December 2016

留学のすすめ

もうすぐ年が終りますね。しかし1月には論文や本の締切が5本あって、これまでになくヤバい正月になりそうです。

先日学部生の方が海外に留学したいので話しをしたいということで来られました。21歳とのこと。海外に出て行ったときの自分が懐しいです。どんどん海外に行って欲しいと言いながら、微妙な話しをしてしまったので、勝手にもやもやした気持ちになってしまいました。MBAに行きたいというので、MBAはもはや価値がないという話しから始まり、研究者になるなら博士で留学するのがいいと言いつつ、でも研究者の道はシンドいので勧められないという話しをしていました。とにかく海外に行って欲しいと言いながら、どこが一番いいかと聞かれたので、自分は今ではLAもベイエリアも住んで仕事をしたいと思わないという話しになってしまいました(だからと言って京都に住みたいということではありません)。自分の言っていることを否定していることに気付きました。

なんでこういう話しになったのか… とにかく海外に出て欲しいと思いますが、それは海外に出ること自体にはそれほど意味がないことを理解するためであるというなんとも弁証法的な事実を気付かされました。当たり前のことですが、海外に出るとそこが一つの自分の場所となるので、次にはそこから別の場所に行きたいと思うようになります。コスモポリタンであるということも、それが当然のことですので(みんなそうなので)、何の価値もありません。もちろんそれが簡単であるという意味ではありません。だからこそ、海外に出て行って欲しいと思います。

とりあえず海外に行けと言いながら、今はとりあえず行くということが難しい時代です。昔のようにとりあえずMBAに行けばいいというようなことは通じなくなりました。自分の専門性を決めて、それに合った留学先を考えなければなりません。例えば、自分が博士課程で勉強したUCLAでは、MBAを減らしながら(FEMBAを拡充しつつ)、ファイナンスなどの専門性を持った修士課程(Master Program)を作ろうとしています。MBAができる前には専門的なMaster Programがあったわけですので、MBA以前に回帰しているわけです(ランキングにはよくありませんが)。そういう専門性を目的とした留学はかなり成果があるだろうなと思います。他には、自分の周りでヨーロッパにデザイン系で留学される方も多いです。

また、基本的には留学というのはお金をもらってするものであって、自分からお金を払ってするものではありません。米国の博士課程では大抵何らかの奨学金がついてきます。最低3年間は奨学金とRA/TA、それ以降は選抜がありますが別の奨学金があります。私も関わっていますが、UCLA Anderson(ビジネススクール)ではNozawa Fellowshipというのがあって、日本人留学生に特化した支援をしています(MBAでも出る数少ない奨学金です)。デンマークでは国の制度として博士課程(Ph.D. Fellow)には年間500万円ぐらいの支援があります(それが大学にとって足枷となっているのですが)。

また海外に行く別の方法として、企業インターンの制度は非常に重要です。私が学生だった10年ぐらい前なら、企業の研究所がインターンを受け入れてくれました。私は修士のときにフランスのXerox Research Centre Europe (XRCE)に、博士1年目からXerox PARCに行きました。日本にいると考えられないですが、米国のインターンはかなりの給料がもらえます。そのころで月5,000ドル程度はもらえました。これはGoogle、Intel、IBM、HP、Sun Microsystems(もうないですね)などでも同様でした。今ではもっと条件がいいだろうと想像します(ご存知の方は教えてください)。もちろんそれなりの専門性があってこそ受入れられるわけですが、学生なので基準はそれほど高くないです。ビザもサポートしてくれます。お金の問題はどうでもいいとして、重要な経験になります。私の博論の3分の2はPARCで書きました(学位を取る前にXeroxに就職してしまいましたので必ずしもインターンだけではありませんが)。またフランスで過した体験はその後の人生にとても強く影響しています…

加えて、今は自分が学生のころから考えるとうらやましいぐらい、交換留学や大学が支援する留学の仕組みが整っています。かなり多くの方々がこのような制度で留学されています。データを見たわけではありませんが、自分が学生のころよりも今の学生は積極的に海外に出ているように思います。この相談に来た学部生もそれを利用して、2カ国ぐらい行くらしいです。素晴しいですね。自分の博士課程の学生にもできるだけ海外に行くように支援したいと思います(すでに3カ国行っていて、来年は4カ国目です)。

とにかく海外に行って欲しいと思います。

ヨーロッパのビジネススクール

今回ヨーロッパのビジネススクールをいくつか回って得た感想です。ヨーロッパの経営学は、北米の経営学とは根本的にスタイルが違います。もちろん、ヨーロッパでも米国中心のジャーナルに成果を出すことが求められますので、米国的なスタイルを取り入れているところも多くなりました。しかし、違いは歴然としています。

例えば、デンマーク、イギリスなどのビジネススクールでは、最低限知っていないと議論に加われない理論的な知識というのがあります。よく聞かれるのは、Nietzsche, Heidegger、Deleuze、Foucault, Agambenなどです。一日に2、3回はそういう議論を聞きます。経営学がヒューマニティの領域と密接につながっています。これは米国のビジネススクールではあまりないことのように思います(日本でも)。もちろん一般的にという話しであって、中には色々な人がいますが。

私は米国のビジネススクールでトレーニングを受けて、現在はヨーロッパ的な研究に寄っているようなところがあります。この両方を見て、バランスを取ることの重要性が大事だと思います。ヨーロッパ的な研究は微妙な差異に対して敏感に深いところを炙り出すことができスリリングなのですが、結局哲学的な概念を使うことの必然性がわからないものも少なくありません。結果的に論文にならないモノも多いです。一方で、米国的な研究の問題点はその裏返しで、わかりやすい研究ではありますが、逆に予想ができて面白さがないという感じです。

私なりの結論としては、経営学の研究者は2つの別の理論軸を意識的に分けて培う必要があります。
  • 理論1 貢献する対象となる理論。つまり経営学の理論。この理論の問題を炙り出し、その問題を乗り越えることで貢献します。
  • 理論2 理論1の問題を乗り越えるために依ツールとして拠する理論。ここで哲学が出てきてもいいですが、あくまでも理論1が貢献先です。

ヒューマニティに寄っている人々は理論2だけに力点を置きすぎて、読者にとって貢献がわからなくなることが多いです。何よりも理論1が貢献先です。私の場合、理論2は意識して利用していても、論文には明示的に書かない場合も多いです(例えば、Hegelなんかを論文に登場させる利点があまりありません)。むしろそういうnamedroppingをしないでも理論1への批判に筋を通すというエクササイズが重要です。

一方で理論1だけでは、深く前提を切り崩すような研究ではなく、薄っぺらい研究になってしまう傾向があります。なぜなら理論1を批判していくには、何らかの視座が必要となりますが、その源泉が理論2であることが多いからです。仮説を検証したとか、経験的に何か新しいことがわかったとか、帰納的にデータから概念を浮かび上がらせたというような論文となり、厚みがありません。

ということで、理論1と理論2の両方を意識して使い分けないといけないのです。自分の学生には、博士論文のために前者の理論1を完全に理解することは必須ですが、自分が今後依拠していくような理論2を2つぐらい作り上げて欲しいと思います。理論2は現状に対してかなり批判的に考えることができるような力強い視座がいいと思います。私の場合は(米国発ですが)エスノメソドロジーであったり、批判理論と呼ばれるようなものであったりしますが、Foucaultでも、現象学でも、ポストコロニアリズムでもいいと思います。

そのためにはかなり広く読んで理解した上で、自分の依って立つものを選ばないといけません。教員のガイダンスが重要だと思います。その後のキャリア全体にわたっての資産となるでしょう。一方でそれがないと、筋の通った学者のキャリアを作るのは難しいように思います。

もちろんこのような指導ができるようになったのは最近で、自分もかなり苦しみました(誰もそのように指導してくれなかったので)。

新しい本: 文化のデザイン

私ががらにもなくブログやFacebookを始めたのは、書いた本が売れないという悲壮な状況からでした(売れないというよりも読まれない理解されない)。版を重ねていますが...

その本の延長として、現在「文化のデザイン」について本を執筆中です。来年4月か5月にはできると思います。京都大学デザイン学の教科書シリーズ(共立出版)で、『組織・コミュニティデザイン論』(杉万俊夫先生、平本毅先生、松井啓之先生との共著)となります。デザインスクールの組織・コミュニティデザイン論という授業の内容を教科書にしたものです。杉万先生が40年間の研究の成果をまとめてコミュニティデザイン、平本先生には組織のデザインをお任せしています。私は文化のデザインと総論を書いています。松井先生は全体の仕切りをしていただいています。教科書とは言え、博士課程を想定したものですので、他には存在しないようなとんがった内容となっています。

なぜ「文化」なのかと思われているかもしれません。文化のデザインは、デザインの言説の次のステップとしては必然だと思います。まずは現実的なところから説明したいと思います。

現在経済的な価値というのは、商品自体では維持できなくなってきています。基本的には市場で流通してしまうと、シミュラークルの一部となり何かちっぽけなものでしかなく、特別な価値が失われる傾向があります。Boltanski and Chiapelloの議論に依拠すると、このような状況で価値を生み出すとすると、市場で取引されていないものを取り込むしかないわけです。つまり文化、芸術などです。特に芸術は経済原理と反する理論を構築し自律化してきた背景があります。

資本主義はこの段階においては完全に矛盾しています(いつもそうですが)。つまり自らが排除してきたもの(市場の外のもの)にしか、価値を生み出す源泉が存在しないというアイロニーです。現在企業がデザインに注目していますが、それは資本主義のこの段階の当然の帰結です。デザインという概念によって、資本主義にとっては本来外部性であるところの芸術の価値を取り込もうとしているのです。デザイン思考を提唱している人はこのアイロニーを理解しなければなりません。

だから今こそ文化のデザインなのです。というか、それしかいないとも言えます。企業が今後価値を生み出すとすると、何らかの形で文化のデザインに関わらざるを得ません。文化のデザインが必然であるとはそういう意味です。間違いなく、文化をうまく捉えて作り上げた企業が次の時代をリードします。逆にそれができないと、常にコスト競争にさらされるでしょう。

次に、文化のデザインがデザイン学にとって重要となる学術的な理由を説明したいと思います。デザインの言説は、他のあらゆるものと同じように近代からポスト近代への移行に悩んでいます。昔はプロダクトやグラフィックというモノのデザインで閉じた領域でしたが、その後で体験のデザイン、サービスのデザイン、言説のデザイン、社会のデザインというように広がってきました。デザインが単にモノのデザインをしていたのでは価値を維持できなくなったのです。

しかしその理由は別のところにあります。ポスト近代に入るにつれて、デザインの対象が確固としたモノではなく、何かわけわからないものになってしまったということです。つまり近代にはぎりぎり維持することのできた本質主義(背景に何か本質的な実体があるのではないかという考え方)を維持できなくなり、何か本質的なものをデザインすることができず、デザイン自体がデザインするものの意味を問わざるをえなくなりました。ここにデザイナーの不幸が始まります。つまり、デザイナーはデザインするだけではなく、デザインとは何かについて絶対に答えの出ない問いに答えなければならないのです。

私はこれは祝福すべき発展だと思います。つまり古臭い近代のようなものと手を切ることができるわけです。しかし本質主義から本当に手を切るのは至難のわざです。サービスデザインもいつまでたっても人間中心設計を捨てきれません。社会のデザインというときに、何か実体的な「システム」や「制度」のデザインに落とし込むような安易なデザインに陥ってしまうのでは意味がありません。

そこで文化のデザインです。つまり、文化という最も本質主義から離れたもの、つまりデザインできないと思われているものをデザインの対象として据えることで、本質主義から手を切ろうということです。つまり文化のデザインを掲げるのは、研究上の戦略なのです。文化のデザインができないなら、デザイナーの生きる道はないでしょう。私はデザイナーではありませんが、デザインに貢献したい思いから、意図的に文化のデザインを掲げているのです。

その内容はブログで徐々に説明していきたいと思います。

ビジネススクールの教員の給料

いろいろ考えさせられることですので... 下記はたまたま周りから聞いた話しですので、あしからず。またビジネススクールに限った話しです。

米国のビジネススクールの教員の給料は、日本の(国立大学法人の)教員の給料と比べものになりません。フルプロフェッサーで150k USD(1,600万円)あたりが相場でしょうか。チェアがつくと倍になります(つまり300k)。

英国のビジネススクールは、現在の為替レートで日本の国立大学の給料より2割ぐらいいい感じでしょうか(
高山佳奈子先生が45歳940万円ですのでそれと比べて)。1年前の為替なら全く話しが違って5割ぐらいの差になります。プロフェッサーで、75k-100kポンドのレンジです。

イギリスからデンマークに移った人に聞くと、交渉したけど給料が減ったと聞きました(Brexitの前)。色々な要因によると思いますが、デンマークの方が若干低いというのは意外でした。デンマークはそもそも職業間の差が比較的に少ないです。またデンマークは税金が高そうに見えますが、外国人は5年間税金が優遇されますので、それほど悪い条件ではありません。

フランスは一般的に大学教員の給料は問題があるぐらい低いのですが、(グランゼコールの)ビジネススクールはある程度の水準にはなります。さらに、トップクラスの英文ジャーナルに論文が通ると1本につき10kユーロのボーナスが出るところもあります。アジアの国に多い制度ですが(タイだとUSD15k)、バカにならない額ですね。

ただし海外の大学の給与は交渉などで変化します。イギリスで学内の重要な仕事についた知り合いは120k(1,700万円程度)です。別のイギリスの知り合いは交渉して破格な給料をもらっていて170k(2,450万円程度)です。これはかなり例外です。この方はかなりの研究資金・寄付金を集める力があります。それから副収入もありますね。

余談ですが、米国と勝負をしようとするシンガポールは著名な研究者の招聘に力を入れています。ある場所では大物を年収1億円ぐらいで招聘しようとしたという話しも聞きました(国立大学です)。

ちなみに上記はフルプロフェッサーの話しですので、私は准教授で年齢的にも上記の水準より
はるかに低いです。何の文句もありません。6年前にシリコンバレーから戻ったときにちょうど半分になりましたが(大学ではなく企業でした)、税金も生活費も日本の方がかなり低いです。

日本の国立大学の教員の給料水準は低いし改善の余地はありますが(特に海外から呼ぶために)、逆に自分が重要だと思う独自の研究にこだわることができる側面があります。シンガポールのように高い給料を用意してグローバルで勝負をしようとすると過度な競争となり、全体的に面白い研究よりも論文を出すための研究が重視されます。それはなんとしても避けなければならないところですので、その意味でも給料だけを問題にしない方がいいように思います。そのあたりをヨーロッパの人々はよくわかっていました。

せっかく低い給料をもらっているのなら、他の人の評価を気にせず、自分が重要だと思う仕事をしましょう。どちらもなければ不幸ですね。

サービスデザイン特論 (博士後期課程)

帰国しました。日本はあたたかくて明るいですね。ところでデンマーク・クローネがどんどん上がっていますね

3月までサバティカルですが、今年設置された
博士後期課程の授業「サービスデザイン特論」を今週末2日間集中講義で実施します。この授業は私のMOOCを受講してもらった上で、サービスおよびサービスデザインについて議論するという「反転授業」です。教科書は『「闘争」としてのサービス』です... 文化のデザインについて現在執筆中の本の原稿も使いながらやります。色々試験的な試みです。

デンマークに4ヶ月おりましたが、サービスデザインについてはほとんど何も勉強していません。スミマセン(誰も期待していないとは思いますが)。たまたまLive Workの人とは会って議論しました。人間<脱>中心設計について講義をしたら好評でした(これについては
マーケティングジャーナルの論文が入手しにくいということで、短いものを今度出るサービソロジー第12号に書きました)。一方で、文化のデザインについてはかなり進展しました。『「闘争」としてのサービス』の内容を基礎として、それを発展させる新しい研究プログラムを構築するということはできたように思います。またご報告します。

先駆けて、いつものぶっとんだデザイン理論を博士課程の学生さんにぶつけます。どうなることか、楽しみです。来週はシンガポールです。