April 2016

補足: SDLがなぜInstitutionを議論しているのか

先日のBlogについてFacebook上で議論になったので補足しておきます。

サービス・ドミナント・ロジック(SDL)がなぜInstitution(制度)のようなものに議論を広げているのかという点です。これに違和感を感じている方は多いのではないでしょうか。この動きは理論の前提からすると必然だと思います。まず価値がSDLの根幹にあるわけですが、SDLは価値を主観性から説明します。つまり、価値は受益者がユニークに、現象学的に決定するということになるわけです。というのは、価値はモノに埋め込まれたものではないからです。しかし、そうだとすると、価値は誰にも知りえないものとなってしまい、理論が空虚になってしまいます。そこで、「だけど価値はランダムではない」と主張せざるを得ないわけです。

しかしランダムでないなら、一体何なのかが問題となります。それを説明するには、制度によって決まるという言い方をせざるをえないわけです。ここでGiddensを持ち出すわけですが、その制度とは社会的な実体として存在するのではなく、行為の中にのみ存在するということになりますが、その行為がある程度構造化されているというわけです。ですので、ランダムではないが、各主観性が決定するという中間的な説明になります。しかしそのように説明した後は、あたかも制度が決定するかのように、一気に制度を実体化した議論に飛躍していくわけです。社会学の永遠のテーマですね。

しかしながら、そもそもの問題は価値を主観性から議論したことにあるのであって、私は最初から価値を相互主観性の水準で捉えておけばいいと主張しているわけです。それであれば、制度のような概念に依拠しなくてもすむわけですし、全て実践の中で説明がつくわけです(もちろん制度概念自体に異論はありません)。

このような重箱のすみをつつくような議論はどうでもよいと思われるかもしれませんが、我々が一般的に用いている「価値」や「サービス」という言葉は、実は我々の幻想を写し込んだ概念だということです。我々が重要だと思って使っている概念はどれもそんなものです。

客はサービスの内部か外部か

先日のサービス学会のときに平本先生や佐藤くんの発表に関して、村上輝康先生と興味深いことを議論しましたので、整理しておきます。

まずサービスというものを、客や提供者(あるいは受益者)の主観性から出発すると理論が破綻するということを主張しました。それはサービスが価値共創であり、人々が相互作用を通じて様々な資源(それらの人々自身も資源である)を統合するというとき、主観性ではなく相互主観性の水準で捉えなければならないからです。Vargo & Luschが価値は「受益者が現象学的に決定する」というとき、フッサールの相互主観性の議論が想起されるわけですが、フッサールは(超越論的な意味での)主観性から出発して相互主観性を説明しようとして、一般的には不十分な結論に至ったように思います。つまり、結局他の人が見ているものと自分が見ているものが一致するということは前提でしかなく、それがどのように達成されるのかは説明しきれなかったように思います。相互主観性の水準の現象を説明するには、最初から相互主観性を前提に始めなければなりません(ここのブログで書いてきたように、組織論にとってルーチンについても同様の議論をしています)。

山内 裕, & 佐藤 那央. (2016). サービスデザイン再考. マーケティングジャーナル, 35(3), 64–74. (入手しにくいようですので、必要であればご連絡ください)

受益者や便益をモデルから切り出して外部に位置付けることは一つの有用な選択肢ではないかという話しがありました。上記のように、受益者自身も資源であるため、実践の内部として扱い得るし、そうするべきだというのが我々の主張です。一方で、受益者を外部として措定するということは、実は特に反論することなく受け入れることができます。なぜなら、その場の人々自身が、他の人がどのように評価するのかについては完全に知り得ないものとして扱う限りにおいて(相手の考えをおそるおそる探るなど)、その場の人々自身が受益者を外部性として直面し、その複雑性を縮減してなんとかやっているからです。そもそも我々はサービスという相互主観性に着目しているのであって、ルーマンに従えば個人の主観性はそのサービスの外部(システムの側ではなく環境の側)である必要があります。ですので、便益をモデルの外部に置くというのは、かなり鋭い判断というわけです。

しかし、この外部性自体は、彼らにとっても研究者にとっても不可知ではなく、経験的に相互主観性の水準で記述することが可能です。つまり、おそるおそる探る方法を記述できます。ちなみに
『「闘争」としてのサービス』でレヴィナスに依拠して他者の外部性を取り込もうとしたのは、この意味を強調したかったからでした。ただしこの外部性もあくまでも現前するということです。

何が外部で何が内部なのかというのは単純な切り分けではありませんね。基本的には理論の中に外部性を位置付ける余裕を持たないと、とてもキケンなものになってしまいます。闘争というのは外部性を研ぎ澄ませた概念ですが、そうではなく美しい全体性を主張する方がキケンなのです。

経営学とは

また新学期が始まり学生さんが入ってきました。この時期は色々な方々に経営学のことを説明するのですが、若干のずれを感じるときがあります。

世の中で「ビジネススクールに行っても経営ができない」とか「実務に役に立たない」というような批判が聞かれますが、そもそもそのようなことを教えることを目的とはしていません。経営学はあくまでも学問です。「学問」であるとは、世界をどうするのかという方策や、また世界がどうなるかの予測ではなく、世界が可能であるための「前提」について考えることを意味します。私はMBAの授業でも、そのような前提についての問いを投げかけて、考えていただくところから始めることを意識しています(結果的に学生からの評判はよくないですが)。

実際に我々のビジネススクールには、成功された経営者の方々が毎年何人か入学されます。これらの人の経営能力は繰返し証明済みです。同時に、経営学を教えている教員は経営ができるわけではありません(できる人もいるかもしれませんがそれは偶然です)。その中で双方がビジネススクールに存在意義を認めるとすると、それは経営のやり方を教えるという意味ではなく、経営についての前提を問うことができるというだけにすぎません。学者は中立な立場から客観的に経営について分析することができる(そしてそれを考えることとそれをするということは違う)というのは正しい説明ではありません。そんなことは学者でなくてもできます。あるいは経営学で議論されている最新の知見を教えるというのも存在理由にはなりません。そもそもそのような知見を批判することを仕事としているはずです。

だからと言って、学者は自らリスクを負わず、学問のために学問をするべきでもありません。自分が研究の対象とする世界の中に含まれており、距離を取って特権的な地位に立つことはできないからです。自分がそして自分の理論が世界の中でどういう位置付けにあるのか、どういう前提をどこから引き継いでいるのかを常に考え続けなければなりません。世界が可能であるための条件を探究し主張する理論は、本来的にわかりにくいものであり、人々に違和感を与えるものであり、必ず拒否されるものです。人々が聞きたいことをカッコよく言うのは学者の態度ではありません。学問の自由について
本学の山極総長の式辞でも触れられていますが、私なりに違う言い方をすると、学問の自由というのは特権を与えられて好き勝手なことをするということではなく、人々に認められず、批判され、否定されても、仕事をやりとげる自由です(ところで、憲法に書かれていてもそんな自由は誰も保障してくれません)。そうやって考え抜いた理論が社会に対して唯一の貢献となるのですが、そのときその理論は社会からは否定されるのです。

ちなみに、多くの学問の中では経営学はあやしげなものと見られることがあります。つまり、経営という実務的な目的のために浅い研究をしているというように見られています。経営学を学問としてやっている教員は、必ずしも利益を上げる経営を無条件に正とはしていませんし、学者である限りにおいてはそのような前提を受入れるのではなく、その前提こそを探究するものです。経営学者こそ、経営というものに対して最も批判的であるはずです。それは単に経営というものを俗っぽいものとして切り捨てるような安易な批判ではなく、経営の前提を考えつくした上での経営の内部の視点からの批判です。

なお、当然ながらこれは私の個人的な考えです。