提としています。

相互主観性というときに、フッサールの現象学を出発とするのがわかりやすいと思いますが、二つの意味があるかと思います。一つには、まず私が超越論的に構成する私の世界が、他者も自分で構成している同じ「客観的」な世界であるということをどう説明するのかということです。この点については、他者がその身体性でもって我々に現れるということから類比するという戦略、あるいは他者の存在を我々の存在の根源的・先験的なところにあることを認めるという戦略になりますが、どうもすっきりしません。社会学的には主体というものがすでに社会的に構成されているという主張に関連しますが、主体概念を解体するか棚に上げることにつながります。もう一つの意味があります。それは、もし私が私の世界を構成するなら、その世界の中にいる「他者」を私はどのように構成しうるのかという問題です。私が目の前の椅子を構成するようには、他者は構成できません。他者は私の世界を超出します。

つまり、主観性と相互主観性は相容れない水準の議論であって、主観性から出発して相互主観性を説明することは原理的に困難です。サービスが価値創造である限りにおいて相互主観性であると捉えるなら、主観性から出発することは失敗に終ります。価値をそれぞれの人が主観的に決定するとしてしまうと、そのような概念は誰にとってもアクセス不可能で意味がなくなってしまいます。この現象学の限界をふまえて、主に前者の意味から、主観性を棚に上げて社会理論を作り出そう試みが生じます。主体は置いておいて、人々の間の活動、つまりコミュニケーションに閉じて議論するというものです。たとえば、ルーマンのシステム論はこの方向性から出発していますし、ハーバーマスのコミュニケーション的行為の理論も同じように思います。この方向性は首尾一貫していて、主観性を社会の外側に出した上で、コミュニケーションというような社会的水準を基礎として社会を説明しようというものです。私はこの観点を避けることはできないように思います。エスノメソドロジーも他人の主観性(他の人が頭の中で何を考えているのか)を棚に上げて、それぞれの人がお互いに何をどう示し合うのかに着目します。

しかしながら、このように主観性を棚に上げた理論では、サービスの根幹を説明できなくなります。
以前にも書きましたが、なぜサービスが注目を集めるのかは、単に要求が満たされることの価値ではなく、「他者」に出会うという価値が欠かせないと思います。つまり、一方で他者に奉仕してもらう(させる)ことの価値であり、もう一方で他者との闘争の価値です。人々が資源を持ちより統合し、それぞれが便益を得ているという説明では、モノをやりとりしている伝統的な考え方に戻ってしまいかねません。サービスサイエンスがサービスシステムを、サービスドミナントロジックがサービスエコシステムを強調しますが、そこからは十分な距離が出ないと思います。たとえば、ルーマンのシステム論的には主体概念自体が避けるべきものですが、そうすると仮にセカンドオーダーの観察を導入したとしても、その観察対象者が言及の対象であるだけで、その存在は問われないことになります(そして言うまでもなく観察しているのは主体ではありません)。

そこで、もう一つの研究の方向性は、現象学の二つ目の意味に留まるというもので、しかしながら主観性の「認識」ではなく、その「存在」を捉えるという方向性です。ここでサルトルやレヴィナスなどが先駆的です。他者というものが、私の世界を震撼させそれを流れ出させ、私を私から脱け出せさるものであるという現象学です。我々が他者に出会うとき、我々は極度の緊張感にさらされます。この点は他者との出会いを、AさんとBさんの出会いという形で客観化するときには説明のつかない内容です。この説明は現象学によって可能となりますが、同時に相互行為の水準でも十分に議論できると思います。たとえば、ゴフマンは他者に対する自己呈示、例えば面子を保つというようなことを強調して社会学に革新をもたらしました。ここでのポイントは、客の主観性を顧客満足度やサービス品質に還元するのではなく、主観性が否定され脅かされる(主観性自体に否定を含む)という現実を捉えることです。これが弁証法を用いる根拠であり、冒頭の私のサービスの説明を可能とします。

さて問題は、主観性を避けることと他者を捉えるというこの両者をどう両立させるのかです。そもそも他者を扱う上では主体・主観を避けて通れませんが、主観性からは相互主観性を説明できません。結論から言うと、「実践論」でもって両立させるということになります。人々が呼び掛けに振り向くとき主体化が始まるのであるならば、相互主観的なコミュニケーションにおいては常に主体化が行われているわけですので、その過程を分析することができます。もちろん、主客分離に逆戻りしてこの主体が社会とは切り離された独立した存在であると捉える必要はありません。むしろ、主体は常に不断の主体化の過程で相互行為の中で現前しており、現象としての限りにおいて主体があると考えるのが自然であるように思います。つまり、相互主観性の水準で、主体をひとつのパフォーマンスという実践と捉えるわけです。そしてこの主体化の過程自体が、サービスの根幹をなします。つまり他者との関係で自身をどう定義付けるのかが、サービスの価値につながります。ここでエスノメソドロジーが有効な視座となります。

以上のような意味を込めて相互主観性という言葉を使っています。この一見取るに足りない微妙な領域に、豊かな研究の可能性が広がると考えています。サービスにおいて価値共創としてのサービスとは何かを、組織論において組織とは何かを追求すると、相互主観性の問題は避けることができないと思います。